トロット

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トロット
各種表記
ハングル 트로트
漢字
発音 トゥロトゥ
2000年式
MR式
Teuroteu
T'ŭrot'ŭ
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トロット트로트)は、韓国における大衆楽曲ジャンルのひとつである。日本の演歌と酷似した性格を持つため、しばしば韓国演歌と呼ばれることがある。

特徴[編集]

韓国の旧来型大衆楽曲のうち、「ズンチャッチャ、ズンチャッチャ…」の3拍子ないし「ズンチャチャチャッチャ、ズンチャチャチャッチャ…」の4拍子を基本とするものを「トロット트로트)」、「ンチャ、ンチャ…」の早い2拍子を基本とするものを「ポンチャック뽕짝)」と呼ぶ。「トロット」は曲調のテンポを表す英語である「フォックストロットFoxtrot )」の一部をとったものであり、「ポンチャック」は曲の伴奏のリズムを表す朝鮮語擬音語を語源とするやや下世話な音楽とする蔑称である。

トロットの曲構成においては、朝鮮民謡を由来とする3拍子5音階を用いることが多く、その音階法は、西洋音楽が7音階を基本とするのに対して5音階を取っているために第4音と第7音は存在せず、4と7を抜いているとするいわゆるヨナ抜き音階ペンタトニック・スケール)と呼ばれる。

トロットの歌詞テーマにおいては、別離や薄幸などに対する「ハン、恨)」、「男女間や家族間の情愛」、「大自然や日常風景の人生観への投影」などが好んで取り上げられる。「ハン()」とは、漢字で表記すれば「恨」であるものの仏教用語でいう「煩悩」や日本語で言う「怨恨」・「恨み」とは異なる概念であり、自分の理想・なりたい境遇・やり遂げたい事・成就させたい恋愛などに関して、自分なりの努力にもかかわらずなかなか叶えられないことに対する不満・嘆き・嫉妬などと、それでもあきらめ切れない夢と羨望の念が入り混じった、韓国人特有とされる情念のことを指す。

その唱法においても、小節(こぶし)廻しを用いた独特の歌唱法が多用される。男性トロット歌手洋装での出演が多いものの、女性トロット歌手は以前、洋装とともに韓国のイメージを出すためにかつてはチマチョゴリで出演することがあった。日本の演歌シーンにおいて女性演歌歌手が日本のイメージを大切にする目的で歌唱時に和装を多用することに似ている。

また、歌詞の言いまわしひとつにしても、例えば男女間の情念をテーマとする曲で相手を二人称で呼称する場面において、「カヨ(가요、歌謡、日本で言ういわゆるK-POP)」ではクデ그대 ~日本語でいう「君」・「あなた」に相当)を多用するのに対し、トロットではタンシン당신、当身(當身)、~日本語において、婚歴の長い夫婦や付き合いの長い恋人同士で、あるいは親友同士で、また喧嘩相手に対して用いられる「おまえ」・「あんた」に相当する。朝鮮語でも全く同様の用法をとる)を好んで用いるところなど、日本のJ-POP演歌の歌詞の言い回しの違いにそっくりである。

その他、前述の音階法を始めとするコード進行メロディー構成やアレンジ、歌詞に好んで取り上げられるテーマ素材や歌詞表現の言い回し、プロ歌手の歌唱法やふるまい、ファン層が中高年層中心であること、近年はポップス楽曲に押されて相対的に売り上げが低迷しているが細く長くヒットする曲が多いこと、根強くテレビ放送に独自枠を持つことなど、完全に日本の演歌と酷似した性格をもつ。

歴史[編集]

草創期[編集]

朝鮮で初めて発表されたトロットのレコード1908年の李東伯(イ・ドンベク / 이동백)の『赤壁歌』(ビクターレコード)である。1926年には尹心悳(ユン・シムドク / 윤심덕)の『死 贊美』(死の賛美)(ニットーレコード)がヒットした。尹心悳は大阪での同レコードの吹き込み後に、劇作家の金祐鎮(キム・ウジン / 김우진)と共に関釜航路に就航していた徳寿丸から投身自殺をし、朝鮮全土に一大センセーションを巻き起こしたことでも知られており、皮肉なことにその話題先行によりレコード発売前から大ヒットは約束されていたようなものであった。

日本のレコード会社は大正時代より、日本蓄音器商会(現在のコロムビア)・大阪の日東蓄音器などが朝鮮市場向けに小規模に朝鮮盤(朝鮮語版レコード)を発売していたが、昭和になってから本格的に進出を開始し、1928年ビクター1929年にコロムビア、1931年ポリドール・タイヘイレコードの順で進出した。また1931年には現地資本のシエロンレコードが設立され、1933年にはテイチクが現地資本との合弁でオーケーレコードを設立した。当時の日本のメジャーレーベルの中では唯一、キングレコード講談社)のみが朝鮮盤の生産を行わなかった。

第二次世界大戦までの動向[編集]

1932年10世紀から14世紀の朝鮮半島の王朝国家で、コリアの語源にもなった高麗の首都・開城を舞台に歌い上げた李愛利秀(イ・エリス / 이애리수)の『荒城跡』(荒城の跡)が、朝鮮語版レコードによる初の全国的ヒットとなった。また、同年に蔡奎燁(チェ・ギュヨプ / 채규엽)が日本のヒット曲を朝鮮語に訳して歌った『酒は涙か溜息か』などで人気を博した。また、日本の人気歌手であったディック・ミネが三又悦(サムヨル=サミュエル)名義で朝鮮語を用いてジャズナンバーを発表するなど、相互通行的な動きも見られた。さらに、本来は韓国の伝統芸術的な歌曲であった『鳳仙花』をソプラノ歌手金天愛(キム・チョネ / 김천애)が歌い大ヒットとなった。

1934年には『노들 江邊』(ノドル河辺)に代表されるいわゆる新民謡(創作民謡)がヒットする傾向を見せ、鮮于一扇(ソヌ・イルソン / 선우일선)などの妓生歌手が数多く誕生した。さらに、同年には高福寿(コ・ボクス / 고복수)の『他鄕살이』(他郷ぐらし)、1935年には李蘭影(イ・ナニョン / 이난영)の『木浦 눈몰』(木浦の涙)、1937年には張世貞(チャン・セジョン / 장세정)の『連絡船 떠난다』(連絡船の歌)が、日本による統治への反発を抱く大衆の思いを代弁する形となり大ヒットした。

1938年には歌謡皇帝こと南仁樹(ナム・インス / 남인수)の『哀愁 小夜曲』(哀愁のセレナーデ)がヒットし、南仁樹は作曲家の朴是春(パク・シチュン / 박시춘)と組んで後の韓国歌謡界に不動の地位を築くこととなった。この頃、民謡の女王として李花子(イ・ファジャ / 이화자)も人気を博している。金貞九(キム・ジョング / 김정구)の『눈물 젖은 豆滿江』(涙の豆満江)が世に出たのも同時期だが、この歌はむしろこの時よりも、朝鮮動乱後にリバイバルヒットした事で知られている。1940年には白年雪(ペン・ニョンソル / 백년설)の『나그네 설움』(旅人の悲しみ)が、また秦芳男(チン・バンナム / 진방남)の『不孝者 읍니다』(不孝者は泣きます)が大ヒットとなった。

その後の第二次世界大戦の戦局悪化にともない、朝鮮においても内地と同じように軍部が士気高揚のために利用した戦時歌謡が量産されるようになった。朝鮮人志願兵第一号として軍当局の言ういわゆる名誉の戦死をした李仁錫(イ・インソク)一等兵の最期を美談に作り上げて大々的に喧伝し、「内鮮一体」のスローガンの気運を盛り上げようと謀る当局の介入に、朝鮮における歌謡界の自由性も次第に萎縮していった。

戦後の動向[編集]

1945年の日本の敗戦により朝鮮は開放され、1948年8月15日大韓民国樹立によって在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による占領統治が解除されても、依然として在韓米軍は数多く駐留したままであった。米国への留学経験を持つことから反日親米主義者である韓国初代大統領李承晩が1948年から1960年まで韓国で軍事独裁政権を掌握し、トロット界においても『酒は涙か溜息か』などの日本をルーツにした楽曲は事実上の発禁処分とされる事になった。1947年には玄仁(ヒョン・イン / 현인)の『新羅 달밤』(新羅の月夜)が大ヒットしている。米軍キャンプをまわるジャズ歌手なども多く登場している。

1950年6月25日の北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の南侵によって勃発した朝鮮戦争により、国土は壊滅的な打撃を受けた。朝鮮戦争中は軍歌が流行したが、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定署名後には北朝鮮へ渡った作曲家・作詞家などに対して「越北作家」のレッテルが貼られ、彼らの作による『断髪令』・『有情千里』など多くの歌が発禁処分となった。これは1988年まで続き、著名曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲が多く存在することとなった。

1954年には、李海燕(イ・ヘヨン / 이해연)による『斷腸 彌阿里고개』(断腸のミアリ峠)が大ヒットした。1957年にはエレジーの女王・李美子(イ・ミジャ / 이미자)がデビューし、後に彼女は韓国歌謡界の女王として君臨することとなる。

1959年ごろから、韓国においてもSPレコードからLPレコードの時代となり、従来は比較的身分の低い低学歴の職業と目されてきた歌手界にも、大学卒の歌手が出現するようになり話題となった。

1961年には、韓明淑(ハン・ミョンスク / 한명숙)の『노란 샤쓰의 사나이』(黄色いシャツの男)が大ヒットして、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローが同曲をソウルで吹き込んだり、日本においても一部朝鮮語の歌詞を残したまま日本語訳詞が付けられてヒットするなど、社会現象を引き起こした。またこの頃、反共ラジオドラマによって『涙の豆満江』がリバイバルヒットしている。

1962年に就任した朴正煕大統領は文化界に強い圧力を加えだし, 1975年にはビートルズなどの曲が共産主義色彩をたたえるという理由で総222曲が発行禁止処分が酔われたりした. また李美子の歌が倭色と言って多数禁止曲に指定されたりした.

1967年、南珍(ナム・ジン / 남진)による『가슴 아프게』(カスマプゲ)が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児(ナ・フナ / 나훈아)もデビューを果たしている。1971年にはフォークデュオのラナエロスポ(라나에로스포)による『사랑해』(サランヘ)が、1973年にはパティ・キム(패티 김)による『離別』が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤(キロギュン / 길옥윤)の名を高めた。 特に『離別』は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。

1976年には趙容弼(チョー・ヨンピル / 조용필)による『돌아와요 釜山港에』(釜山港へ帰れ)が大ヒットする。また、1977年には李成愛(イ・ソンエ / 이성애)が日本語に訳したトロットを日本でヒットさせた。従来にも菅原都々子による『連絡船の歌』のヒットや、平壌出身の歌手である小畑実の人気などスポット的に韓国歌謡の日本でのヒットはあったものの、本格的なトロットの日本への紹介は李成愛が初めてであった。李成愛の成功は、趙容弼や羅勲児らの歌うトロットの日本進出をもたらし、近年の韓流ブームほどは爆発的でないにせよ、第一次韓国ブームともいえる現象を引き起こし、韓国歌手の名前が日本にも浸透するようになり、後に金蓮子(キム・ヨンジャ / 김연자)や桂銀淑(ケー・ウンスク / 계은숙)などの韓国人歌手が日本に進出・定着する礎となった。 また、『黄色いシャツ』・『離別』・『カスマプゲ』・『釜山港へ帰れ』などの数々のトロットを日本人演歌歌手が競ってカバーするようになり、日本でも大ヒットすることとなった。

近年の動向[編集]

その後、一旦トロットの人気は下火となり、1980年代に入って一時復活の兆しが高まったものの、その人気は長期的に見て凋落傾向にある。

ことに1990年代以降は、ソテジワアイドゥル서태지와 아이들 ~「ソテジと子供たち」の意)などに端を発する、従来のトロットの流れを全く汲まないグループやアーティストによる洗練されたダンス曲・ポップロック・バラードなど、いわゆるK-POPが若年層を中心に絶大に支持され、トロットはすっかり中高年世代限定の歌というイメージになってしまっている。しかし、ヒョンチョルテ・ジナソン・デグァンソル・ウンドのトロット四天王が登場し一定の存在感を示す。

また、日本において電気グルーヴによって李博士(イ・パクサ / 이박사)が紹介されると一気にテクノファンに浸透し、ポンチャック・ブームを巻き起こした。

2004年には張允貞(チャン・ユンジョン / 장윤정)が『オモナ』をヒットさせ、純トロット曲の久々のヒットとなった。

韓国ではドライバーが好んで聞くジャンルの音楽である。交通情報専門ラジオである「交通放送」や「KBS2」「MBC標準」などのラジオ局では昼間の時間帯を中心に多くのトロット曲がオンエアされている。

歴代のトロット歌手[編集]

李愛利秀(イ・エリス / 이애리수
1930年20歳でデビューし、1932年に高麗時代の旧都である開城を舞台にした『荒城의跡』(荒城の跡)が朝鮮盤(朝鮮語版レコード)初の大ヒットとなった。同年、日本においても李アリスの芸名で西條八十の詞による『あだなさけ』などを発表した。私生活においては恋愛にからむ人間関係不調を苦にして2度の自殺未遂を起こすなど波乱の人生をおくった。
蔡奎燁(チェ・ギュヨプ / 채규엽
1930年デビュー。1932年に『酒は涙か溜息か』・『希望の丘(丘を越えて)』・『影を慕いて』など日本の流行歌を朝鮮語訳して歌いヒットした。その後も『峯子の歌』などのヒットを連発するが、1934年には当時の東京市内カフェー(当時存在した風俗営業を行う特殊喫茶)で女給(広く一般的に女子のサービス業従業員のことを指したが、赤線やカフェーにおいては狭義に風俗営業を行う女性のことを指した)との淫行スキャンダルを起こし、1937年には詐欺容疑逮捕されるなど私生活でも話題にも事欠かなかった。また日本においても長谷川一郎の芸名でレコード発表をした。とても朝鮮人とは思えない極端な親日派として知られ、第二次世界大戦時に大政翼賛会に加入したばかりか、帝国陸軍の軍装で軍用機募金運動を行うなどした。日本の敗戦後には親日派にもかかわらず上手く立ち回り訴追されることなくステージ活動などを続けたものの、イデオロギー転向して1949年北朝鮮へ渡り、最後には反体制分子として炭坑に収容されて重労働を課され、野垂れ死に同然の悲惨な最期を遂げたという。
李蘭影(イ・ナニョン / 이난영
1916年全羅南道木浦府(現在の木浦市)生まれ。1933年オーケーレコードからデビュー。元祖「エレジーの女王」と称されている。1935年に『木浦 눈몰』(木浦の涙)が大ヒット。1939年には作曲家の金海松(キム・ヘソン / 김해송)と結婚。1940年には『泣けよ門風紙』・『木浦は港』がヒットする。日本敗戦後は夫とK.P.K楽団を主宰するが、朝鮮戦争で夫が北朝鮮軍に拘束され、2人の最期の別れとなった。儲けた7人の子供は渡米しラスベガスで歌手として活躍したが、本人は晩年慢性アルコール中毒となり1965年にさみしい最期をとげた。
高福寿(コ・ボクス / 고복수
1911年生まれ。コロムビアに所属していたがなかなかデビューのチャンスがなく、1934年にオーケーレコードに転出して『他鄕살이』(他郷ぐらし)でデビュー。これが大ヒットし、1935年には『沙漠の恨』、1937年には『짝사랑』(片思い)などのヒットを飛ばした。1939年に同じく歌手の黄琴心と結婚した。1958年に歌手を引退し、種々の事業を展開するもことごとく失敗し、1972年に寂しい老後を終える最期となった。
李花子(イ・ファジャ / 이화자
1935年酒場の従業員をしていたところをスカウトされ、いわゆる妓生歌手の中では最も多くヒット曲を連発した。1938年に『コルマンテ牧童』が、1939年には『어머님 前上白』(母への手紙)がヒット。1940年の『花柳春夢』は、日本人歌手である菅原都々子が『片割れ月』としてカバーするほどのヒットとなった。私生活においてはスキャンダルの女王として知られ、晩年にはアヘン乱用により1950年中毒死したとされているが、最期に至るまでの詳細や没年齢は定かではない。
南仁樹(ナム・インス / 남인수
『涙の海峡』でデビュー、1937年オーケーレコードからの再デビューで『水車サラン』がヒット。学歴・音楽経験ゼロからのスタートだったが、作曲家の朴是春(パク・シチュン / 박시춘)との黄金コンビによって、1938年には『哀愁 小夜曲』(哀愁のセレナーデ)、1940年には『泣いて別れた釜山港』などが大ヒットした。「女インス」「金インス」と呼ばれるほどの遊び人として知られた。締まり屋としても知られ、日本の敗戦後は興行にも手を伸ばし、持病の肺結核を悪化させることとなった。1946年に『가거라 三八線』(去れよ三十八度線)、1953年に『離別 釜山停車場』(別れの釜山停車場)、1956年には『青春告白』などのヒットを飛ばし、1962年に没するまで第一線のスター歌手であり続け、生涯で1000曲あまりを歌い歌謡皇帝とまで称された。
黄琴心(ファン・グムシム / 황금심
1921年生まれ。1938年『いとしのあなた』でデビュー。1939年に同じく歌手の高福壽と結婚。1953年に『三多島消息』をヒットさせた後引退して、数多の事業に乗り出すもことごとく失敗して苦しむ夫の高福寿を物心両面で支えた。2001年逝去。
張世貞(チャン・セジョン / 장세정
1921年生まれ。平壌の少女歌手として、1937年に『連絡船 떠난다』(連絡船の歌)でデビューし、大ヒット。1939年には『港の名無草』がヒット。当時の芸能界に力のあった李哲(イ・チョル / 이철)の歓心を得ようと綱引きを繰りひろげた、ライバル李蘭影との不仲は有名である。1940年には『さらば断髪嶺』がヒット。日本の敗戦後は舞台などで活躍したが、晩年はロサンゼルス市内で過ごした。2003年逝去。
金貞九(キム・ジョング / 김정구
1916年江原道元山府(現在の元山市)生まれ。1931年に元山光明普通学校卒業。兄に作曲家の金龍煥(キム・ヨンファン)、姉に歌手の金安羅(キム・アンラ)をもつ。キリスト教徒で、1938年の『王書房恋書』などのコミックソングで人気を博した。同時期に『눈물 젖은 豆滿江』(涙の豆満江)・『海の交響詩』を発表し、ヒットとなる。『涙の豆満江』は1960年KBSラジオ反共ドラマによって再び人気に火がつき、1990年代初頭まで韓国国民の間では『釜山港へ帰れ』を上回る支持を集めていた。こうした功績によって1980年に歌手として受賞することは稀有な文化勲章を授かっている。ソウル市内の『草原の家』というビアホールで70歳を過ぎてからも現役歌手としてステージに立っていたが、1998年ロサンゼルス市内で逝去。
白年雪(ペク・ニョンソル / 백년설
1915年生まれ。やや不安定な歌唱でレコード収録の際にNGを連発する事で知られる。1939年に『流浪劇団』がヒット。1940年には『나그네 설움』(ナグネソルム)が大ヒットし、『番地없는 酒幕』(番地のない酒場)もヒットした。1941年には満州移民奨励歌『福地萬里』・『大地 港口』(大地の港)がヒットした。日本の敗戦後は歌手活動を停止して事業展開に専念するが、朝鮮戦争を経て歌手復帰した。1970年に引退、熱心なエホバの証人の信者でもあった事から、1978年ロサンゼルス市に渡り、1980年に没した。
秦芳男(チン・バンナム / 진방남
1917年生まれ。1940年に『不孝者은 읍니다』(不孝者は泣きます)がヒット。日本での収録中に母の訃報が入り、曲のタイトルそのままのレコーディングとなった。その後、1950年からは作詞家に転向し半夜月のペンネームで『斷腸 彌阿里고개』(断腸のミアリ峠)などの作詞を手がけたことで知られる。
玄仁(ヒョン・イン / 현인
1919年に温泉街である釜山府東莱(現在の釜山広域市東莱区)に生まれる。本名は玄東柱(ヒョン・ドンジュ / 현동주)。1942年に東京・上野の東京音楽学校声楽科を卒業したバリトン歌手で、上海で活動中に終戦を迎えた。声を震わせるような歌唱で知られ、1947年に『新羅 달밤』(新羅の月夜)がヒット。その後も1951年の『がんばれ!クムスン』、1953年の『ラッキー・ソウル』などのヒットを飛ばし、晩年まで懐メロ番組の常連であった。2002年に逝去。
李美子(イ・ミジャ / 이미자
1941年京城府(現在のソウル特別市)生まれ。1958年にデビューし、エレジーの女王と呼ばれている。伝統的に歌手という職業が低く見られがちであった韓国においては、破格の扱いを受けるまさに歌謡界の女王といえる。韓国では美空ひばりのことを「日本の李美子」と称するほどであり、その存在の大きさが窺える。主要なヒット曲だけで100曲を超え、歴代大統領コンサート観覧に訪れたほどである。1965年のヒット曲『東栢 아가씨』(椿娘)は日本的な曲であるとの理由で当局により発禁処分を受けた。韓国の3大放送局のひとつMBC(韓国文化放送)による韓国歌手人気ランキングではチョー・ヨンピルに次ぐナンバー2の得票で、ナンバー3の人気ポップスグループソテジワアイドゥル(서태지와 아이들)を抑えたこともある。
南珍(ナム・ジン / 남진
1945年全羅南道木浦府生まれ。本名は金南珍(キム・ナムジン / 김남진)。漢陽大学校演劇映画学科卒。1965年デビュー。1971年に『カスマプゲ』が大ヒット。羅勲児とのライバル関係が有名である。
羅勲児(ナ・フナ / 나훈아
1947年釜山市生まれ。本名は崔弘基(チェ・ホンギ / 최홍기)。1967年デビュー。自ら作詞・作曲を手がけるシンガー・ソングライターである。1985年の『ムシロ』をはじめとして、デビュー以来大ヒットを連発、日本にもファン層を抱える。南珍とはライバルの関係にあると言われた。書道に造詣が深いなど多趣味。
趙容弼(チョー・ヨンピル / 조용필
1969年デビュー。1976年に発表した『돌아와요 釜山港에』(釜山港へ帰れ)など100曲を超えるヒット曲を持つ、韓国を代表する国民的歌手。日本ではもっぱら『釜山港へ帰れ』のイメージから、トロット・オンリーの歌手と思われがちだが、実際には伝統音楽・ポップス・ロック・バラードからトロットまで何でもこなすオールラウンドプレーヤーで、そのレパートリーの広さと歌唱力から、韓国のあらゆる世代から名実共にトップ歌手であると認識されている。
パティ・キム(패티金)
高校を卒業した翌年の1959年在韓米軍第8軍の舞台で本名キム・ヘジャでデビュー、まもなく現在の芸名に改名。1960年代に米国のテレビ番組『ジャニー・カーソンショー』に出演。1973年の『離別』が大ヒット。1978年に従来一段低く見られていた大衆歌手としては初めて、格式の高いソウルの世宗文化会館세종문화회관)で公演を行った。1989年には韓国人歌手として初めて米国カーネギーホールでの公演を果たしている。飲酒・喫煙・徹夜などの不摂生は一切しないことで有名。作曲家の吉屋潤(キル・オギュン / 길옥윤)と結婚するが、後に離婚。代表曲『離別』は、韓国国内にとどまらず、日本を含め海外でも多くのファンによって支持されており、敵対しているはずの北朝鮮の金正日総書記の愛唱歌にまでなっている。
沈守峰(シム・スボン / 심수봉
1955年生まれ。明知大学校の学生であった1978年に、韓国MBC大学歌謡祭で自作曲『그때 그사람』(あの時あの人)を歌い、歌手デビューする。翌1979年に起こった朴正熙大統領射殺事件の宴席に酌婦として同席していたことが明らかになり、1981年まで放送出演禁止措置を受けた。
金蓮子(キム・ヨンジャ / 김연자
1959年生まれ。光州市出身。1974年韓国東洋放送(TBCテレビ)の全国歌謡新人スターショーで優勝し、韓国で歌手デビュー。1977年に『女の一生』で日本でもデビューする。1981年に『歌の花束』で韓国レコード史上最高の360万枚のセールスを記録する。1988年にはソウルオリンピックのテーマソング『아침의 나라에서』(朝の国から)を歌い、日本での活動を再開した。1989年にはNHK紅白歌合戦に初出場、2002年に『北の雪虫』がオリコンの演歌チャートで初の1位となるなど、日韓両国で大成功を収め、その後のチョー・ヨンピルや羅勲児の日本進出、日本の演歌歌手によるトロット曲のカバー合戦を導き出し、日本における第1次韓国ブームの火付け役となった。
朴尚哲(パク・サンチョル/박상철
1969年生まれ。江原道出身。1993年1999年にKBSのど自慢で最優秀賞を獲得。2000年にデビュー。デビュー直後はヒットしなかったが、2001年に発売した『ジャオクよ(자옥아)』がヒットしiTV成人歌謡大賞を受賞。2005年には、『無条件(무조건)』を発売。当初は低調だったが、バラエティ番組で取り上げられ大ヒットした。現在でもカラオケを中心に絶大な人気がある。
張允貞(チャン・ユンジョン / 장윤정
1980年生まれ。1999年MBC(韓国文化放送)の江辺歌謡祭で大賞を受賞し歌手デビュー。2004年発表のアルバム第1集『オモナ』が大ヒットし、ソウル歌謡大賞成人歌謡部門大賞を受賞するなど年末の歌謡大賞諸賞を総なめにして、12年ぶりのトロットの大ヒットと評された。トロット界の超新星として今後を期待されている。また、シスケーリ化粧品と1億ウォンのギャランティーで1年間の専属モデル契約を結び、トロット歌手初の化粧品モデルとなった。
LPG
新進女性トロットグループ。その名の通り、ミスコリア・スーパーエリートモデル・世界ベストモデルなどの諸々のビューティーコンテストで受賞した実績をもつ 한영(ハニョン)・연오(ヨノ)・수아(スア)・윤아(ユナ)からなる、平均身長176.5cmの長身美女ばかり4人を集めている。

関連項目[編集]