南北国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と金(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。

南北国時代(なんぼくこくじだい、남북국 시대)は主に韓国で用いられる新しい歴史用語で、統一新羅(南)と渤海(北)の並立時代を指す。北朝鮮も同様に渤海を自国史に組み込むが、「南北国時代」なる用語は使わない。この用語は渤海を韓国の自民族史に組み込む意図で用いられており、渤海領土を継承する中国やロシア、歴史的に渤海研究を主導してきた日本では受け入れられていない。特に、渤海を自国の少数民族の地方政権とみなす中国の歴史観とは激しく対立している。

統一新羅と渤海[編集]

朝鮮歷史
朝鮮の歴史
櫛目文土器時代
無文土器時代

箕子朝鮮
辰国
三韓


箕子朝鮮

衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 馬韓

漢四郡
三国 任那 百済 高句麗
新羅
熊津安東都護府
南北国 統一
統一
渤海
後三国 新羅 後百済 後高句麗 渤海
高麗
双城 東寧 耽羅
元朝
高麗
李氏朝鮮
大韓帝国
日本統治時代
連合軍軍政期
大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国
Portal:朝鮮

満洲南部から朝鮮半島北部にかけては高句麗が勢力を維持していたが、668年と新羅の連合軍に滅ぼされた。のちに唐は朝鮮半島から撤退し、新羅は高句麗故地の南部を占領した。これにより朝鮮半島が統一されたとして、以降の新羅は統一新羅と呼ばれる。一方、唐により営州(現在の遼寧省朝陽市)に移されていた高句麗遺民は、契丹の反乱に乗じて粟末靺鞨の首領のもと東遷し、震国を築いた。その後唐と和解して渤海郡王に冊封され、さらに渤海国王にすすめられた。これにより渤海と呼ばれる。渤海は満洲東部、ロシア沿海州から朝鮮半島北部にかけてを領土とした。渤海と新羅はほぼ全時代にわたって激しく対立した。渤海は926年に契丹に滅ぼされ、故地には東丹国がおかれたが後に南遷した。同じ頃、918年に朝鮮半島中部に高麗が興り、935年に新羅を征服した。渤海故地では混乱が続き、のちに女真族が勃興する。

史学史[編集]

「南北国時代」論の歴史は非常に新しい。この議論の引き金を引いたのは、北朝鮮の朴時亭の論文「渤海史研究のために」(1962年)である。それまで北朝鮮の公的史観において、レーニンの民族論をベースにして、新羅の三国統一が朝鮮準民族(ナロードノスチ)形成の契機とされていた。朴時亭以後は、三国鼎立、南北両立、そして高麗による統合という新たな歴史観が北朝鮮の公的見解となった。これにあわせて「統一新羅」は「後期新羅」と呼ばれるようになった。ただし、北朝鮮では「南北国時代」なる用語は使わない。

北朝鮮と正統性を争う韓国では、遅れて李佑成が「南北国時代と崔致遠」(1975年)を発表し、新羅と渤海の並立時代を「南北国時代」と規定した。この規定は民族主義的な韓国史学において受け入れられ、国定教科書に記述されるに至っている。ただし、北朝鮮と異なり「統一新羅」の呼称は引き続き用いられている。

「南北国時代」論の問題[編集]

「南北国時代」論者は、南北国時代という用語の初出は新羅後期の崔致遠による『崔文昌侯全集』と主張する。崔致遠の唐への上表文では、渤海を指して「北国」と記している。しかし、渤海が新羅を「南国」と呼んだというのは史料の裏付けのない憶測に過ぎない。「南北国時代」論者は、ついで高麗時代の『三国史記』に見える「北国」用例をあげるが、都合の悪いことに、同じ『三国史記』にみえる「北朝」は北方の契丹を指している。そもそも『三国史記』には渤海関係記事はほとんどみえず、わずかに唐・新羅と渤海との紛争が記録されているにすぎない。李承休の『帝王韻紀』が歴代「東国君王」の一つとして渤海を取り上げている。

李氏朝鮮の実学者柳得恭が『渤海考』の中で、「高麗は南方の新羅、北方の渤海をあわせて南北国史を編纂すべきだったのに、これをしなかったため渤海故地をえる根拠を失い弱国となった」と主張しており、「南北国時代」論者はこれを特筆する。しかし、李氏朝鮮におけるメインストリームの見解は、『東国通鑑』に「契丹之失信於渤海、何与於我(契丹が渤海を裏切ったことなど我が国と関係ない)」とあり、『東国綱目』に「渤海不当録于我史(渤海は我が国の歴史に記録するにあたらない)」とあるように、渤海を自国の歴史の一部とみなさないものであったが、現在の韓国や北朝鮮では「渤海は高句麗人が建国した国であり、高句麗の継承国で、韓国史の一部である」と統一した見方をしている。この考え方は、1784年に柳得恭『渤海考』が初めに発表し、1970年代になってこの研究が盛んになり、現在では、この時代を北は渤海、南では新羅が並立した自国の「南北国時代」として国定教科書にも記載し教育をおこなっている[1]。朴チョルヒ京仁教育大学校教授は、このような韓国社会教科書について、過度に民族中心的に叙述され、「高句麗と渤海が多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗の領土拡大は異民族との併合過程であり、渤海は高句麗の遺民と靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海は高句麗遊民と靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対する内容は全くない。渤海は高句麗との連続線上だけで扱われている」と批判している[2][3]

このように、渤海を自民族の歴史と位置付ける観念は弱いため、「南北国時代」論者は、より自民族としての観念が強固な高句麗に渤海を結びつけようとする。あたかも渤海に独自のものが何もなかったかのような言説が韓国では広がっている。その牽強付会ぶりは、自らそれを主導してきた宋基豪ですら「もし渤海人たちが聞いたら泣いてしまうだろう」と自嘲するほどである。

他国の歴史観との対立[編集]

渤海は靺鞨と高句麗遺民が一緒に立てた多民族国家という学説は、1933年に白鳥庫吉が初めて唱え、韓国の学界において主流を占めている。反面、北朝鮮の学界は全住民が高句麗遺民と主張し、中国とロシアの学界は靺鞨と主張している。わけても中国の学界は、高句麗と渤海の文化的継承性も否定している[4]

中国は渤海を自国の少数民族による地方政権とみなしている。中国の歴史観によれば、靺鞨を主体とする渤海は、唐から冊封を受けた中国の少数民族による地方政権であった。また、中国の歴史学者は渤海の構成主体を靺鞨諸族と見ており、渤海を自国の古代国家と主張する韓国と対立している。

黄文雄は著書で、「満州族先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている[5]。また、は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている[5]南出喜久治も、「高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であって、韓民族の民族国家ではない」と述べている[6]

戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉箭内亙松井等稲葉岩吉池内宏津田左右吉瀬野馬熊和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海等は「満州史」の一部である(ただし、高句麗は朝鮮史の一部でもある)という認識をしていた[7]今西龍は、「而して特に注意すべきは檀君は本来 、扶餘・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶餘の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず[8]」と述べている。また、稲葉岩吉は「兎に角三国時代の三分の二は満州民族が此の領土に移住して当時の文化を植付けて居ったということは争われない[9]」と述べている。朝鮮総督府朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はがほとんど収録されていない[10]。 その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史の一部と認識されていたためである[11]。 朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は、「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している[12]。 今西龍は1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している[13]。また、戦前刊行された朝鮮通史である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない[14]。執筆した稲葉岩吉は、高句麗人や渤海人や女真人といったツングース系満州民族である高句麗と百済を韓族である新羅が統一したと認識していた[15][16]。戦後、満鮮史観を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている[17][18]

横田安司は韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化での民族主義史学以降である事から、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している[19]。戦後になると石井正敏を初めとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、南北国時代論の恣意的な史料解釈が批判されるなど、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。

君王[編集]

新羅[編集]

  1. 孝昭王(692-702)
  2. 聖徳王(702-737)
  3. 孝成王(737-742)
  4. 景徳王(742-765)
  5. 恵恭王(765-780)
  6. 宣徳王(780-785)
  7. 元聖王(785-798)
  8. 昭聖王(798-800)
  9. 哀荘王(800-809)
  10. 憲徳王(809-826)
  11. 興徳王(826-836)
  12. 僖康王(836-838)
  13. 閔哀王(838-839)
  14. 神武王(839)
  15. 文聖王(839-857)
  16. 憲安王(857-861)
  17. 景文王(861-875)
  18. 憲康王(875-886)
  19. 定康王(886-887)
  20. 真聖女王(887-897)
  21. 孝恭王(897-912)
  22. 神徳王(912-917)
  23. 景明王(917-924)
  24. 景哀王(924-927)

渤海[編集]

  1. 太祖 高王 ( 698-718 )
  2. 光宗 武王 ( 718-737 )
  3. 世宗 文王 ( 737-793 )
  4. 廃王 ( 793 )
  5. 仁宗 成王 ( 793-794 )
  6. 穆宗 康王 ( 794-808 )
  7. 毅宗 定王 ( 808-812 )
  8. 康宗 僖王 ( 812-817 )
  9. 哲宗 簡王 ( 817-818 )
  10. 聖宗 宣王 ( 818-830 )
  11. 荘宗 和王 ( 830-857 )
  12. 順宗 安王 ( 857-871 )
  13. 明宗 景王 ( 871-894 )
  14. ?王 ( 894-907 )
  15. 哀王 ( 907-926 )

脚注[編集]

  1. ^ 濱田耕策『渤海史をめぐる朝鮮史学界の動向-共和国と韓国の「南北国時代」論について』朝鮮学報86、朝鮮学会
  2. ^ 초등교과서, 고려때 ‘23만 귀화’ 언급도 안해『京郷新聞』2007年8月21日
  3. ^ 초등 4~6학년 교과서, 단일민족·혈통 지나치게 강조『Yahoo!Koreaニュース』2007年8月21日
  4. ^ 韓国古代史研究の争点と韓国学界の研究水準(下)『朝鮮日報』2007年8月22日
  5. ^ a b 黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』77頁~80頁 ワック 2005年
  6. ^ いはゆる「保守論壇」に問ふ<其の五>日韓の宿痾と本能論
  7. ^ 新潟大学『現代社会文化研究No. 39』
  8. ^ 今西龍「檀君考」『朝鮮古史の研究』
  9. ^ 「朝鮮の領土問題民族問題及び鮮満文化関係に就て(一)―鮮満関係史の一節―」『朝鮮』 第148号
  10. ^ 朝鮮史編修会編『朝鮮史』朝鮮総督府
  11. ^ 新潟大学『現代社会文化研究No. 39』
  12. ^ 第1回朝鮮史編纂委員会 『朝鮮史編修会事業概要』
  13. ^ 朝鮮史編修会第4回委員会『朝鮮史編修会事業概要』
  14. ^ 稲葉岩吉・矢野仁一『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』
  15. ^ 『満鮮不可分の史的考察』
  16. ^ 「朝鮮の領土問題民族問題及び鮮満文化関係に就て(二)―鮮満関係史の一節―」『朝鮮』 第149号
  17. ^ 酒寄雅志『渤海と古代の日本』「あとがき」
  18. ^ 古畑徹「戦後日本におけ る渤海史の歴史的枠組みに関する史学史的考察」『東北大学 東洋史論集』
  19. ^ 鄭大均 古田博司編『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』

関連項目[編集]

先代:
三国時代
朝鮮の歴史
南北国時代
統一新羅時代
次代:
後三国時代