檀君朝鮮

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檀君朝鮮
各種表記
ハングル 단군조선
漢字 檀君朝鮮
発音 タングンチョソン
日本語読み: だんくんちょうせん
2000年式
MR式
Dangun Joseon
Tankun Chosŏn
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檀君朝鮮(だんくんちょうせん)は、檀君王倹が紀元前2333年に開いたとされたという伝説の国の名前。朝鮮半島ではこの年を起点とする記述から計算して檀君の即位した年を紀元前2333年とし、これを元年とする檀君紀元(檀紀)を定め、1961年まで公的に西暦と併用していた。一部では現在も使用されている。

内容[編集]

高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に魏書からの引用と見られるのが文献上の初出である。『東國通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』など、現存する魏書には該当する記述がない。また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても実在を立証できないため、檀君神話を自国の民族主義史観の拠り所としている韓国北朝鮮を除いては信頼性や価値がある文献であるとされていない。なお、偽書とされる『桓檀古記』、『揆園史話』には『三国遺事』とは異なる記述がなされている。

『三国遺事』[編集]

『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、환인、ファンインないしファニン。桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう、환웅、ファンウンないしファヌン)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。

その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭のが人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク、ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある)20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。

虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ、웅녀、ウンニョ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。

檀君は、(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮조선)と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。

『帝王韻記』[編集]

高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』には、桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれたという。檀君は1028年後に隠退した。ただしこの書は散逸して現存していない。

王倹について[編集]

平壌の古名として「王険」「王険城」が『史記』朝鮮列伝に出てくるのが初出であり、元来は地名である。12世紀に成立した高麗の正史『三国史記高句麗本紀第五東川王の条には人名として王倹という語が出てくるが、平壌にかつて住んでいた仙人の名前としてであって、檀君という王がいたことは全く書かれていない。

中国の記録について[編集]

中国最古の地理書である『山海経』には「朝鮮」、『管子』には「発朝鮮」と言う国名、地名が書かれており、「朝鮮」という地名はすでに紀元前4世紀頃から有った事が確認されている。しかし具体的にいまのどのあたりを指していたのかは説がわかれるため、はたして特定の決まった地域を指していたのかどうかも判然としない。もちろん「檀君朝鮮」の記述はない。

現代の檀君朝鮮[編集]

後世の創作[編集]

『桓檀古記』[編集]

桓檀古記』(かんだんこき)환단고기の主な檀君朝鮮関連を挙げる。

  • 「三聖記」上編:桓雄までは『三国遺事』とほぼ同じ。桓雄の子ではない神人王倹が檀の木の岡に降り阿斯達を都とし朝鮮と号した。檀君王倹である。妻は河伯の娘。朝鮮から大扶餘と号した。47代2096年まで続いた。
  • 「三聖記」下編:桓雄は桓因ではなく安巴堅の庶子。桓雄の息子の檀君王倹は有帳という名で別伝では倍達王倹といった。その子は居佛理のち18代居佛まで続いた。
  • 「檀君世紀」:桓因の子檀君王倹の子孫47代世古列加までの史書
  • 「太白逸史」の「三韓管境本紀」:桓雄の子ではない神人王倹が国を三韓に分け辰韓を治めた。桓雄は阿斯達を国とし朝鮮と号した。神人王倹は馬韓を熊伯多、番韓を蚩尤男(蚩尤の末裔という)に治めさせた。

この本は、超古代からの朝鮮半島の歴史を詳細に書き綴っているが、この本は書いたのが桂延壽という人であり、最初に出版されたのが明治44(1911)年からも近代になって作られた話であるのが分かる。また、現行版の「桓檀古記」は昭和24(1949)年に書かれたもので、出版が昭和54(1979)年であった。内容をみると、清の嘉慶5年(1800年)に命名された「長春」という地名の表記があったり、男女平等、父権など、近代になってから登場した社会用語がそのまま使用されている等、明らかに20世紀に入ってから作られた偽書であることが確実視されている。要するに、明治にはいり日本が韓国を併合(日韓併合、明治43年)した後、朝鮮人の桂延壽が愛国心から、日本の記紀を真似て、「朝鮮の国の方が日本の倍くらい古い歴史がある」とばかり書きなぐってできあがったものであると考えられている。ちなみに北朝鮮が平成5(1993)年に見つけたと発表した檀君の骨は、「電子スピン共鳴法」による年代測定で5011年前のものとだと分かったために、檀君は実在の人物と発表された。ところが、5011年前では檀君神話に基づく檀君朝鮮の建国年と667年もの違いがある。加えて、年代測定に電子スピン法を用いたといっているが、その詳細な解析方法については詳細が公表されていない。つまりこれもでっちあげのねつ造話であると考えられる。

『揆園史話』[編集]

上古、朝鮮半島から満州・モンゴル・中国北部に至る広大な版図を誇った帝国「檀君朝鮮」があったと伝える17世紀に著された偽書。1972年に韓国国立中央図書館古書審議議員の李家源、孫寶基、任昌淳3人が珍本であることを確認する認証書を公表した根拠不明であり偽書説を覆すものではない。

韓国・北朝鮮での捉え方[編集]

大韓民国の高校国定教科書には「檀君の記録は、青銅器文化を背景にした古朝鮮の創立という歴史的事実を反映している」などと書かれており、「神話」であり「何らかの要素が後代になって新しく添加されもした」が「歴史的な意昧」を持つと教えている。紀元前2333年などの伝説上の内容は歴史的事実ではないという扱いだが、初期には満洲の要領地方, 後期には大同江流域を中心にして独自の文化をつくって発展した国であり、檀君は祭政一致の支配者と思われると説明している。昔の教科書では檀君をただの伝説的存在として教えていたため、民族主義者からの抗議が多かった。なお、2010年3月、日韓関係史につき調査・研究を行うために、日韓双方の学者・専門家によって構成された日韓歴史共同研究委員会において、メンバーである井上直樹は、韓国の教科書が朝鮮民族の始祖とされる檀君の神話をそのまま認めるような記述をしているのは、資料考証に基づく結論なのか疑問、と指摘している[1]。現実的ではないが韓国では「史実」として、教えられており韓国の歴史が非常に長いことを示すため、それが教育指導要領になっている。檀君朝鮮は民族と国家の祖として、民族意識と愛国心向上のため、南北ともに教育に取り入れている。とりわけ朝鮮民主主義人民共和国では「朝鮮」の祖ということで熱心に教育し、実在の人物である可能性がほとんどないにもかかわらず、1993年に檀君の墓を発見したと公言(実は高句麗時代の古墳)し、その地に「檀君陵」なるコンクリート製の建造物を建設した。

日本と中国の見解[編集]

神話学的には『古事記』『日本書紀』に出てくる天孫降臨の瓊々杵尊(ニニギノミコト)と、この檀君の父親である桓雄とは同一の神話類型に相当すると考えられている。 檀君は『史記』『三国志』などの支那の史書にはまったく登場せず、初めて朝鮮の歴史書に登場するのが12世紀と遅く、仏教の宗教説話の一つとして出てくる。通常は神話として扱われ、歴史事実とは看做されていない。

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 日韓歴史研究報告書の要旨[1]