檀君
| 檀君 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 단군 |
| 漢字: | 檀君 |
| 片仮名: 現地語読み |
タングン |
| 平仮名: 日本語読み |
だんくん |
| ローマ字転写: | Dangun |
檀君(だんくん)は13世紀末に書かれた『三国遺事』にはじめて登場する伝説上の古朝鮮初代王。三国遺事によると、天神桓因の子桓雄と熊との間に生まれたと伝えられる。檀君王倹に関しては、檀君朝鮮の項目を参照。
目次 |
[編集] 檀君の実在性
檀君はあくまでも神話上の存在であり、実在しなかったとされている。檀君王倹という名についても、平壌の古名として「王険」「王険城」が『史記』朝鮮列伝に出てくるのが初出で、元々は地名であったことがわかる。12世紀に成立した高麗の正史『三国史記』高句麗本紀第五東川王の条には平壌にかつて住んでいた仙人の名前として王倹という人名が出てくるが、檀君という王がいたことは全く書かれていない。これらの傍証からも、檀君神話は朝鮮の古来からの独立を示すための伝説的神話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も低いとされている。
しかし現在でも、朝鮮人の中には檀君を実在の人物と主張する大勢いる。大韓民国の国定教科書では韓国の歴史が非常に長いことを示すために「史実」として教育するように指導されている。また朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、1993年の発掘調査で檀君のものらしき骨が発見され、「電子スピン共鳴法」による解析で5011年前のものと分かったため、檀君は実在人物であったと主張されている。しかし、神話に基づく檀君朝鮮の建国年との間に700年近い差があり、また解析方法についても詳細が公表されていないことから、信憑性は低いと見られる。2010年3月、日韓関係史につき調査・研究を行うために、日韓双方の学者・専門家によって構成された日韓歴史共同研究委員会において、メンバーである井上直樹は、「韓国の教科書が、朝鮮民族の始祖とされる檀君の神話をそのまま認めるような記述をしているのは、資料考証に基づく結論なのか疑問である」と指摘している[1]。
[編集] 三国遺事における檀君
古朝鮮王儉朝鮮
魏書云 乃往二千載 有壇君王儉 立都阿斯達經云無葉山 亦云白岳 在白州地 或云在開城東 今白岳宮是 開國號朝鮮 與高同時
古記云 昔有桓因 謂帝釋也 庶子桓雄 數意天下 貪求人世 父知子意 下視三危太伯 可以弘益人間 乃授天符印三箇 遣往理之 雄率徒三千 降於太伯山頂 即太伯今妙香山 神壇樹下 謂之神市 是謂桓雄天王也 將風伯雨師雲師 而主穀主命主病主刑主善惡 凡主人間三百六十餘事 在世理化 時有一熊 一虎 同穴而居 常祈于神雄 願化爲人 時神遺靈艾一炷 蒜二十枚曰 爾輩食之 不見日光百日 便得人形 熊 虎得而食之 忌三七日 熊得女身 虎不能忌 而不得人身 熊女者無與爲婚 故毎於壇樹下 呪願有孕 雄乃假化而婚之 孕生子 號曰壇君王儉 以唐高即位五十年庚寅 唐高即位元年戊辰 則五十年丁巳 非庚寅也 疑其未實 都平壤城 今西京 始稱朝鮮 又移都於白岳山阿斯達 又名弓 一作方 忽山 又今彌達 御國一千五百年 周虎王即位己卯 封箕子於朝鮮 壇君乃移藏唐京 後還隱於阿斯達 爲山神 壽一千九百八歳[2]
13世紀頃に成立した『三国遺事』は、『魏書』と『古記』から引用したとあるが、現存する『魏書』に檀君に関する記述はない。また『古記』は現在伝わっていない。『三国遺事』は、檀君王倹は1500年にわたって朝鮮を支配し、箕子朝鮮に朝鮮を譲ったあと、1908歳の余生を終え、阿斯達の山神になったと伝えている。
[編集] 他の書の檀君
『帝王韻紀』(1287年)、『応制詩註』(14世紀)、『世宗実録地理志』(1432年)、『東国輿地勝覧』(1481年)などにも記述があると韓国では主張されている。ただしいずれの資料も現存しておらず、真偽のほどは確認できない。
[編集] 偽書とされる書における檀君
『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」上編[3]によれば、檀君朝鮮は始祖王倹より古列加まで47代続いた王朝であったという。しかし、同書や同じく『桓檀古記』にある「太白逸史」には清の嘉慶5年(1800年)に命名された地名「長春」が見え、「太白逸史」の引用書「朝代記」に至っては男女平等、父権などの近代になって登場した用語が使用されている。このことから、20世紀に入ってから作られた新しい偽書であることが確実視されている。
檀君複数存在説を唱える偽史書の中では、『揆園史話』(1675年、北崖子著、近年になって原本が発見された)が最古に属し、他に『檀奇古史』、『神檀実記』、『神檀民史』、『符都誌』がある。
[編集] 檀君紀元
詳細は「檀君紀元」を参照
檀君の即位年は、紀元前2333年とすることが現代韓国では一般的になっており、かつてこれを元年とする檀君紀元が1961年まで公式に用いられていた。即位年に関する記述は、文献によって一定しないが、いずれも中国の伝説上の聖人堯の在位中とされている。紀元前2333年説は、『東國通鑑』(1485年)の檀君即位の記述(堯の即位から50年目」)によったものである。『三国遺事』では堯の即位から50年目としつつ、割注で干支が合わず疑わしいとされている。他には、『世宗実録地理志』(1432年)には「唐堯的即位二十五年・戊辰」、つまり堯の即位から25年目とあり、李朝の建国が明の洪武25年であることにあわせてある。