華北分離工作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、日本北支五省(河北省察哈爾省綏遠省山西省山東省)で行った一連の政治的工作の総称である。

中国側の呼称は、華北事変で、『中華民国史大辞典』によれば、1935年5月以降の日本軍による一連の「華北自治運動」から、宋哲元をトップとする冀察政務委員会の設置までの期間が該当し、満洲事変・上海事変・盧溝橋事変(事件)と並ぶ「事変」として認識されている[1]

概要[編集]

北支一帯を国民政府の影響下から切り離し、日本の支配下・影響下に置くための工作であった。

前史[編集]

1911年、外モンゴルがロシア帝国の後ろ盾によりから独立し、ボグド・ハーン政権が誕生するものの、1915年のキャフタ協定英語版によって中華民国の傘下となった。

1917年、ロシア革命が起こり、ロシア臨時政府が誕生した。コサックでブリヤート人の血を含むグリゴリー・セミョーノフは、臨時政府において、ブリヤート人とモンゴル人から成る騎兵連隊を組織しようと動いていた。

1917年10月にソビエト革命(十月革命)が起こり、次いでロシア内戦が起こると、1917年12月より、中国内ロシア租借地である中東鉄道付属地(ハルピン)において、臨時政府に従っていたホルバート将軍ロシア語版と中国政府が、ソビエト勢力の取り締まりを始めた[2]第一次世界大戦により中国内ドイツ租借地の青島を講和条約締結まで軍事占領していた日本は、1918年3月に中華民国北洋政府と日支共同防敵軍事協定を結び、1918年7月にはシベリア出兵を行い、白軍のセミョーノフを支援し、極東への共産主義波及を防ぐための防共にあたった。

1918年11月、セミョーノフは、モンゴル独立運動を行い、モンゴルとブリヤートを含む大モンゴル国の建設を計画したが、賛意が得られずに頓挫する[3]。1919年より、親白系ロシアの北洋政府安徽派が外蒙古の統治を行った (en:Occupation of Mongolia)が、1920年の安直戦争により安徽派が直隷派に負け、日本軍も極東共和国緩衝国建設覚書英語版を結んでロシア極東より撤兵したため、赤軍と極東共和国軍によって1921年に外蒙古が赤化した (en:Mongolian Revolution of 1921)。

1922年に張作霖 (奉天派、東三省政府)、段祺瑞 (安徽派)、孫文 (革命政府)の三者は反直三角同盟を結び、第一次奉直戦争を行うが、直隷派に負けてしまう。1924年1月に革命政府は容共を打ち出し、ソ連の支援の下で国共合作を始めた。1924年5月、ソ連は直隷派の北洋政府とカラハン協定を結び、ソ連は中東鉄道付属地の赤化を進めようとした[4]。それに対し、東三省政府は反対しソ連と独自に交渉を続けていたが、9月18日に革命政府が北伐宣言を行い、東三省政府も関内出兵を決意し、1924年9月22日、東三省政府は大幅に譲歩して奉ソ協定を結び、第二次奉直戦争に挑んで勝利した[4]。妥協した奉ソ協定により、中東鉄道付属地の赤化が進んでしまったものの、東三省政府はソ連の動きを牽制していた[4]

その後、革命政府の孫文が死去すると北京政府は奉天派のものとなり、1926年、革命政府はソ連の支援の下で再度北伐を始めたが、1927年3月に南京事件が起きると、1927年4月に革命政府は内部の共産党員の粛清を行った(上海クーデター)。それに合わせ、北京政府もソ連大使館の家宅捜索を行った。

工作の経過[編集]

1927年、蒋介石が北伐の途中大敗し最大の危機を迎えると松井石根は蒋を日本に呼び、時の田中義一首相に引き合わせ会談の結果、(蒙古・満洲問題を引き換えに)日本は蒋の北伐を援助し張作霖を満洲に引き上げさせた。

1928年に北伐が完了すると、1929年に中華民国は中ソ紛争を起こすが、ソ連に敗北してハバロフスク議定書が締結されてしまい、中東鉄道及びその付属地からソ連の共産主義者を追い出す試みは失敗に終わった。しかし、1932年に満州国が誕生すると、満州国は1934年に白系露人事務局を設立し、1935年にはソ連から中東鉄道及びその付属地を買収した。

塘沽協定の停戦ラインでは、1934年冬から1935年1月にかけて中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は北支から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。

1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で北支に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、北支における日本の経済権益の伸張、および親日的な傀儡政権の樹立、排日感情の抑制などが目標に掲げられた。また、1935年1月初旬に関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。

こうして支那駐屯軍や関東軍は、それぞれ軍事力を背景に国民政府と2つの協定(6月10日梅津・何応欽協定6月27日土肥原・秦徳純協定)を結び、河北省から国民党勢力と中国軍を、察哈爾省からも国民党勢力と第29軍をそれぞれ撤退させた。

次いで、11月3日に中国が幣制改革を実行すると、日本軍は北支における国民政府の経済的支配力強化を恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な傀儡政権を樹立しようとしたが国民政府の激しい抵抗にあい、また諸軍閥も日本軍の誘いに応じなかったため、当座の措置として塘沽協定による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を11月25日に樹立した。これに対し、国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月18日に河北省・察哈爾省を管轄する冀察政務委員会を設置し、緩衝地帯を設定した。

1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは北支分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月~6月に北平天津豊台などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による北支分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。

日本は8月11日には「第二次北支処理要綱」を制定。北支五省に防共親日満地帯設定を企図したが、11月の綏遠事件において中国軍が日本軍(実質的には内蒙古軍)に勝利したことによって中国人の抗日意識はさらに大きなものとなり、さらに12月には西安事件が起こった。

日本ではこれを受け、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、確固とした政策とはならず、盧溝橋事件を契機に支那事変に突入していくこととなった。

国民党政権の反応と経過[編集]

1932年3月に成立した、蒋介石軍事委員会委員長)と汪兆銘行政院長、後外交部長兼任)による国民党のトロイカ体制(汪蒋合作)は当初、反共と抗日を同列に置き、方針に汪兆銘の提唱した八字方針と呼ばれる「一面抵抗、一面交渉」を定めて、満洲事変後、第一次上海事変停戦協定、塘沽協定梅津・何応欽協定土肥原・秦徳純協定等で対日譲歩を重ねてきたが、次第に一連の政策への不満が募り、汪が1935年11月に狙撃され怪我を負うと療養のために離脱した[5]

1935年の国民党第五回全国代表大会の段階では、蒋介石は未だ「最後の関頭がまだこないなら、犠牲を口に出すべきではない。国家主権の侵害を限度として、それまでは友邦と政治的調停に努め、和平に最大の努力を払うべきである。」として、外交的解決の窓口を閉じてはいなかった[5]。しかし、1936年12月12日には蒋介石が部下の張学良によって拘束される西安事件が発生するとコミンテルンが仲介となり、反共から抗日への明確な転換と中華民国と紅軍の間で国共合作が結ばれる。1937年7月7日盧溝橋事件が発生すると、トラウトマン工作など和平努力を続けながらも、徹底抗戦(ゲリラ戦)を展開していくことになる。

脚注[編集]

  1. ^ 内田尚孝、『華北事変の研究 -塘沽停戦協定と華北危機下の日中関係一九三二~一九三五- 』、汲古書院2006年、pp.5-6
  2. ^ シベリア・極東ロシアにおける十月革命 原暉之
  3. ^ シベリア内戦とブリヤート・モンゴル問題 生駒雅則 1994年
  4. ^ a b c 最近支那国際関係 斎藤良衛 1931年11月4日
  5. ^ a b 小林英夫林道生、『日中戦争史論 汪精衛政権と中国占領地』、御茶の水書房2005年、pp.45-48

参考文献[編集]

華北分離工作を描いた作品[編集]

関連項目[編集]