青山里戦闘

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青山里戦闘
間島出兵
1920年(大正9年)10月21日-26日
場所 中華民国吉林省間島
結果 日本軍の戦術的勝利、戦略的には殲滅に失敗。独立軍の主力はロシア領及び満州奥地へ移動。
衝突した勢力
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍 北路軍政署
大韓独立軍
馬賊
指揮官
高島友武中将
東正彦少将
磯林直明少将
木村益三大佐
金佐鎮
洪範図
戦力
12,000 6,000[1]
被害者数
戦死 11, 負傷 24 (後述) 戦死 130, 死傷 90以上, 逃亡 200

青山里戦闘(せいざんり(チョンサンリ)せんとう)は、1920年10月21日から26日にかけて、満州間島和竜県(現・中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州和竜市)の各地で、日本軍朝鮮人の独立運動武装組織及び中国人の馬賊との間で行われた戦闘。青山里は、最初の戦闘が行われた場所付近の地名。

青山里戦闘は韓国側による呼称であって、日本側による呼称は間島方面出兵間島方面討伐など。

背景[編集]

1910年(明治43年)の韓国併合後、これに不満を持つ一部の朝鮮人は、日本の支配を逃れて近隣の中国(中華民国)及びロシア領内に亡命し、抗日宣伝や反日教育を行っていた。1919年(大正7年)、第一次世界大戦後の民族自決の機運の高まりによって、朝鮮各地で独立を訴える三・一運動(独立万歳運動)が起こると、これに呼応して、満州間島と呼ばれる朝鮮人居留地域において、独立軍と総称される朝鮮独立運動に関わる武装組織の活動が活発化した。これらの武装組織は、居留朝鮮人から金品や食料を調達したり、中国官憲やロシア過激派との協調を通じてその武力を蓄えていた。日本側は武装組織に関わる朝鮮人を「不逞鮮人」と呼び、中国側に討伐を要請したが、ほとんど成果が現れなかった。

1920年(大正9年)に入ると、ゲリラ事件が相次いで起こった。同年1月4日には「大韓国民会」を称する武装組織により、朝鮮銀行会寧支店から竜井出張所へ輸送中の朝鮮銀行券15万円が掠奪され、同年3月15日には朝鮮人3人により平安北道宣川郡泰山面面長及び面書記が銃殺され、同年5月には琿春「韓民会」の金雲瑞[2]率いる十数人により慶源西方で郵便配達員が襲われ憲兵が殺害された。

同年6月4日には、午前5時に穏城郡南陽対岸の三屯里から朝鮮人武装組織50人が豆満江を渡河して日本の警察憲兵及び守備隊と銃撃戦となり、武装組織は三屯里の民家に退却した。その際、日本側の損害はなく、武装組織は1人戦死、2人負傷し、2人捕虜、小銃2挺、小銃弾245発を押収した[3]。事件の背後に有力な一団があるとみた日本陸軍の第19師団は、安川少佐率いる歩兵2個中隊による追撃隊を派遣、同年6月7日に汪清県鳳梧洞で家屋内から射撃する独立軍と4時間にわたり衝突し、日本軍の戦死者は1人、武装組織は遺棄死体33人以上を残し、捕虜8人を捕らえた。また、屋内にいた朝鮮人女性4人、子供1人が負傷した(鳳梧洞の戦い)[4][5]。この戦いを見るや上海大韓民国臨時政府は、「我が軍の大勝利」として図們江軽便鉄道占領説など誇大な宣伝発表を行っている[6]

逆に同年8月には、朝鮮総督府の嘱託により長江好率いる1,500人の馬賊柳河県三源浦の独立軍根拠地を襲撃し、その首魁20人余りを捕えて銃殺している[7]。同年9月には、日本の要求により張作霖が孟富徳に独立軍討伐を開始させ、その退去命令により金佐鎮率いる北路軍政署の一団は安図県方面へ移動を余儀なくされた。

そうした中、同年9月12日、10月2日の二度にわたり琿春が馬賊等に襲撃され、日本領事館が焼失し、女性や子供を含む13人が殺害される事件が発生した(琿春事件)。同年10月7日、この襲撃を「不逞鮮人」によるとした原内閣は、居留民保護を名目に間島出兵を閣議決定し、中国側との折衝を開始した。同年10月16日には吉林都督奉天で結ばれた「日支協同討伐に関する協定」により、東支鉄道以南20里を除く東寧県琿春県延吉県汪清県和竜県の5県を日本軍が、それ以外の地域を中国軍が担当して、武装組織の掃討に当たることとなった。

経過[編集]

間島出兵には、日本陸軍の朝鮮軍から第19師団シベリア出兵より帰還途上の第14師団歩兵第28旅団、浦潮派遣軍からは第11師団第13師団のそれぞれ一支隊が参加した。このうち実際に作戦を行ったのは第19師団のみで、他の部隊は封鎖と示威を行ったにすぎない。

第19師団長の高島友武中将は、その作戦計画を二期に分け、第一期は武装集団の根拠地を掃討し夜間は自陣に戻ることとしし、第二期は同年11月20日から、洪範図及び金佐鎮の一団は既にロシア領及び安図県方面に逃れたため、部隊を分散配置させ残党の掃討、武器の押収、親日的な地域宣伝などに努めた。朝鮮軍司令部編『間島出兵史』による経過は以下。

東支隊[編集]

東正彦少将が率いる東支隊は、延吉県和竜県方面を担当した。高島師団長は同年10月13日の訓令で、東少将に対し、武装組織を敦化県及び安図県方面(協定の管轄外)に脱出させることのないよう特に注意を要すると示唆した。東少将は同月15日に竜井村に到着し東支隊を編成、同月17日に機関銃を有する500~600人の武装組織が頭道溝の西南約10里の青山里付近の谷に留まるとの情報を得て、以下の部隊を編成し、行動を指示した。

  • 山田隊(主力:歩兵第73連隊)は速やかに賊の西方に進出し退路を断ち主力をもって討伐する。
  • 騎兵連隊は後車廠溝、前車廠溝、昇平嶺から迂回し老嶺方面の退路の遮断に努める。
  • 歩兵第74連隊の2中隊等は頭道溝にて待機(支隊予備隊)。

主力たる山田隊は二縦隊を組んで青山里に向けて進軍、同月18日に右縦隊の中村大隊は頭道溝から、山田隊は竜井村からそれぞれ出発し、右縦隊は蜂蜜溝を経て青山里へ進軍、同月19日に蜂蜜溝の西南約3000メートルの谷で40人の中国人馬賊と衝突し、2人を負傷させてこれを撃退した。山田隊は頭遣溝南方の八家子を経て、同月20日に三道溝に到着した。

山田隊は武装組織が同月20日未明に奥地へ逃れたことを知り、これを捜索しつつ同地へ宿営した。同月21日には右縦隊が合流、山田隊は密林を捜索して付近の部落を掃討し、安川少佐の指揮する選抜歩兵1中隊が追撃隊として老嶺方面に向かうと、宿営地から1里のところに600人ほどの武装組織の宿営地跡を発見した。追撃隊は警戒しつつ600~700メートル程進んだところで武装組織の銃撃を受け、直ちに応戦して30分程の戦闘を行ったところで武装組織は逐次退却をはじめ、山田隊の主力も加えて老嶺方面に追撃したが、武装集団は密林に火を放ち、その隙に老嶺の東南の谷や密林に一部を残し安図県方面に退却してしまっため、ひとまず再編成のために主力の位置に撤退した。この戦いにより、日本軍の戦死者は兵卒4人、負傷者は下士官1人、兵卒2人、武装組織の遺棄死体は16人であった。(青山里の戦い)

騎兵連隊は、昇平嶺方面に湿地が多く行動が難しいのを見て、漁朗村に宿営した。翌22日午前5時30分、金佐鎮配下の士官生徒隊を基幹とする約300人の武装組織が来襲して交戦となり、支隊予備隊も急行したものの、武装組織は874高地を占領した地の利を得て頑強な抵抗を示し、その抵抗は5時間にも及んだ。午後0時30分、道に迷っていた飯野大隊も戦線に加わり遂にこれを撃退した。この戦闘により、日本軍の戦死は下士官1人、兵卒2人、負傷者兵卒12人であり、武装組織側の死傷者の詳細は不明だが60人に達するとみられ、捕虜5人、小銃22挺、弾薬2200及び機関銃1挺を捕獲した。武装組織は南西方面の密林に四散し、支隊予備隊はその撤退方面の捜索を行ったが明らかにはならなかった。(漁朗村の戦い)

同月24日夜8時、天宝山守備隊(歩兵第73連隊第6中隊)に対し約40人、同夜3時には約15人の武装組織が来襲し、2人を倒しこれを撃退した。この集団は、22日に漁朗村で戦闘を行った一団であると判断された。部隊はその後、天宝山の掃討に従事した。

東支隊長はさらなる兵力の集結を望んだが、地形などのこともあって意のままにならず、同月24日にみずから歩兵150人、機関銃3挺を率いて、北に逃れたとされる武装組織を追って漁朗村を出発、蜂蜜溝の北2000メートルの小川に沿って西進すると、同日午後4時に武装組織の宿営地跡を発見し、付近の密林の捜索を行い、古洞川を6里遡ったところで、同月25日夜10時ごろ武装組織の宿営地の煙を発見し、同日夜12時ごろ夜襲を敢行して撃退するも、なお付近に散在して乱射を継続したため、無益な損害を避けて付近の最高峰である1743高地に兵力を集結させた。この戦闘により日本軍の死傷者はなく、武装組織の死傷者は30人、小銃10挺、弾薬約10000を捕獲した。その後、捕虜の尋問により、野営していた集団は洪範図率いる300人(内武装250人)、金佐鎮率いる30人だったことが明らかになった。しかし兵力の不足からこれを徹底的に掃討することはできず、同月26日に蜂蜜溝に帰還した。この部隊は同月24日午後3時から同月26日午後4時まで密林中の行動を続けていたため、その疲労は極限だった。(古洞河の夜襲)

同月26日、大庭二郎朝鮮軍司令官は、田中義一陸軍大臣宛の電報で、奉天省に属し間島の外にある安図県の掃討許可を求めたが、同大臣は、提岩里事件を例に挙げ、一般の中国人や朝鮮人に危害を加えて国際問題化することは避けたいとして、協定の一方的破棄を不許可とし、同時に協定の交渉に当たった佐藤少将を通して張作霖へ、この件を通告した[1]

同月27日に高島師団長は、東支隊の正面にいる集団を武装組織の主力みなし、兵力不足を補うため、歩兵第74連隊第1大隊を会寧から急派させる独断の事後承認を申請し、朝鮮軍司令官の承認を得る。東支隊長は武装組織の大部分はいまだ老山嶺付近にいると分析し、後車廠溝、漁朗村、三道溝、青山里にいたる哨戒線を張り索敵に努めたが、少々の遺棄された武器弾薬を捕獲しただけで武装集団と遭遇することはなかった。

この間、加納信暉大佐率いる騎兵第27連隊(加納隊)は、銅仏寺方面の掃討に努め、大韓国民会の金剛[8]以下幹部数名を捕らえた。包囲された際の金剛は、朝鮮人家屋の倉の穴の中に隠れ、その上に薬を堆積させさらに残雪で覆って潜伏していた。

武装組織の特徴は、普段は良民を装い、甚だしきは婦人を装って日本兵に危害を加えようとし、また中国語が堪能であるため中国人との識別が困難で、その捜査は困難を窮めた。また退却する際には、斥候を主力と反対方向に向かわせて日本軍を誘導した。東支隊はその後、捜査を行うとともに地域に親日的な宣伝に努め、投降者は次第に増した。

磯林支隊[編集]

磯林直明少将が率いる磯林支隊は、琿春県方面を担当した。磯林支隊は3個の討伐隊を編成し、同年10月14日夜半から行動を開始した。

同年10月24日午後2時50分、安部大隊の田代少尉率いる歩騎兵30人の掃討隊は、武装組織150人と交戦し、偶然近くにいた羽生支隊の増援も加えて、2時間の戦闘の末撃退したが既に黄昏を見たため追撃を中止した。この集団は崔正国の率いる義軍隊と思われ、この戦闘により日本軍の死傷者はなく、武装組織は遺棄死体5体を残した。

同年11月4日、上坂大隊は三道溝の北方3里の地点で武装組織30人と交戦したが、夜に至ったため追撃の断念を余儀なくされた。この戦闘により、井田君平少尉及び兵卒4人が負傷し、武装組織は琿春韓民会の李明淳を含む遺棄死体3体を残した。

同年11月上旬、金雲瑞の一派が琿春東方の山中にいるとの報告をうけて、同年11月7日に歩兵2個中隊を派遣し、同月9日午後4時30分牛頭山の山麓で30人と交戦し、1時間後に撃退し、日本軍の死傷は兵卒2人、武装組織の遺棄死体は1体。

同年11月30日夜、海村中尉率いる歩兵小隊は金雲瑞が潜伏する駱駝河子を包囲し、金雲瑞を含む2人を射殺したが他は四散し、その際日本軍の兵卒1人が戦死した。

木村支隊[編集]

木村益三大佐が率いる木村支隊は、汪清県方面を担当した。歩兵第75連隊第3大隊(横田大隊)の増援を得て、主力は同年10月22日に軍政署の根拠地である西大浦十里坪に踏み込み、武官学校などを焼却、根拠地として使用不可能にするためその資源を滅した。追撃した蘆田、高畑両中尉率いる小隊は、十里坪の東北の密林で武装組織の小団体と30分交戦し、日本軍の戦死は兵卒1人、負傷2人、武装組織の遺棄死体は6体。

同年12月14日、武装集団が西方の谷にいるとの密告を受けて、島田少尉率いる30余人の部隊は、翌朝目的地に達し、家屋から射撃する武装組織と交戦した。日本軍は負傷3人、武装組織は戦死5人、捕虜2人、小銃8、弾薬1800を押収した。

航空隊[編集]

同年10月23日、長尾工兵大尉を長とし、サルムソン飛行機2機による第19師団航空隊を会寧で編成し、同年11月14日に飛行開始、1機は琿春、局子街を経て帰還の途中、濃霧のため位置を失い、不時着して使用不可能となった。11月19日、さらに2機の組み立てを完成し、計3機で連絡及び示威[9]に従事した。同年12月20日には作戦を中止し、寒冷地飛行の実験準備に取り掛かった。

結果[編集]

独立軍の主力と衝突した日本軍は第19師団の東支隊のみであり、その戦いも数日のうちに独立軍の撤退という形で終わり、他の支隊では散発的な小規模戦闘がみられただけであった。その後も、第19師団は同地に留まって掃討や対日宣伝に従事している。同年11月6日に日本政府は間島出兵の善後策について北京及び奉天と外交交渉を始めることを閣議決定し、これに基づいて朝鮮軍司令官は同年12月20日までに全部隊の撤兵を完了することとした。その後、第19師団の諸隊は概ね目的を達して翌1921年初頭にほぼ撤兵し、同年5月までに完全に撤収した。

一方、満州を逃れた朝鮮人武装組織は、レーニンが構想した遠東革命軍に参加するためロシアのスヴォボードヌイ(自由市)に集結したが、内紛の末、1921年6月27日に武装解除を拒否して赤軍と衝突し壊滅した(自由市惨変)。青山里の戦いで指揮を執ったとされる金佐鎮は、その後、満州に戻って農民に寄食生活していたが資金や武器が底を尽き、武装活動を辞めて寧安県蜜山県地方で農民に転向するための資金援助を日本側に願い出ていたが[10]日本政府に許可されず、1930年1月24日に朝鮮人の共産主義者、朴尚実によって射殺された。同じく戦いの指揮を執ったとされる洪範図は、その後赤軍に吸収され、高麗人としてカザフスタンに強制移住させられ、その地で没した。

間島出兵は武装組織の掃討に一定の成果を挙げたが、朝鮮と中国との間に抱える間島問題は未解決のままであった。1930年には中国共産党が関与して間島共産党暴動が起こり、1931年には朝鮮人・中国人が対立して長春万宝山事件、逆に朝鮮では朝鮮排華事件に至った。満州事変によって日本の軍事的支配下に入った後もこの地域の抗日パルチザンを最終的に治めるには至らず、1937年には金日成らが朝鮮領内に侵入して普天堡襲撃事件を起こしている。

争点[編集]

日本軍の損害[編集]

韓国系の文献は、青山里戦闘を「青山里大捷」と呼び、独立軍の大勝利であったとしている。「青山里大捷」は韓国が言うところの「韓民族の独立運動」の中で重要な部分を占めており、大韓民国の「建国神話」の中核をなす。韓国とは対照的に、北朝鮮版の「独立運動史」は青山里戦闘に言及していない。金日成パルチザンのみが唯一の武装抗日団体であったという北朝鮮の公式見解に反し、不都合だからである。

日本軍の損害について、朴殷植の『朝鮮独立運動之血史』(1920)は「加納連隊長以下900余〜1,600余人」、韓国中央選挙管理委員会編刊『大韓民国政党史』(1964)は「千余人」、韓国国防部戦史編纂委員会『韓国戦争史』(1967)は「死傷3,300人」、趙芝薫『韓国民族運動史』(1975)は「加納連隊長以下3,300人」としている。年を経るごとに日本軍の損害は誇張されていっている。同時に、日本軍の兵力、独立軍の兵力も膨れ上がり、戦闘の主役が金佐鎮から李範奭に移っている。これは、李範奭が韓国の初代国務総理兼国防部長官を務めたことと無関係ではないと見られる。こうした韓国側の主張は、日本軍の構成などに明白な誤りを含むだけでなく、記録の統一性や調査の正確性の観点から見てあまりにも不自然である。

日本側の史料によれば[11]、青山里戦闘で受けた日本軍の損害は、戦死11、負傷24のみで将校の死傷は見当たらない。この報告は靖国神社の合祀名簿によって裏付けられている。また、間島出兵後の第19師団の備蓄兵器調査においても、日本軍の戦闘損耗はきわめて軽微だったことが確認されている。

韓国側の文献に唯一実名が挙げられているのが「加納連隊長」である。『朝鮮独立運動之血史』は、日本領事の秘密報告書が加納連隊長の戦死を報告していると主張している。しかし、そのような領事報告は確認されていない。「加納連隊長」に該当する人物として考えられるのは、騎兵第27連隊長の加納信暉大佐であるが、加納信暉の名前が戦死者名簿にないだけでなく、間島出兵後の1922年(大正11年)まで連隊長を務めていたことが判明している。これは、青山里での戦果を裏付けるとされた唯一の資料が虚構であったことを意味し、韓国側史料の信憑性に疑問を投げかけている。

間島惨変[編集]

大韓民国臨時政府の機関紙である『独立新聞』は、1920年12月19日付で、その調査資料によるとして26,265人が虐殺、71人が強姦され、民家3,208軒、学校39校、教会15ヶ所、穀物53,265石が焼却されたと報道した。韓国側では、戦いに敗れた日本軍は独立軍の根拠地を掃討するために朝鮮人を無差別に虐殺し、集落ごと焼き払った「間島惨変(庚申惨変)」を引き起こし、その犠牲者は少なくとも3,469人[12]としている。日本側の史料によれば[11]日本軍に反抗した、独立軍の幹部だった等の理由で射殺された朝鮮・中国人の数は500人余りである。

参加兵力[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 「間島方面出兵に関する件」
  2. ^ 1912年10月に長水郡内真面事務所を襲撃して税金として徴収された現金を強奪、職員を拉致するなど複数の襲撃事件に関与した。1986年に大韓民国から建国褒章。
  3. ^ この戦闘で日本側が要した弾丸は 551 発。~「対岸不逞鮮人の行動に関する件」
  4. ^ 「不逞鮮人団取締に関する件」
  5. ^ この戦闘で日本軍が要した弾丸は以下。 「警備用彈薬補填一件」
  6. ^

     ○軽便鉄道占領
    先キニ鳳梧洞大捷セシ後第三面大挙ヲ準備セシ我独立軍ハ○○戦線ニテ敵軍ヲ掃蕩シ敵ノ唯一ノ軍用交通機関タル会寧郡ヨリ○○○ニ至ル軽便鉄道四十余哩ヲ占領シテ敵ノ交通ヲ遮絶シ敵ノ増遣を邀撃セシガ○○地点ニ出勤セント大計画中ナリト詳報ハ次号ニ

    大韓民国臨時政府が発表したとする文書の訳文(1920年8月6日)、「高警第二三六三一号」

  7. ^ 「馬賊首領長江好の行動」
  8. ^ 本名宋在吉、朝鮮銀行券掠奪事件により追われていた。同年に処刑され、1977年に韓国大統領表彰、1995年に建国勲章独立章。
  9. ^ 未だ飛行機を見たことのない朝鮮人、中国人には多大な効果を収めたと『間島出兵史』は記す
  10. ^ 総領事による1923年3月18日の報告~「独立国首領金佐鎮等救済方ノ件」
  11. ^ a b 陸軍第19師団司令部 「間島事件鮮支人死傷者調」 大正10年2月25日
  12. ^ http://mtcha.com.ne.kr/korea-term/sosun/term16-gandochambyun.htm

参考文献[編集]

  • 佐々木春隆、「韓国独立運動史上の「青山里大戦」考」 『軍事史学』59号 第15巻 第3号、22-34頁、1979年12月
  • 佐々木春隆、『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』、1985年

外部リンク[編集]

  • アジア歴史資料センター
    • 鳳梧洞の戦いについて
      • Ref: C03011381900 警備用彈薬補填一件
      • Ref: C06031086700 不逞鮮人団取締に関する件
      • Ref: C06031173200 対岸不逞鮮人の行動に関する件
      • Ref: C06031177400 密第102号其1066 1.仮政府の虚報発表に関する件 2.上海在留朝鮮人に対する注意書の件
    • 間島出兵について
      • Ref: C03022770200 間島出兵史送付の件
      • Ref: C06031180300 上海仮政府間島事件に関し虚報を宣伝す
      • Ref: C06031224300 日支共同討伐に関する協定事項の件通諜
      • Ref: C06031226700 間島方面出兵に関する件
      • Ref: C06031228700 間島事件に依る鮮支人死傷者調査の件
    • 金佐鎮について
      • Ref: B03041641200 独立国首領金佐鎮等救済方ノ件
  • 朝鮮族ネット-青山里戦闘(1), (2), (3)
  • ‘鳳梧洞・青山里大捷’関連貴重写真発掘:ハンギョレ