朝鮮の歴史

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箕子朝鮮
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箕子朝鮮

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統一
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高麗
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高麗
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大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国
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朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。

概説[編集]

朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで東シナ海の大部分は陸地であり、日本列島と陸続きだったが海面上昇により切り離され、紀元前4000年ころまで海進は進んだ。紀元前4000年頃から南部・西部で陸での稲作が始まったとする意見もあるが、証拠となる物は見つかっていない。朝鮮半島において学術的な検証が可能となる最初の国家は箕子朝鮮、ある程度実情が分かるのは衛氏朝鮮からである。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、史記等の記述や考古調査から前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に周王朝が侯国に封じたとする[1]。衛氏朝鮮は前194年出身の将軍であった衛満箕子朝鮮の王・箕準を追い出して建国した[2]。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡として400年間直轄支配(南部や東部は間接支配[3] )されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。

4世紀中頃に、満州鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の多くの部分を征服するが、4世紀末までに百済は高句麗により朝鮮半島半島北部から駆逐され、朝鮮半島北部は高句麗によって征服された。南部はと関係の深い百済新羅が在り共に倭に従属していたが、新羅は7世紀中葉に入って日本が白村江の戦により大陸での影響力を完全に喪失する以前も、度々朝貢を怠るなど叛服常無かった[4]。高句麗は4世紀の広開土王の代に、仏教を篤信するとともに、南に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗を中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。百済は371年、漢山城(今のソウル松坡区)を都としていたが、高句麗の攻撃により落城し、扶余に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、大和朝廷に従属し、儒教や仏教を大和朝廷へ伝えた。南端部には倭国の影響下にあって[5](旧説では「支配下」にあったとする[6])諸小国の雑居する任那加羅があった。倭国が大陸での支配力を失うと伽耶は特定の国(金官伽耶高霊伽耶など)が主導する形になったが、倭国への朝貢は途絶えることなく行われていた[7][8]後に諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。

しかしながら、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人がを避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』によると4代目の王が倭国北東[9]から渡来した王であったり、『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王を遣わしていた記述があるなど、朝鮮民族としての意識の形成がいつ頃から生じたものか不明瞭である。新羅の後に興った高麗が高句麗継承を主張し、『三国史記』や『三国遺事』を編纂したことからすると、朝鮮民族としての民族意識の萌芽は高麗の時期に形成された可能性が高い。

7世紀に新羅はが高句麗、百済を相次いで滅ぼす戦いに参戦した。その後、新羅は唐を突如裏切って唐の行政府に駐留する部隊を殲滅する反乱を起こすと、朝鮮半島の大部分を統一した[10]。しかし唐・新羅戦争に敗北して、自らを大唐国新羅郡と名乗った。高句麗の故地にはツングース系の韃靼族とされる[11]大祚栄渤海を建国した[8]が渤海を朝鮮の歴史で扱うか否かについては議論がある(東北工程参照)。10世紀に新羅は統一を失い、地方勢力が自立して後高句麗後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして南北にわたる初の統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。

高麗は13世紀モンゴル帝国)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親を掲げる女真族ともいわれる[12]李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入り差別と抑圧を受けた。

朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蒋英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀簡儀自)の製作、時間を表す仰釜日晷自擊漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。

16世紀豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てたの侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。一方でハングルが専ら大衆の娯楽や通信に使われたように、この時代は官僚を輩出するエリート階層である両班を中心に中国文化の影響は依然として深く、特に王朝の国教というべき地位にあった儒教の影響は社会の末端に至るまで広く浸透していた。ハングルが漢字との混交文によって初めて公的の書き文字に採用されるのは、日清戦争が日本の勝利に終わったことで李氏朝鮮が冊封体制および羈縻支配から離脱した1894年である。

1776年22代王で正祖が即位する。正祖は即位初期には洪国栄などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若鏞朴斎家洪大容柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。

19世紀末から欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、1910年に全土が日本併合された。1919年三・一独立運動が起きている。1920年に抗日パルチザンは尼港事件間島事件により日本領事館を焼き討ちにしている。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立している。

また李氏朝鮮末期から日本統治期や朝鮮戦争を挟んで軍政期にかけて、様々な理由で清、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。

先史時代・古朝鮮時代[編集]

先史時代[編集]

考古学的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。

古朝鮮時代[編集]

紀元前数世紀ころの朝鮮半島

考古学的考証のない事項はここに記す。

黒い山葡萄原人

平壌の大同江流域で誕生したとされる原人。この原人が朝鮮人の祖先であり、朝鮮人は人類発祥の時から朝鮮半島に代々暮らしてきたとされる。(朝鮮中央放送の科学番組による主張だが根拠は示されていない。そもそも、これが事実なら朝鮮人は新人ではないと言うことになる)[要出典]
檀君朝鮮檀君神話)
檀君神話上の人物。『三国遺事』に、『魏書』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、中国帝時代に白頭山に降臨した天神の子・桓雄と女の間に生まれた檀君が平壌城で建国したと記されている。大韓民国(韓国)では檀君即位の年をB.C.2333年とし、それから年を数える「檀君紀元」(檀紀)という紀元も存在する。近年朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、コンクリート製の檀君陵を復元しているが、その考古学的根拠は全くない。韓国人の宗教上の崇拝対象である。
箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年
中国を出自[13]とする中国人箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の平壌)。『三国志』魏志書、『魏略逸文などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『三国志』『魏略』および『後漢書[14]』には、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、そこで韓王となったという。
辰国

古代の朝鮮半島[編集]

衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代[編集]

朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[15]戦国時代は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた[16]代は遼東郡の保護下にあった[17]。秦末初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した[18]

考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家中国を出自[19]とする中国人亡命者である衛満朝鮮半島北部に建国した。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時の紀元前108年武帝に滅ぼされた。その故地には楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を植民地とした[3]
三国志東夷伝に記述された区分(3世紀ごろ)。()内は現在の行政区分に大まかに当てはめたもので、確定的なものではない。
ツングース系民族による国家[20]
からの移民とする説もある[21]。古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という[21]。辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。

三国時代[編集]

三国時代の朝鮮半島

南部の三韓は、馬韓諸国のなかの伯済が百済に、辰韓諸国の斯盧が新羅となり、弁韓諸国は統一した政権を形作ることなく伽耶諸国となった。

ツングース系民族による国家
扶余族の支配層と被支配層の韓族の国家[22]。百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある[23]
による百済冊封
による新羅冊封
伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、広開土王碑文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては任那という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている[24]。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書[25]や碑文[26]の記録から日本(ヤマト王権)の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡っては異論も多く存在する。詳細は伽耶任那を参照。[27]
耽羅は5世紀末に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属した。
于山国は6世紀初めに新羅に服属した。
唐朝新羅を領土化するために設置した地方機関。都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に都督府を設置する統治制度。
唐朝が設置し現在の朝鮮半島北部から中国東北部に相当する高句麗旧域の経営を目的に設置された地方機関。
唐朝が設置し、現在の忠清南道に相当する百済旧域の経営を目的に設置された地方機関。

660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林大都督府として半島全域を藩属国から羈縻州としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。

高句麗の系統は消滅したが、遺領は新羅(後の朝鮮民族の母体)と渤海(後の満州族の母体)に分割されている。

5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している[28]

統一新羅・渤海・後三国時代[編集]

初めての統一政権。唐・新羅戦争に敗れて大唐国新羅郡と名乗る。
高句麗の滅亡後、その故地に粟末靺鞨が建国したツングース民族による国家。詳細は東北工程を参照。

中世の朝鮮半島[編集]

高麗青磁(香炉)
敬天寺十層石塔

近世の朝鮮半島[編集]

景福宮の玉座と日月五峰図
大清帝国皇帝に三跪九叩頭の礼をする仁祖を記録する大清皇帝功徳碑(1639年)
大清帝国の使者を迎えるための迎恩門
丙寅教獄で尋問されるベルヌー司教(1866年)。尋問後、信者らとともに処刑され、フランス艦隊の朝鮮遠征が行われた
アメリカ軍による朝鮮征伐辛未洋擾により破壊された朝鮮の要塞
壬午事変における軍事クーデターにより王宮とともに日本公使館が襲撃焼き討ちに遭い、小舟で脱出した日本領事等、イギリス船に救助される。(1882年)

近代[編集]

中国軍の支援を受けた抗日パルチザン赤軍の攻撃により焼け落ちたニコラエフスク日本領事館尼港事件。1920年)
慰安婦募集の新聞広告。

現代[編集]

連合軍将軍と握手する李承晩
連合軍による軍政に反抗して蜂起した朝鮮人(1945年)
板門店での軍事境界線
初代大統領に就任した李承晩
韓国に占拠された竹島
李承晩ラインに進入した日本人の抑留
国連軍に提供される慰安婦の登録実施(1961年)
アメリカとの貿易協定に抗議する数十万人の市民(2008年韓国蝋燭デモ

連合軍軍政期[編集]

連合軍軍政期には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。

朝鮮戦争[編集]

大韓民国(韓国)[編集]

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)[編集]

日本総領事館脱北者駆け込み事件で日本領事館に駆け込んだ少女と日本人拉致事件で拉致された横田めぐみの家族と会見するジョージ・W・ブッシュアメリカ大統領

※並列して存在する国は、数字リストをつけた。

脚注[編集]

  1. ^ 考古学的には田の形状や石器などに大きな変化が見られる。
  2. ^ 三国志
  3. ^ a b
  4. ^ 『日本書紀』、『宋書』夷蛮列伝、蕭繹『職貢図』
  5. ^ 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。ISBN 4-00-430510-1 pp.74-78.
  6. ^ 『任那興亡史』31P-200P
  7. ^ 『任那興亡史』189P-213P
  8. ^ a b 井上秀雄 『古代朝鮮』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004年10月。ISBN 4-06-159678-0 pp.106-107.
  9. ^ 日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国(→上垣外2003 p.70)、但馬国肥後国玉名郡などに比定する説がある。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もある(→井上訳注1980 p.35)。『三国遺事』では龍城国とされる。
  10. ^ 『旧唐書』東夷列伝新羅の条
  11. ^ 韓国 渤海を確固たる韓国史にしようと「官民総動員体制」に『SAPIO』2013年3月号
  12. ^ a b c
  13. ^ 箕子朝鮮の建国者である箕子については、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする中国人となる。
  14. ^ 後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。
  15. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42
  16. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.22
  17. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.23
  18. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27
  19. ^ 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、燕を出自とする中国人となる。
  20. ^ *濱田耕策「夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族(Yahoo!百科事典)」「高句麗族はツングース系の扶余族の別種(木村誠 趙景達 吉田光男 馬淵貞利編『朝鮮人物事典』)」
    • 黄文雄満州族先祖が築いた高句麗と渤海」「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である(黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』77頁~80頁)」
    • 鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の族によって建国(鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』)」
    • 山川出版社『世界史用語集』「【高句麗】中国東北地方東部のツングース系貊族の夫余族の国」
      (夫余とは、
      • 村山正雄「古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族(Yahoo!百科事典)」
      • 佐々木史郎「夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている(Yahoo!百科事典)」
      • 山川出版社『世界史用語集』「【夫余】同じツングース系の勿吉に滅ぶ。百済の王は夫余族と言う」
    • 護雅夫「高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族であり、4世紀から6世紀の初めにかけての最盛期には朝鮮半島の大半と南満州とを勢力圏に収めた(Yahoo!百科事典)」
    • 井上満郎「【高句麗】貊民族の一部によって築かれた国家(京大日本史辞典編纂会編『日本史事典』)」
    • 宮脇淳子「高句麗人は、南満州で半農半牧の生活をしていた貊人の一種である(宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』)」
      (貊とは、山川出版社『世界史用語集』「【貊族】紀元前7世紀~紀元前6世紀以降河北省長城地帯から中国東北地方にいたツングース系民族で、漢族・モンゴルに系に圧迫されて東方に移り、のちの夫余・高句麗を建国」)
    • 和田萃「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された(京大日本史辞典編纂会編『日本史事典』)」
    • 森安孝夫「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家(Yahoo!百科事典)」
    • 藤本和貴夫「7~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた(Yahoo!百科事典)」
    • 室谷克実「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない(室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』)」
    • 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
    • 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」「【靺鞨】中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末部は、渤海国を建国。」
  21. ^ a b 三国志』魏書辰韓伝「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『北史』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある『北史』新羅伝水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている(『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁)。そのため、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で新羅に対して、「中国のの亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院 『朝鮮日報』2007年6月4日
  22. ^
    • 濱田耕策「夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族(Yahoo!百科事典)」
    • 村山正雄「夫余は古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族(Yahoo!百科事典)」
    • 佐々木史郎「夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている(Yahoo!百科事典)」
    • 山川出版社『世界史用語集』「【夫余】同じツングース系の勿吉に滅ぶ。百済の王は夫余族と言う」
    • 満州族のルーツである女真族と扶余族のルーツは同じツングース民族のため、民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国は、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院の公式研究書で百済に対して「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」と主張している(東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院『朝鮮日報』2007年6月4日)。また、中国の歴史学者の李大龍は、百済は扶余族が建てた国であるため、百済は中国民族が建てた国だと主張している(ああ、高句麗東亜日報 2007年8月18日)。中国の教科書では、高等教育出版社の『世界古代史』は、古朝鮮・高句麗・扶余は韓国の歴史ではないと、韓国史の始まりは統一新羅からとの主旨で記述しており、中国の100余りの大学で使用されている福建人民出版社の『中国古代史』では、扶余・高句麗・沃沮・穢貊は中国・漢代の東北地区の少数民族だと記述している(【歴史】中国の大学教材も「高句麗・扶余は中国史の一部」『朝鮮日報』2006年8月9日)。
  23. ^
    • 旧唐書』東夷傳百済「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。(その地の者は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、遂に百済の種は絶滅した。)」
  24. ^ 鈴木靖民ほか著『伽耶はなぜほろんだか』<増補改訂版>、大和書房、1998 ISBN 4-479-84047-8(初版1991)
  25. ^ 『三国志』東夷伝、『宋書』夷蛮伝
  26. ^ 広開土王碑
  27. ^ 日本書紀によると、『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載されるなど、任那は日本の影響下にあったとされる。
  28. ^ 拳骨拓史『日中韓2000年の真実』扶桑社新書
  29. ^ 『高麗史』一百四 列伝 巻十七 金方慶伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」
  30. ^ 『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」
  31. ^ a b c d 初等教科書、高麗の時「23万帰化」言及もしない京郷新聞』2007年8月21日
  32. ^ 朝鮮大飢饉新聞集成明治編年史第一卷、林泉社、1936-1940
  33. ^ 国号改称(明治43年8月勅令318号)- 韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件ヲ裁可シココ二之ヲ公布セシム韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今(じこん)朝鮮ト称ス
  34. ^ 今日の歴史(1月7日) 聯合ニュース 2009/01/07
  35. ^ 今日の歴史(12月6日) 聨合ニュース 2008/12/06

参考文献[編集]

関連項目[編集]