朝鮮独立運動

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朝鮮独立運動とは李氏朝鮮日本統治時代の朝鮮連合国軍政期における独立運動のことである。

大清帝国からの独立運動[編集]

大清帝国属高麗(李氏朝鮮)
大清帝国からの独立を祝して建立された独立門

李氏朝鮮は大清帝国の属国として王家である李氏両班と呼ばれる貴族によって統治されたが、欧米によるアジア植民地化が進むにつれ、旧態依然として欧米に対処できない清国からの独立を目指し日本と協力して近代化を果たそうとする運動が盛んになった。近代化を目指す勢力は日本に留学し、福澤諭吉などの支援を受けていたが、王を始めとする改革を望まない勢力によって粛清されていった。このような中、東学党の乱(甲午農民戦争)などの農民反乱に対して全く対処することが出来ない李王家に代わって宗主国である清国軍が反乱を鎮圧するなどして、朝鮮への影響力を強めていった。朝鮮の近代化を望む日本は清国と戦端を開いて勝利し(日清戦争)、下関条約により日本の要求が受け入れられ朝鮮の独立が達成された。ところが、王権が弱められる近代改革を望まない李氏はロシア帝国に接近していった。このため朝鮮のロシア属国化を恐れる日本は、同じくロシアの南下を嫌ったイギリスと同盟してロシアとの間に戦端を開き(日露戦争)、ロシアを打ち破った。朝鮮の独自改革は無理であると判断した日本政府と朝鮮の閣僚達は、日韓併合を推進し、朝鮮は日本の一部となった。

日本からの独立運動[編集]

日韓併合以降、これに対して日韓合邦により特権を奪われた両班や共産主義者などは朝鮮独立運動を行った。朝鮮半島で行われた憲兵警察制度による武断統治時期には、抗日運動は言論・結社の自由とともに厳しく取り締まられることとなった。このことから、半島内では秘密結社形態の抗日運動が展開されたが、当初は主に独立運動基地の建設に重きが置かれていた。特に、李氏朝鮮時代末期に高宗が退位させられた後に結成された新民会は、愛国啓蒙勢力等が主軸となり、西間島の三源堡に建てられ、朝鮮の独立運動史に多大な影響を及ぼすこととなった新興講習所(新興武官学校の前身)設立の基本となった。しかし、新民会は安岳事件105人事件などによって、ほどなく解散させられることとなった。なお、新民会以後に結成された独立運動団体の殆どは、共和制を主張することとなった。

新民会以外にも、満州に武官学校を設置する資金を募集の為に、1915年に大邱で作られた大韓光復会や、独立運動の資金調達とその資金の海外への送付を行う為に、1913年に平壌の祟義女学校で作られた松竹会などが存在した。特に、大韓光復会は愛国啓蒙運動系列と義兵活動を一勢力が連帯して作った団体であり、独立軍基地の建設に尽力した。[要出典]

この時期に半島内では、復僻主義を打ち立てて、高宗の復位を主張した独立義軍府も存在した。[要出典]

海外では、日本による統治に反発した農民達が、間島沿海州に大挙移住したが、このことは同地域で新韓村などの韓人村が形成されるきっかけとなり、海外における独立運動基地の基礎となった。特に、北間島では大倧教勢力が多く存在した。

民族解放運動の模索[編集]

日韓併合以降、朝鮮総督府による抗日運動の厳しい取り締まりにより、半島内での民族解放運動が困難なものになると、独立運動家達は海外で民族解放運動の拠点とするようになった。これによって沿海州では李範允が中心になった勧業会や、李相卨と李東輝が中心になった大韓光復軍政府、北間島では義兵長の出身である洪範図が導く大韓独立軍、西間島では旧新民会勢力が主軸になった耕学社や扶民団などの抗日民族団体が相次いで立ち上げられた。アメリカ州でも、安昌浩と朴容萬などが中心になって大韓人国民会を立ち上げ、同地域における独立運動の活発化を試みた。

三・一運動[編集]

タプコル公園にある独立宣言書のモニュメント
大韓民国臨時政府国務院記念写真(1919年10月11日)
後列左側から時計回りに金澈、尹顕振、崔昌植、李春塾、玄楯、安昌浩申翼煕

第一次世界大戦末期の1918年1月に、アメリカウッドロウ・ウィルソン大統領が「十四か条の平和原則」を発表したことを機に、朝鮮人の間で民族自決の意識が高まり、大韓帝国初代皇帝高宗葬儀に合わせた大規模な運動が計画された。

1919年3月1日正午、京城のタプコル公園から独立宣言書を朗読して独立を宣言した学生と青年達が、数万人の群衆と共に「大韓独立万歳」を叫びながらデモ行進を行ったことを発端として、三・一運動は始まった。運動は総督府の警察と軍隊の投入による治安維持が展開される中でも、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が行われ続けた。

3月~5月にかけてデモに参加した人数は205万人、デモの発生回数は1,542回とされている。しかし、総督府が憲兵や巡査、軍隊を増強したことによる武力弾圧によって、運動は次第に終息していくこととなった。

三・一運動をきっかけに、独立運動家達は独立運動には求心点が必要だと感じたことから、各地域で創設された亡命政府を統合することの必要性が主張されるようになった。そのことから、1919年 4月に当時世界の外交の角逐場で、各国の外交官にアプローチが取れるという利点があっただけでなく、日本の警察の力が及ぶことのなかった上海のフランス租界で、韓民族の光復意志の結束を掲げた「大韓民国臨時政府」が発足し、同じ時期に発足したウラジオストクの大韓国民議会や半島の漢城政府も、やがて上海の臨時政府に統合されていくこととなる。

臨時政府は当初大統領制を標榜し、初代大統領は李承晩だった。李承晩は外交論者で、外交戦略によって独立を勝ち取ろうとした。臨時政府は、1919年パリ講和会議1922年ワシントン会議に代表を派遣して独立を訴えたが、日本と同様に植民地を保持している列強諸国の反応は非常に冷淡なもので、全く成果を収めることが出来なかった。外交活動では所得を得ることが出来ず、特に外交論者の李承晩が、このような危機の中で請願した委任統治請願書が臨時政府に知られると、臨時政府の独立運動家達は新しい道を模索する為に、国民代表会議を開催した。しかし、この会議では実力養成を主張する改造派と、武装闘争を主張する創造派が対立することとなり、結局双方の歩み寄りが見られることのないまま、大部分の独立運動家達が臨時政府を離れるようになった。これ以降、抗日運動で民族の代表機関だった臨時政府は、一弱小団体に転落することとなり、金九の活躍により復権するまで、長期間を要することとなった。

1920年代の民族解放運動[編集]

尼港事件で焼け落ちた日本領事館
暗殺されそうになった王太子李垠梨本宮方子女王

1920年には朝鮮人パルチザンはロシア赤軍パルチザンと協力してニコラエフスクを占領し日本軍守備隊を全滅させ、日本領事一家以下邦人数百名を殺害する尼港事件を起こしている。 [1][2]

一方、間島や満州、沿海州に潜伏していた独立運動家達によって組職された抗日武装団体である独立軍は、 三・一運動をきっかけに平安北道甲山咸鏡南道恵山一帯、鴨緑江豆満江を中心とした国境地帯で、良民や官公吏への襲撃・殺害といったゲリラ行為を繰り返していた。

ついには1920年10月に満州琿春で、馬賊と大韓独立軍によって駐琿春日本領事館が襲撃に遭い日本人20人が殺害され[3]、日本領事館が焼き討ちにされる事件(間島事件)が発生し、総督府は中国側との折衝を開始し、10月16日には吉林省都督から作戦の許可を取り付け、ゲリラ掃討を開始した(青山里戦闘)。独立軍との戦闘は、専ら延吉和龍方面に展開した朝鮮軍第19師団東支隊との間で展開されることとなったが、日本側の被害は極めて軽微なもので、戦闘が始まった5日後の10月26日までに作戦区域から独立軍を追い出すことに成功し、翌1921年5月までに部隊を完全に撤収した。一方、独立軍は満州を放棄し、レーニンが構想した遠東革命軍に参加する為にシベリアへ向かったが、1921年6月に独立運動における主導権を巡る内紛と、赤軍による武装解除により壊滅状態に陥った(自由市惨変)。

また、朝鮮王朝李王家王太子を殺害を図った李王世子暗殺未遂事件も引き起こされた。

第一次世界大戦後の恐慌の中でも、労動運動小作争議、学生運動、思想運動等の抗日運動は絶え間なく展開され、この時期に半島では1926年6・10万歳運動や 三・一運動以降最大の抗日運動となった1929年光州学生事件が起こっている。また満州では、僑民会をはじめとした多くの独立運動団体が組職され、国内外で日本の要人の襲撃や破壊活動を展開した。

階級闘争[編集]

1920年代に入ると、三・一運動をきっかけとした、民族主義勢力の衰退やマルクス・レーニン主義の台頭によって、政治的・経済的に覚醒した労動者や農民達の間で、大規模な階級闘争が展開されることとなり、彼らは民族運動において大きな役割を果たすこととなった。

1920年4月には、京城で『労働社会の組織と制度の改善』を最終目的とした「朝鮮労働共済会」が結成され、その後は「朝鮮労働連盟会」、「朝鮮労農総同盟」への改編を経て、1927年9月に「朝鮮労働総同盟」「朝鮮農民総同盟」の2組織に分離することとなった。

他にも、1921年9月に釜山で起きた埠頭労動者5,000人によるストライキ闘争を皮切りに、半島全土において、長時間労働や不当な違約金の徴収、日本人労働者との賃金格差などといった、朝鮮人労働者達が自らの劣悪な労働環境の改善を求めたストライキ闘争が多発するようになった。その中でも特に大規模だったのは、1923年8月に平壌の靴下工場で起きた労動者 2,000名によるストライキ、1923年9月から 1年以上に亘って展開された全羅南道新安郡岩泰島における小作農民の地主を相手にした闘争、1929年1月から3ヶ月の間続いた元山ゼネスト、1930年1月に3,000名の女性労動者達が1ヶ月間に亘って行った、釜山朝鮮紡織ストライキ闘争だったとされている。

このような労農闘争は、徐々に暴力的なものとなり、1930年5月には咸鏡南道新興の張風炭鉱の労動者達300人が、労働組合の設立に反対する日本人資本家と警察の弾圧に対して、炭鉱施設と資本家の私宅を破壊し、威嚇射撃を続ける警察に対して、ハンマー棍棒などによる肉弾戦で迎え撃とうと試みた。1930年7月には、咸鏡南道端川で 2,000人の農民達が総督府による山林政策に反対して郡庁を包囲し、多数の死傷者が出る騒ぎとなった。このような労動者や農民達による階級闘争は、生存権の確保の要求に端を発した民衆の闘争だったが、総督府による支配に反発する、抗日の性格を帯びた民族解放運動の一環だった。[独自研究?]

新幹会の結成と活動[編集]

新幹会の創立を伝える東亜日報の紙面(1927年2月14日)

1920年代は、ロシア帝国で起きた十月革命の影響により、社会主義思想が朝鮮においても蔓延するようになり、ソウル青年会・新思想研究会・北風会など社会主義思想団体が多く結成された。社会主義者達は労動運動や農民運動など民衆達の階級闘争を指導する一方、民衆の利益を代弁する階級政党建設に尽力し、1924年には前述した朝鮮労農総同盟と朝鮮青年総同盟が発足し、1924年 4月には地下組織としての朝鮮共産党を結成することによって、社会主義運動は更に活発に展開されることとなった。

中国で第一次国共合作が成立し、社会主義者達は民族主義系列内で自治運動を主張する妥協的民族改良主義者が分化されると、非妥協的民族主義者達と結託し、1927年2月に新幹会を結成した。新幹会の結成後、各地方で新幹会の支会が相次いで結成され、1928年末には全部で143の支会が組職され、会員数は 2万人にまで達した。新幹会本部と各支会は、当時活発に起っていた様々な階級闘争を主導ないし支援した。

特に、1929年11月に光州で朝鮮人学生のグループと日本人学生のグループの間で起きた衝突事件である光州学生事件の際は、真相調査団を派遣して京城で大規模な民衆大会を準備し、半島全土で抗日運動を起こすことを目論んだ。これを機に総督府は、新幹会の主要幹部約40名の逮捕に踏み切った。これにより、新幹会は衰退し、1931年5月に解散することとなった。

槿友会[編集]

1927年に、朝鮮では女性運動団体である槿友会が創設された。槿友会は、啓蒙を主張するキリスト教系と、階級闘争を主張する社会主義系の対立があったが、男性が女性を支配するパターナリズム的社会構造で、差別と抑圧を受けた女性達が、自らの声を挙げたという意味では、当時の朝鮮では革新的な団体ではあったが、朝鮮人の知識層からは、男女差別は民族の歴史的伝統であるとして、激しい反発を受け、1930年代には有名無実なものへと衰退していった[4]

革命的大衆組織建設運動[編集]

1930年代に入り、革命的労動組合・農民組合運動が活発に起きるようになった。労動組合活動家達は、京城トロイカを組織して、地下で非合法的な準備組職を結成する一方で、表面では合法的な労働組合、ストライキ本部、労動者懇親会などを結成して運動を指導した。また、工場新聞やパンフレットなどを通じて、労動者達に8時間労動制や最低賃金制、同一労動、同一賃金を宣伝し、ひいては民族解放運動を先導した。革命的労動組合運動は、工業施設が特に多かった興南・咸興・元山一帯で最も活発に起きた。1931~35年までに行われた革命的労動組合運動によって、朝鮮総督府警察が逮捕した人数は、半島全体において1,759名にのぼった。

農民組合活動家達は、農村内における既存の青年同盟・女性同盟・少年同盟を革命的農民組合に編入して、それぞれ農民組合の青年部・婦女部・少年部を創設して、力量を強化する一方農民の利益のために闘争を続けた。革命的農民組合の指導の下、組合に所属した一部の農民達は激しい反日民族解放運動を展開したが、特に咸境北道明川の農民達は、ごとに戒厳隊・同志奪還隊・監視隊・連絡隊などを組織して、総督府の弾圧に対抗するなど、闘争を大衆的暴動に発展させた。1931~35年までに行われた革命的農民組合運動によって、朝鮮総督府警察が摘発した事件は43件、逮捕した人数は4,121名にのぼった。だが、日中戦争の勃発後更に総督府による取り締まりが厳しくなった後も、秘密裏に革命的農民組合運動は続けられていた。[独自研究?]

臨時政府の活動[編集]

大韓民国臨時政府主導の下の独立運動は、1920年代中盤以降は衰退していたが、金九の主導の下再び活発に行われるようになった。金九は、1932年1月8日李奉昌を差し向けて、天皇の暗殺を試みたが失敗に終わった(桜田門事件)。続いて金九は、尹奉吉を日本による第一次上海事変の戦勝を記念した大観兵式と天長節祝賀会に送り込み、爆弾テロを敢行させた(上海天長節爆弾事件)。以降、抗日テロ事件の首謀者として日本の警察に指名手配された金九は逃亡生活に入ったが、南京国民党政府は臨時政府を協力対象と考え、金九を保護し、1933年には蒋介石と抗日宣戦協力に合意するに至った。

この頃、梁起鐸1933年10月に臨時政府の大統領に選出され、1935年10月まで在職することとなった。しかし、日本軍の中国進出に伴い、臨時政府は上海を脱出しなければならなくなり、南京や長沙を経て、1940年には重慶にその本拠を移した。重慶で国民党とアメリカの援助を得て、韓国光復軍総司令部を創設し、 第二次世界大戦が太平洋戦線で拡がった1941年12月10日には対日宣戦布告(日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は皆無)を行ったが、日本軍とは一度も交戦することの無いまま、日本の敗戦を迎えることとなった(後述参照)。

抗日武装闘争と民族の解放[編集]

国外での独立運動[編集]

日本が、1931年9月に満州事変を起こし、同年末までに満州全土を占領すると、在満の独立運動家達は直ちに武装し、日本軍と対峙した。先に 梁世奉や池青天など民族主義者達が導いた朝鮮革命軍と韓国独立軍は、中国人達と提携し日本軍に戦闘を挑んだが、連戦連敗を続け、万里の長城以南への後退を余儀なくされた。一方、社会主義者達は1932年春に朝鮮人が多く住んでいた満州を中心とした多くの地域で遊撃隊を結成して、抗日闘争を展開した。[要出典]1937年日中戦争が勃発すると、金元鳳や尹世冑、韓斌、金学武など約130名が中国国民党から公式に支援を取り付け、1938年10月に朝鮮義勇隊を創設した。朝鮮義勇隊員には中国語朝鮮語日本語に堪能な者が多かったことから、日本軍の捕虜に対する尋問や対敵心理戦、敵後方での諜報及び工作活動に携わるケースが多かった。朝鮮義勇隊の主力部隊は、1941年春に黄河を渡って朝鮮人が多く暮らす華北地方に活動の拠点を移した。[要出典]華北に移った義勇隊員達は、八路軍と協力して胡家荘戦闘や反掃討戦など多くの戦闘に参加した[要出典]

光復軍青年工作隊

嘉興杭州・長沙などを転々とした大韓民国臨時政府は、1940年に重慶に安着したが、同年9月に幹部12名で韓国光復軍を創設した。

この通り、光復軍は一度も日本と交戦することの無いまま、日本の降伏を迎えることとなった。そのことから、金九は日本が降伏したとの一報を耳にした際、天を仰いで長嘆息した後、「韓国軍は、日本軍を打ち破ることは一度もなかった。私は日本軍を撃滅して、わが同胞を解放したかった。最後まで、日本軍に制圧されたままの解放なんて、結局何もなるまい。日本帝国はひとたび滅びても、より逞しく再建されるだろう。その時日本人は、庚戌国変の時より残酷に我々を奴隷にするだろう。その時、わが同胞は日帝と闘う気力を持っているか。自力で日帝から解放することも出来なかったわが同胞に、とてもそんな力があるとは思えない」と嘆いたと伝えられている[5]

1946年2月3日の通化事件の際には朝鮮人民義勇軍は東北民主連軍と協力して、中華民国政府日本人の蜂起を鎮圧することに成功した。鎮圧後には日本人数千人を処刑し以後通化における日本人の蜂起はなくなった。

半島内での独立運動[編集]

ソウル特別市鍾路区楽園洞にある建国同盟発足の地となったビル

1930年代の後半から、修養同友会事件や満州事変や初期の日中戦争での連戦連勝をきっかけに、朝鮮半島では日本を事大主義の対象とする意識が次第に浸透するようになり、崔麟をはじめとする三・一独立宣言文の起草メンバーの多くが親日に転向し始めた。1939年 10月末頃に、総督府警察に要注意人物としてマークされていた人数は、約7,600人に達したが、その内の約40%である3,076人が転向を表明している。非転向者は、約23%の1,765人しか残らず、残りの37%は不明とされた。また、独立運動家らが独立資金として称して一般良民から金品を強盗をする事件も多数発生しており、「徒に民怨を招」いていると報告されている[6]

このような状況の中でも 1930年代後半から半島内での抗日活動家のうちの民族主義者の比率は増加の一途を辿り、1940年代に入ってもその傾向は続いた。1940年~1941年にかけての思想犯検挙の状況によれば、共産主義者の逮捕者数が668名から158名に減少したのに対し、民族主義者の逮捕者数は72名から176名に増加している。

日米開戦以降の日本では、戦時体制が敷かれるようになり、外地である朝鮮半島においても、あらゆる分野で物資不足が叫ばれるようになった。戦争末期の国民徴用令の朝鮮における施行に伴い、内地で働く者もでた一方で、デマの流布やサボタージュ、徴用や徴兵、学兵、供出の拒否といった消極的な形での抗日活動も見られた[要出典][7][リンク切れ]

第二次世界大戦中の国外における独立運動は、半島からは地理的に遠く離れていたうえに、殆ど何も出来ない状況にあった。そのことから、サイパン島玉砕を機に日本の敗戦が濃厚となってからも、重慶の臨時政府では、臨時政府が連合国から独立後の正当な政府と認められない、直ちに半島に帰還することが出来ないのでは、という懸念が浮上するようなり、同胞達が住む半島の戦後の状況を不安視する声が上がり始めた。このような点で、1940年代の半島における唯一の独立運動団体だった建国同盟の役割は大きいものがあった。建国同盟は、1944年8月10日に、日本の敗戦を見越した呂運亨趙東祜などを主軸に立ち上げられた。建国同盟の綱領は手短なもので、

  1. 各人各派を大同団結し、挙国一致で日帝を駆逐し、韓民族の自由と独立を回復する。
  2. 連合国と連合戦線を形成し、一切の独立を阻害する反動勢力を撲滅する。
  3. 民主主義的建設と、労農大衆解放に重点を置く。

といったものだった。

中央と地方で組職を立てながら、建国同盟は治安隊と軍事団体組職、国外独立運動団体との提携活動を展開した。趙東祜などで軍事委員会組織し、後方撹乱活動を展開させ、満州軍官学校将校達を少数糾合し、北京を拠点に華北の朝鮮義勇軍と連結し、重慶の臨時政府とも連絡を取ろうとした。

1944年10月には農民同盟が組職されたが、この組職は建国同盟の友軍だった。呂運亨は学生や教師、鉄道員、女性などの組織も、それぞれ小規模ながら立ち上げ、徴用や徴兵の拒否者達の組職に関与しながら、共産主義者達とも提携していた。

西大門刑務所を出所した政治犯達

1945年8月15日に、朝朝鮮総督府の要請に従って遠藤柳作政務総監に会った呂運亨は、

  1. 全朝鮮の政治犯・経済犯を即時釈放せよ。
  2. 集団生活地である京城の食糧を3ヶ月分確保せよ。
  3. 治安維持と建設事業に何の干渉もするな。
  4. 朝鮮において指導力となる学生の訓練と青年の組織に干渉するな。
  5. 全朝鮮にある事業場の労働者を我々の建設事業に協力させ、何の苦しみも与えるな。

といった5ヶ条の要求を提示した。呂に日本人の生命及び財産保護の為の治安協力を要求したかった遠藤政務総監は、状況が状況だっただけに呂の要求を聞き入れざるを得なかった。翌日から、半島全土の獄門が開かれ、政治犯達が釈放された。

建国同盟は、1945年8月15日の解放直後に改編して、「朝鮮建国準備委員会」として発足した。同日の日本の降伏によって、朝鮮独立運動は相手を連合軍に変えて継続された。

連合軍占領下での独立運動[編集]

連合軍の軍政に対し蜂起した南朝鮮人

朝鮮人の手によって朝鮮人民共和国の建国が謳われたがこれを承認しない連合国による武力進駐と軍政が布かれ朝鮮は南北に分割統治された。連合軍占領下の朝鮮では日本統治時代と異なり、強制拠出や災害などにより疫病の流行と物価高騰が続発し、1946年10月には230万人の朝鮮人が連合国に対して蜂起する大邱10月事件が起き100名を超える犠牲者が出た[8]。また、アメリカの支援を受けた李承晩などによる南北分離独立に反対する市民による蜂起とそれに対する武力鎮圧が行われ数万人が殺害された(済州島四・三事件)。

脚注[編集]

関連項目[編集]