盧溝橋事件

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盧溝橋事件

盧溝橋の国民革命軍部隊
戦争日中戦争 / 支那事変
年月日1937年(昭和12年)7月7日
場所盧溝橋とその近郊
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
支那駐屯軍 国民革命軍第二十九軍
指揮官
田代皖一郎中将 宋哲元第二十九軍軍長
戦力
兵員:5,600 兵員:100,000
損害
戦死:600余名 戦死:16,700

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日北京[1]西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[2]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[3]。この事件は日中戦争[4]直接の導火線となった[5]中華人民共和国愛国教育では7月7日国恥の日として教えられている[要出典]

目次

[編集] 事件前の状況

[編集] コミンテルンの人民戦線と中国

1935年7月25日から開会された[6]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[7]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[8]。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[9]。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蒋介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[10]。西安事件翌月の1937年1月6日に南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[11]

[編集] 南京政府による中央集権化と反日の動き

1937年2月に開催された中国国民党三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[12]。地方軍閥に対しては山西省閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[13]、金融問題によって反蒋介石側だった李宗仁白崇禧を中央に屈服させ[14]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[15]宋哲元冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[16]

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[17]上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[18]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[19]対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[20]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[21]

[編集] 第二十九軍

日本軍と衝突した国民革命軍第二十九軍は1925年以来西北革命軍として馮玉祥の下で北伐に参加、1928年宋哲元陝西省主席就任にともなって陝西に入り、1930年蒋介石との戦いに敗北し、1932年宋哲元察哈爾省主席就任時に全軍は河北省に移動、さらに満州事変における抗日戦に敗れて以来、抗日運動に積極的な姿勢を示し、1936年6月中央軍撤退を機に河北省に進出して北京・天津を得て兵力十数万となっていたが兵の質が悪く、張北事件、豊台事件など多くの抗日事件を起こしている注意すべき軍隊であった[22]。盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[23]

また、二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[24][25]、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[26]。副参謀長張克侠[27]をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[26]

[編集] 日本軍

中国北部における日本の権益と北平・天津地方の在留邦人の生命財産を保護する任務を負った日本軍北支那駐屯軍は[28]天津に主力を、さらに北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつをおいていたが、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲のため連日演習を続けていた[29]

[編集] 事件の概要

日本陸軍省の発表によれば[30]1937年7月7日夜日本軍支那駐屯軍所属の豊台駐屯部隊の一部が北平の西南約12kmにある蘆溝橋の北側で夜間演習を実施中、午後11時40分頃蘆溝橋の中国兵から突如数十発の射撃を受けたため同部隊はすぐに演習を中止して部隊を集結させて状況を監視すると共に上司に急報した。

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及び冀察外交委員会専員林耕雨等も中佐と同行した。これに先立って豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。

午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は8日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撒退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。

11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び蘆溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

[編集] 事件の経緯

[編集] 7月7日

予定されていた戦闘演習検閲のため、この日も北平守備隊主力は北平の牟田口部隊長に率いられて北平の東にある通州において、豊台駐屯部隊の一部も豊台の西2Kmで盧溝橋の北側において夜間演習を行っていた[31]

  • 22時40分頃:盧溝橋付近に駐屯していた国民革命軍第二十九軍に属する第三十七師[32]第二百十九団の一部は盧溝橋の北およそ1Kmの龍王廟に陣を構えていたが夜間演習中の日本軍守備隊に対して数十発の不法射撃を行った[33]。演習中の日本軍守備隊隊長は隊員を集合させ人員検査を行い被害のないことを確認した上で敵の射撃に応戦する態勢を取らせ、豊台の駐屯部隊に急ぎ連絡した[33]。豊台の部隊長は部下と共に現地に赴き中国軍に無法な行為について詰問抗議すること、事件を知った牟田口部隊長は部隊で演習に参加しなかった者を北平東側に集合させ、森田中佐に冀察側外交委員会の代表を現場に同行させて謝罪、事実確認などの交渉を行わせることが決められた[33]

通州方面で演習を行っていた北平部隊は集結命令によって現地に急行しようとしたが、事件発生とともに通州街道につながる北平朝陽門は中国軍によって閉鎖され、部隊の移動が阻止された[34][35][36]。また中国軍は北平郊外南苑の日本・中国間の連絡飛行に使用する飛行場も占拠し[36]、豊台・天津間と豊台・北平間の日本軍用電話線[34][35][37][38]も切断され、北平・天津間の一般電話も不通となっていた[35]。このため事件が計画的であったことは明らかとの見解が示されている[34][35][23]

[編集] 7月8日

<現地の動き>

  • 3時25分:竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に接近し過ぎて発砲を受けたと見られている。
  • 4時00分:日中合同調査団が北平を出発。メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳2名・1個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始した。
  • 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。大隊長はこれを受けて歩兵砲の砲撃を命令したが、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐の命令によって、砲撃はいったん中止された。
  • 5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。
  • 約2時間後、現地での激戦は一旦収束。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。

<日本の政府及び軍上層部の動き>

  • 早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。以降中央では、これを機に中国に「一撃」を加えて事態の解決を図ろうとする拡大派、対ソ軍備を優先しようとする不拡大派のせめぎあいが続く。
  • 18時42分:参謀本部より支那派遣軍司令官宛、「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と不拡大を指示する総長電が発せられる。これは、参謀本部の実質的な責任者であった石原莞爾少将の主導によるものであった。

[編集] 7月9日

<現地の動き>

  • 2時00分頃:「とりあえず日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は西岸」へ、との日本側の「兵力引き離し」提案を中国側が呑む形で、停戦協議が成立。撤退予定時刻は当初5時00分であったが、中国側内部の連絡の不備からその後も戦闘が散発し、最終的な撤退完了は12時20分頃までずれ込んだ。

<日本の政府及び軍上層部の動き>

  • 8時50分頃:臨時閣議。陸相より3個師団派遣等の提案が行なわれたが、米内海相などの反対により見送りとなった。
  • 夜:参謀本部より支那駐屯軍参謀長宛、「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」「将来の保障」「直接責任者の処罰」「中国側の謝罪」を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって発せられる。

[編集] 7月10日

<現地の動き>

  • 前日の次長電を受けた形で、橋本群参謀長は中国側に対して、「謝罪」「責任者の処罰」「盧溝橋付近からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする要求を提出。以降、この内容を軸に交渉が継続される。

<日本の政府及び軍上層部の動き>

  • 午前:参謀本部第三課と第二部が「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが、最終的には石原少将も同意、案は陸軍省に送付された。「国民党中央軍の北上」「現地情勢の緊迫」の報が実態以上に過大に伝えられたことが、派兵の決定に大きな影響を与えたと言われる。

[編集] 7月11日

<現地の動き>

  • 20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)。

<日本の政府及び軍上層部の動き>

  • 11時30分:五相会議にて、陸相の「威力の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地3個師団派兵等の提案が合意された。
  • 14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。
  • 16時20分:近衛首相葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。
  • 18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。
  • 21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。

本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであったが、現地情勢を無視した政府の派兵決定は、拡大派を勢いづかせ、また中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となった。

[編集] 7月12日以降

19日、蒋介石は「最後の関頭」演説を公表して、抗戦の覚悟を公式に明らかにした。以降、25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日には北支における日中両軍の全面衝突が開始された。

[編集] 1発目を撃った人物

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている[39][40]。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえないとの見方が大勢である[41]

一方でサーチナ(2009年5月15日付)によると、広東省の地元紙・羊城晩報に掲載された論説で「中国共産党陰謀説」を「荒唐無稽な説」としながらも、「劉少奇が盧溝橋事件を起こした」「劉少奇が盧溝橋で、日本軍と戦った」との記述が、共産党支配区域で配られた「戦士政治読本」と言うパンフレットに確かに書かれているとし、その理由としては「われわれ中国人の伝統的ないい加減さ」により書かれたものであると論じていることが伝えられた[42]

[編集] 事件直後の延安への電報

元日本軍情報部員である平尾治の証言によると1939年頃、前後の文脈などから中国共産党が盧溝橋事件を起したと読みとれる電文を何度も傍受したため疑問を抱いた。そこで上司の情報部北京支部長秋富繁次郎大佐に聞くと以下の説明を受けた。

盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。その内容は「成功した」と三回連続したものであり、反復送信していた。無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。

さらに戦後、平尾が青島で立場を隠したまま雑談した復員部の国府軍参謀も「延安への成功電報は、国府軍の機要室(情報部に相当)でも傍受した。盧溝橋事件は中共(中国共産党)の陰謀だ」と語っている[43]

これに対し、安井三吉は、この電報は、1) 平尾や秋富自身が受信したものもないこと、2) このような話が当時の軍関係者の回想、文書のなかに全くでてこないこと、3) 支那駐屯軍がこの事実を把握していれば、当然反中共宣伝に利用したと想像できるにも関わらず、そうしたことがないことの3点を挙げ、このような話が事実であったかどうか疑わしいと述べている。更に、4) 1937年当時の平津地区と延安との無線連絡は、華北連絡局のルートで、天津から行われていたことが明らかになっていること、5) 事件発生当日の深夜における盧溝橋の現場と北京大学間の連絡方法が不明であること、6) 午前3時25分まで日中両軍には何の問題も発生しておらず、「成功した(成功了)」などとはいえないこと、7) 中国共産党員がこのように重要な連絡を平文で打つとは考えられないこと、加えて、『戦史叢書 北支治安戦』383頁において、横山幸雄少佐が、「中共の暗号は重慶側と異なり、その解読はきわめて困難であったが、昭和16年2月中旬、遂にその一部の解読に成功した」と述べていることを挙げ、平尾の回想(録)を以て、中共「計画」説の根拠とするのは飛躍があるといわざるをえない、と結論付けている[44]

[編集] 脚注

  1. ^ 当時は北平と呼ばれていた
  2. ^ 日本政府 1937 p.1
  3. ^ 葛西 1975, p.5
  4. ^ 当時は支那事変日華事変と呼ばれていた
  5. ^ 陸軍省・海軍省 1938 p.16
  6. ^ 雪竹 1939 p.34
  7. ^ 外務省 1937a p.34
  8. ^ 外務省 1937c p.27
  9. ^ 外務省 1937c p.27
  10. ^ 外務省 1937d p.16
  11. ^ 『東京朝日新聞』1937年1月8日付夕刊 1面
  12. ^ 『読売新聞』1937年7月9日付朝刊 3面
  13. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月28日付朝刊 2面
  14. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月27日付朝刊 2面
  15. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月30日付朝刊 2面
  16. ^ 『東京朝日新聞』1937年7月3日朝刊 3面
  17. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941 p.3
  18. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月26日朝刊 2面
  19. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月24日朝刊 2面
  20. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月12日朝刊 2面
  21. ^ 『国際写真新聞』同盟通信社 1937年8月5日 p.6
  22. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, pp.7-8
  23. ^ a b 『国民新聞』1937年7月9日付朝刊 1面
  24. ^ 外務省 1937c pp.27-29
  25. ^ 外務省 1937d p.15
  26. ^ a b 安井 1993 p.91
  27. ^ 秦 1996, p.413
  28. ^ 北京議定書が認める駐兵権による駐屯である
  29. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, p.5
  30. ^ 陸軍省 1937 pp.3-8
  31. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, p.5
  32. ^ 師長は馮治安
  33. ^ a b c 『支那事変実記 第1輯』 1941, p.6
  34. ^ a b c 『東京朝日新聞』1937年7月9日付夕刊 1面
  35. ^ a b c d 『東京日日新聞』1937年7月9日付夕刊 1面
  36. ^ a b 『読売新聞』1937年7月9日付朝刊 2面
  37. ^ 『読売新聞』1937年7月9日付夕刊 1面
  38. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, p.7
  39. ^ 秦郁彦 1996, p.175
  40. ^ 安井三吉 1993, p.19
  41. ^ 秦郁彦は、「葛西の死後、信奉者や夫人とともに故人が秘蔵してあると言っていた貸金庫を捜索したが政治課本の現物は見当たらなかったこと、一九五〇年代には毛沢東の後継者的地位を確立していた劉少奇の北方局時代における抗日活動を讃える本が何冊も出ていたので、それをヒントにした作り話だろう」と推論している(秦郁彦 2009, p.193)。
  42. ^ "【中国対日観】“いい加減”だから日本にやられる(1)". サーチナ (2009年5月15日). 2009年6月6日 閲覧。
  43. ^ 『産経新聞』1994年9月8日付夕刊 10面
  44. ^ 安井三吉 2003, p.233, 234

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献

  • 江口圭一『盧溝橋事件』(岩波書店、1988年12月)ISBN 4-00-003433-2
  • 岡野篤夫『蘆溝橋事件の実相 平和主義から軍国主義へ』(旺史社、2001年8月)ISBN 487119129X
  • 葛西純一『新資料盧溝橋事件』(成祥出版社、1975年)
  • 肥沼茂『盧溝橋事件 嘘と真実』(叢文社、2000年7月)ISBN 4794703392
  • 坂本夏男『盧溝橋事件勃発についての一検証』(國民會館、1993年5月)
  • 寺平忠輔『蘆溝橋事件 日本の悲劇』(読売新聞社、1970年)
  • 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年12月)ISBN 4-13-020110-7
  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う(上)』(文春文庫、1999年12月)ISBN 4167453045
  • 秦郁彦「陰謀史観のトリックを暴く」『Will』 2009年2月号
  • 安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年9月)ISBN 4-87636-113-4
  • 安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ 一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』(研文出版、2003年12月)ISBN 4876362254
  • 雪竹栄「新東亜読本2 事変と中国共産党」『官報附録 週報』内閣印刷局 1939年4月12日
  • 『支那事変実記 第1輯』(読売新聞社、1941年)
  • 外務省情報部(1937a)「防共協定の国際的意義」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年1月13日
  • 外務省情報部(1937b)「注目を惹いた中国三中全会の経過」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年3月3日
  • 外務省情報部(1937c)「支那の抗日団体」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月4日
  • 外務省情報部(1937d)「事変と支那共産党」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月31日
  • 日本政府「派兵に関する政府声明」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年7月21日
  • 陸軍省新聞班「北支派兵に至る経緯」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年7月21日
  • 陸軍省新聞班、海軍省海軍軍事普及部「事変半歳の回顧」『官報附録 週報』内閣印刷局 1938年1月5日