呂運亨

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呂運亨
1947 여운형.jpg
各種表記
ハングル 여운형
漢字 呂運亨
発音: ヨ・ウニョン
日本語読み: りょうんきょう
ローマ字 Yo Un-hyung
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呂 運亨(ヨ・ウニョン、りょ・うんきょう、1886年5月26日 - 1947年7月19日)は、朝鮮独立運動家、政治家。号は「夢陽」(モンヤン、몽양)。

来歴[編集]

YMCAで演説する呂運亨(1945年8月16日)
朴憲永(左)と(1946年2月)

京畿道楊州に生まれる。1914年中国亡命南京の金陵大学英文科で学ぶ。1918年上海で新韓青年党を組織。1919年上海で設立された大韓民国臨時政府に参加。同志で金奎植パリ講和会議に派遣。原敬内閣の招請で訪日、東京で朝鮮独立を主張。1920年上海の高麗共産党に入党。1922年モスクワで開催された極東諸民族大会に出席。1930年上海で逮捕され朝鮮で3年服役し、出獄後は言論活動を中心に活動、1933年朝鮮中央日報社の社長に就任。

第二次世界大戦中は朝鮮人に向けて、半島学生出陣報、京城日報などを通じて「日本軍に志願するべきである」とした文章を投稿し、日本の戦争政策に協力したという話もある[1]。それは、「大東亜はわが日本を中心に建設されている。一大の決戦は、東亜10億の生存権を獲得するための戦いだ。血が乱舞する中、半島はいったい何をしていたのか」と発言したこともあったというものだ[1]。呂は韓国の親日人名辞典には掲載されていない[1]が、韓国の保守新聞、中央日報は前述の事実から「呂が親日であるのは明らか」と主張している[1]。しかし、親日反民族行為真相糾明委員会では呂運亨の親日資料はただ一つで、1943年から1945年まで独立運動をした事実で親日論難を否定した[2][3]。大戦末期の1945年日本の敗戦を見越して独立運動を活発化させた。1944年8月10日建国同盟を秘かに結成。朝鮮総督府政務総監遠藤柳作が呂と接触し、解放後の治安維持のため行政権の委譲を持ちかけたため、政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件に受諾、1945年8月15日の日本敗戦の報を受け、その日の内に安在鴻などとともに朝鮮建国準備委員会を結成した。呂は、日本との提携及び宋鎮禹曺晩植(以上明治大学卒)、金性洙安在鴻(以上早稲田大学卒)など、日本留学を経験している知日派の力が、独立後の体制作りに必要不可欠と考えていたが、未だ勢力をまとめ上げられずにいた。

日本の降伏は、少なくともアメリカが予想していたよりも早かった[4]朝鮮総督府朝鮮軍は茫然自失に陥っており、朝鮮は外国の軍隊のないまま8月15日を迎え、突然の「解放」(光復)というニュースのみがもたらされた。呂運亨率いる建国準備委員会は、この事態に最も早く対応した集団だった(「解放」当時では朝鮮で最も組織された集団だったといわれる)が、釈放された政治犯たちの合流により左傾化したため、右派はこれに反発した。

1945年9月6日、建国準備委員会は「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した。この頃には朝鮮共産党朴憲永をリーダーとしてすでに再建されており、政権に加わっていた。しかし連合軍側はこれを日本の傀儡による建国とみなして認めず、樹立宣言の翌日の9月7日アメリカ軍は仁川に上陸、9月11日アメリカによる軍政を開始し、朝鮮人民共和国及び建国準備委員会を否認。独立は失敗に終わった。

さらに建国準備委員会に反対する全羅地方の資本家・湖南財閥を中心に右派により韓国民主党(韓民党)が組織され、呂が期待していた宋鎮禹や金性洙らがそのリーダーになった。韓民党は国内の独立運動家たちによる組織を拒否して重慶に亡命していた大韓民国臨時政府の支持を打ち出した[5]

呂は、その後も中道左派の代表的な指導者として左右合作による統一戦線の維持に腐心、11月12日には諸派をまとめあげて朝鮮人民党を結成した。1946年には朝鮮の信託統治を巡って国内が紛糾するなか、反信託統治をとりつつも極右、極左からは距離を置き、南朝鮮独立を主張する李承晩らを排除した後の軍政からも期待された。しかし左右両派の主張の折衷案を提示したものの朝鮮共産党や韓国民主党の支持を得られず活動は停滞した。9月から10月にかけ、軍政に反対する集会やデモ、ストライキが相次ぎ、これを軍政が激しく弾圧したため国内は民衆の支持を得て南朝鮮労働党を中心とする左派が台頭した。軍政は過渡立法院を立てて左派の排除と南朝鮮の単独独立を容認するようになると、呂は社会労働党に続き、1947年5月勤労人民党を建て南朝鮮労働党との協調を図ろうとしたが、7月19日、韓智根[6]によって暗殺された

(南朝鮮独立を主張する李承晩らを排除した後の軍政からも期待された)この句節は意味不明。削除訂正すべし。

[7]

人物[編集]

交際の広い人物でもあり、例えば日本の神道思想家葦津珍彦とも交流があった。終戦間際に、呂運亨は葦津を朝鮮ホテルの一室に呼び、「日本敗戦後の対日弾圧は、徹底して厳しく、日本の諸君の想像以上の存亡の危機に立つ。朝鮮は形は独立するが、建国の人材に乏しく極東の弱小国にすぎない。この極東の状況は明白だし、この時こそ日韓両相扶け相和すべきの天機。私はその為に全力を尽くす」と主張した上で、彼に「萬里相助」としたためた書を贈っている。

呂運亨は南北朝鮮に於いて高い評価を受けている数少ない政治家である[8]。朝鮮独立の為に働いた他の人々は、続く南北分断と反共/共産独裁主義の政治に依り、貶められている。いっぽう、彼の中途的な政治路線に 'オポチュニスト'と責める人々が頻繁にある。呂が朝鮮戦争前に暗殺されたこと、また朝鮮総督府・アメリカ・ソ連などいずれの勢力に対しても従属路線も全面対立路線も採らず、常に適度に距離を置こうとしていたことは結果的に南北両国民の間に、彼を朝鮮の自由の為に働いた稀有な政治家という良い印象のみを残したことになるだろう[8]また、名越二荒之助等日本の保守派からは、「彼が大統領となっていれば、現在の日韓関係は全く違っていたものになっていただろう」と言う声が多く聞かれる[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d “【コラム】恣意的に作られた親日人名辞典”. 中央日報. (2009年11月6日). http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=122425&servcode=100&sectcode=100 2010年2月24日閲覧。 
  2. ^ “"보수진영의'여운형 친일파'주장은 허구"(韓国語)”. オーマイニュース. (2010年7月19日). http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001418135 2013年12月10日閲覧。 
  3. ^ “노학자도 발끈한 조선.동아 기자의 '황당'질문(韓国語)”. オーマイニュース. (2009年11月27日). http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001270063&PAGE_CD=N0000&BLCK_NO=3&CMPT_CD=M0006 2013年12月10日閲覧。 
  4. ^ アメリカが予想したよりも早く日本が降伏したことは、その後の朝鮮に大きな影響を与えた。ソ連による満州攻略は9月までかかる予定だったが、降伏が早く、関東軍がすぐに壊走したために、ソ連の南下が急速であるとアメリカは誤解した。実際にはソ連による朝鮮全土の占領はあり得なかったが、アメリカは疑心暗鬼に陥った。その結果、米英中ソ4ヶ国による信託統治案は合意として生きていたものの、当面の方針として米ソによる北緯38度線での分割占領があわただしく決められた。
  5. ^ 韓民党は程なくして李承晩と連合して左派を排除し、大韓民国建国を主導する勢力となった。しかし、建国後すぐに韓民党は李承晩と対立し、野党となった(李承晩#大韓民国建国)。以降、同党の流れを汲む勢力が韓国における野党勢力の中核となる。
  6. ^ 右翼テロ組織である白衣社の青年とされるが、李承晩派の刺客であったとする説が根強い。
  7. ^ 今日の歴史(7月19日)”. 聯合ニュース  (2011-07-19 ). 2011年8月8日閲覧。
  8. ^ a b 徐仲錫『現代朝鮮の悲劇の指導者たち 分断・統一時代の思想と行動』林哲、金美恵ほか訳。42頁

4.^ アメリカが予想したよりも早く日本が降伏したことは、その後の朝鮮に大きな影響を与えた。ソ連による満州攻略は9月までかかる予定だったが、降伏が早く、関東軍がすぐに壊走したために、ソ連の南下が急速であるとアメリカは誤解した。実際にはソ連による朝鮮全土の占領はあり得なかったが、アメリカは疑心暗鬼に陥った。その結果、米英中ソ4ヶ国による信託統治案は合意として生きていたものの、当面の方針として米ソによる北緯38度線での分割占領があわただしく決められた。

訂正 4. アメリカが予想したよりも早く日本が降伏したことは、その後の朝鮮に大きな影響を与えた。ソ連による満州攻略は9月までかかる予定だったが、降伏が早く、関東軍がすぐに壊走したために、ソ連の南下が急速になり、ソ連軍は米軍よりも先に、朝鮮半島に侵攻した。しかし、ソ連はヤルタ協約を尊重して、北緯38度線で進軍を停止した。以南は後で進駐した米軍により占領され、朝鮮半島は分割された。信託統治案は冷戦の勃発で廃棄され、南北分割は永久化した。

参考文献[編集]

  • 姜徳相『呂運亨評伝1 朝鮮三・一独立運動新幹社、2002年。
  • 姜徳相『呂運亨評伝2 上海臨時政府』新幹社、2005年。
  • 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年。
  • 斎藤吉久「朝鮮独立を支援した神道人‐呂運亨と葦津珍彦の交流」『正論』1999年4月号、産経新聞社。
  • 名越二荒之助『日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる』明成社、2002年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]