万宝山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
朝鮮人の作った用水路

万宝山事件(まんぽうざんじけん)とは、1931年昭和6年)7月2日長春北西に位置する万宝山で起こった、入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との水路に関する小競り合いが中国の警察を動かし、それに対抗して動いた日本の警察と中国人農民が衝突した事件。死者なく収まったが、この事件をきっかけに朝鮮半島で中国人への感情が悪化して排斥運動が起こり、多くの死者重軽傷者がでた[1][2]

概要[編集]

満州の権益を持っていた日本政府は間島暴動で追われた朝鮮人200人を万宝山に入植させた。朝鮮人は水路を引く[3]工事を始めたが、地主の了解を取っていなかったため、地主の要請で中国の警察は朝鮮人を10人逮捕して工事の中止を求めた。これに対して日本の長春領事館は警官を送り朝鮮人の保護に動いた[1][2]

1931年7月2日に現地中国人農民数百名が工事中止を求めて銃を持って実力行使に出たため、武装した日本の警官50人が対峙したが、中国警察の呼びかけでその場は収まった。その後、日本の警察が警備に当たり7月11日に水路は完成した。朝鮮日報は2日の衝突で多数の朝鮮人が亡くなったと報じたが、これによって朝鮮での中国人への感情は悪化し都市で排斥運動が起こった。排斥運動による中国人の死者は109人、負傷者は160人であった。運動のきっかけとなった記事を書いた金利三は14日の朝鮮日報に、日本側の情報に基づいて記事を書いたが誤報だったという謝罪文を掲載した後、翌日朝鮮人によって殺害された[1][2]

原因[編集]

満州において、朝鮮人が共産党に加わり、日本から武器を持ち込み、匪賊となって事件を起こすことが頻りに起きていた[4]。1930年8月1日には、八一吉敦暴動が起きた。そのため、奉天省政府及び吉林省政府は取り締まりを強化していたが、それに伴い兵匪や警匪による良民への横暴も増えることとなった[4]


メモ[編集]

万宝山事件の衝突現場写真
平壌の中国人排斥暴動
  • 中国人地主郝永德が現地朝鮮人会の斡旋により朝鮮人に荒地500天地を10年間(民国20年陰暦3月から民国30年陰暦3月まで)貸借する契約を長春県長の承認を得て締結した[5]
  • 契約を結んだ朝鮮人が取水口から20里にわたる用水路を作った。(朝鮮語版では作成したのは日本)
  • 5月25日、中国公安局巡警に水路開墾中の朝鮮人監督が拘禁され、殴打された朝鮮人農民に重傷者が出たとする連絡が駐長春日本領事館に入る[6]
  • 5月26日、日本領事館から職員と領事館警察が派遣され調査が行われ、中国官憲によって中国人地主が拘禁され朝鮮人を退去させるよう策動していることが発覚[6]
  • 7月1日、中国人農民約四百人によって水路破壊作業が始められたので、現地派遣日本警察によって朝鮮人に絶対無抵抗とするよう指示がなされた[7]
  • 7月2日、長銃20丁拳銃10丁を携行した中国人暴民約五百人(千余人とも)によって水路埋没作業が始められたので、日本騎馬警官3名が急派され、中川警部より警察官増派要請がなされたためさらに10名が派遣された[8][9]。午前8時ごろに衝突が発生し暴民が発砲したため警察官も発砲したが双方に死傷者でることはなく、午前10時には暴民は引き揚げた[9]。その間、現地に到着した中国巡警7名も事態を鎮めようとしたが暴民の暴行を受けた[8]
  • 中華民国資料 死者0。
  • 7月2日に朝鮮日報長春支局記者金利三が200人が万宝山で死亡の報道[要出典]
    • その後死亡者数を800人以上と報道の号外
  • 7月5日 朝鮮平壌在住中国人が数千人の朝鮮人に襲われ、中国人死者88名、重軽傷者102名[10]
  • 7月12日 朝鮮日報長春支局記者金利三が3人の朝鮮人に連行され暴行を受け、日本人の唆しを受け万宝山事件の虚報を流したとする文面に署名捺印させられる[11]
  • 7月14日 吉長日報に金利三が署名捺印させられた文面が掲載される[11]
  • 7月15日 金利三が12日の連行実行犯の一人に射殺される[11]
  • その後、破壊水路の復旧工事は何の妨害もなく進捗し、7月11日に完成して通水され、堰堤手直し工事も進められた。田代重徳領事は「鮮農五十余名は歓喜して万歳を連呼し我等は永久にこの地を死守すべしと絶叫するものあり」と報告した[12]

その後[編集]

その後も在満朝鮮人は襲撃を受けるようになり、一斉に満州鉄道沿線に避難した[13]。その後、秩序の回復に伴って戻っていったが、完全には回復せず、北満の水害もあって、多くの避難民が残ることとなった[13]

避難民概数[編集]

1932年(昭和7年)11月の朝鮮総督府派遣員推定によるもの[13]

地域 避難民概数
哈爾賓 (水害) 4,000
哈爾賓 (匪害) 2,000
鉄嶺 (匪害) 600
開原 (匪害) 1,200
四平街 (匪害) 800
新京 (匪害) 800
安東 (匪害) 1,600
吉林 (匪害) 2,200
盤石 (匪害) 1,200
蚊河 (匪害) 1,300
敦化 (匪害) 1,500
奉天 (匪害) 4,000
撫順 (匪害) 3,000
山城鎮 (匪害) 9,000

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 岡田秀樹 2011, pp. 77-78.
  2. ^ a b c 大内力 2006, pp. 353-355.
  3. ^ 1930年5月頃から工事
  4. ^ a b 滿蒙事情 南満州鉄道株式会社 1930年
  5. ^ p177 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期I第1部 第5巻
  6. ^ a b p179 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期I第1部 第5巻
  7. ^ p207 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期I第1部 第5巻
  8. ^ a b pp208-209 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期I第1部 第5巻
  9. ^ a b p210 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期I第1部 第5巻
  10. ^ p222 http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DS0001/0005/0001/0005/0002/index.djvu
  11. ^ a b c p247 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期I第1部 第5巻
  12. ^ 鹿島平和研究所『日本外交18 満州事変』
  13. ^ a b c 欧州旅行の最短距離 シベリア急行鉄道 一三三頁 ソヴェート国営旅行案内局
  14. ^ 太平洋戦争研究会編『満州帝国』河出書房新社、1996年、58頁
  15. ^ 袁世凱剝奪人民言論自由 辛亥革命网 2010年07月29日
  16. ^ a b c d e f 満洲事変前に於ける我が権益侵害事例 大連商工会議所 篠崎嘉朗 1932年5月25日

参考文献[編集]

外部リンク[編集]