後百済

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
903年頃の後百済の版図(薄オレンジ)

後百済(ごくだら、900年 - 936年)は、後三国時代、挙兵した甄萱(キョンフォン)が、新羅によって滅ぼされた百済の復興を唱えて建国した国。

甄萱は、尚州の農民出身で、西南海で軍功をたてて頭角をあらわし、新羅朝廷により将軍に抜擢された。しかし、甄萱は、将軍の位に不満を持ち、根拠地の西南海で勢力を蓄え、挙兵を準備した。892年、農民一揆に乗じて挙兵し、武珍州(全羅南道光州)、更に完山州(全羅北道全州)を占領し、当初、「新羅西面都統治指揮兵馬制置、持節都督全武公等州軍事、行全州刺史兼御使中丞、上柱国、漢南郡開国公」と称した。900年、王となり、国号を百済と定めた。

920年、甄萱は、新羅西部の大耶城を攻略し、更に高麗南端の進礼城に進軍し、高麗との戦端を開いた。当初、勢力は互角であり、922年、後百済は、日本に参戦を要請したが拒絶された。後唐にも朝貢したが、名ばかりの官職しか得られず、実質的な援助はなかった。

926年10月、後百済は、金城を占領し、新羅の景哀王を自殺させた。後の高麗王王建は、新羅の救援に赴いたが大敗した。同年12月、甄萱は休戦を申し入れ、927年3月、王建はこれを受諾したが、同年5月には再び戦闘が再開された。929年、後百済は、慶尚北道で快進撃を収め、再び日本に援助を要請したが、再び拒絶された。

930年、高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。934年、甄萱は、再び休戦を要請したが、王建はこれを受け入れず、後百済軍に対して攻撃を続行した。

935年、甄萱の長男の神剣は、次男の良剣と三男の龍剣と共謀して父の甄萱を幽閉し、四男の金剛を殺害した。同年6月、甄萱は、娘を連れて高麗に投降した。

936年6月、甄萱は、神剣の討伐を自ら請い、王建は甄萱と共に後百済を滅ぼした。甄萱は、その後暫くして死去した。良剣と龍剣は、晋州に流され、その後殺害された。同時に、王建は、甄萱の娘婿の朴英規に爵位を与え、甄氏の懐柔に努めた。

関連項目[編集]

朝鮮歷史
朝鮮の歴史
櫛目文土器時代
無文土器時代

箕子朝鮮
辰国
三韓


箕子朝鮮

衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 馬韓

漢四郡
三国 任那 百済 高句麗
新羅
熊津安東都護府
南北国 統一
統一
渤海
後三国 新羅 後百済 後高句麗 渤海
高麗
双城 東寧 耽羅
元朝
高麗
李氏朝鮮
大韓帝国
日本統治時代
連合軍軍政期
大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国
Portal:朝鮮