京郷新聞

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京郷新聞
各種表記
ハングル 경향신문
漢字 京鄕新聞
発音 キョンヒャンシンムン
英語表記: The Kyunghyang Shinmun
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京郷新聞』(キョンヒャンシンムン)は、大韓民国の日刊全国紙。朝鮮が連合軍軍政期にあった1946年10月6日に創刊された。本社所在地はソウル特別市中区

沿革[編集]

『京郷新聞』は、日本植民地時代に終刊となった旧『京郷新聞』の題号を継承し、旧『京郷新聞』と同じくカトリック財団の新聞として、1946年10月6日に創刊された。1950年朝鮮戦争勃発によって臨時休刊となったが、休戦後の1953年8月に業務を復帰し、1954年11月には韓国の新聞史上初の新聞縮刷版を発行した。『京郷新聞』は「真実報道」を社是としてきたが、創刊当初から反共的・保守的な性格を持っていた。しかし、1959年に入ると、李承晩自由党政権(第一共和国)に対する不満から、政権に対する野党性と反独裁路線を明確に打ち出すようになった[1]

しかし、反政府的な態度をとったことにより、『京郷新聞』は1959年2月~4月にかけて「余滴事件」と呼ばれる筆禍を受けることとなった。1959年2月4日、当日付の朝刊の掲載欄『余滴』に、自由党政権による不正選挙を糾弾する内容の記事が掲載された。これを受け、韓国警察は同月28日に筆者の朱耀翰国会議員と韓昌愚社長を起訴し、更に同月30日には軍政法令第88号の適用によって『京郷新聞』を強制的に廃刊させた(京郷新聞廃刊事件)。 この事件に対し、韓国社会の各界からは多くの反発が起こり、京郷新聞社は廃刊措置に対する不服から法廷闘争を行った。しかし、法廷闘争の途中で四月革命により李承晩政権が崩壊したため、1960年4月27日付の第4327号から復刊することとなった。

1962年2月、『京郷新聞』の経営権は李俊九に移った。しかし、朴正熙政権(第三共和国)下の1964年5月13日に、『難局打開はこれから』という題目の記事を掲載したことで筆禍事件が再び発生し、同年に発せられた6・3非常戒厳令下で、社長の李俊九などが拘束された。 その後、1966年1月に『京郷新聞』は競売に付され、1966年4月には、朴正煕大統領と同郷である金喆浩が社長を務める起亜産業系が単独入札し落札したが、1969年4月には新進自動車系に経営権が移るなど、1960年代中・後半に『京郷新聞』は深刻な経営難を経験した。 1974年7月には文化放送(MBC)に統合され、同年11月に会社は「株式会社文化放送・京郷新聞」へと改編された。しかしそれ以降は、1980年12月の言論統廃合で廃刊となった『新亜日報』(全国紙)を引き受けたり、1981年1月以前は8面だった新聞紙面を12面へ増面したりと、安定した新聞運営を行えるようになった。

1981年4月1日、『京郷新聞』は「社団法人京郷新聞社」としてMBCから分離・独立した。そして、1990年8月1日には韓国火薬グループ(ハンファグループ)の傘下に入ったが、1998年にはハンファグループから完全分離し、韓国初の社員株主会社となった。政治的立場は中道改革派で、ウリ党大統合民主新党(現・民主党の前身)に比較的近い。1995年9月時点で、『京郷新聞』は平日に32面の新聞を、日曜日には24面の新聞を発行している。また、姉妹定期刊行物として「ニュースメーカー」「TVタイムス」「レディー京郷」「フィガロ」などを有している。

日本の産経新聞との関係[編集]

1983年以来、日本の産業経済新聞社と提携関係を結んでいる。1980年代当時は『京郷』・『産経』ともに保守系紙として立場が似ていたためであったが、その後1990年代末に京郷新聞が社員株主による自立経営化によって「独立・改革言論」の立場を鮮明にしてからは、京郷が中道左派志向、産経が右派志向と論調の違いが生まれたため、関係清算を求める議論が社内で出たことがある[2]

脚注[編集]

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  1. ^ このような対応は、李承晩の施政に不満を抱く読者から多くの呼応を受け、発行部数が当時としては記録的な20万部に達することもあった
  2. ^ (朝鮮語)京郷新聞-MBC、“今後は「産経」と別れる” プレシアン 2005年4月11日

外部リンク[編集]