成宗 (朝鮮王)

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成宗(ソンジョン、せいそう、天順7月30日1457年8月20日) - 弘治7年12月24日1495年1月20日))は、李氏朝鮮の第9代国王(在位:1469年 - 1494年)。姓は、名はは康靖仁文憲武欽聖恭孝大王。君号は者乙山君、のち乽山君。

第7代国王世祖の第1王子李暲(桃源君、懿敬世子、追尊して徳宗)の第2王子。母は懿敬世子嬪韓氏(仁粋大妃)。前王睿宗は叔父にあたる。成宗は王道政治を貫き通した名君として知られており、士林派を積極的に登用したのも成宗の時代に入ってからである。

世祖~中宗の略系図[編集]

7世祖 李暲(徳宗) ━━ 9成宗 10燕山君

8睿宗 11中宗

生涯[編集]

成宗は世祖の長男である懿敬世子(後に徳宗と追尊)と仁粋大妃韓氏の二男として生まれた。幼い頃から聡明で度量が広く、世祖から太祖に似ていて気性と学識に優れているだろうという称賛を受けるほど、とても可愛がられたという。

1461年、5歳の時に者山君に、後に乽山君に封ぜられたが、懿敬世子の弟である海陽大君が睿宗として即位してわずか1年2ヶ月で死去すると、当時睿宗の息子は4歳で、また兄の月山大君は病気だったので、貞熹大妃の命によって1469年11月28日に朝鮮国王に即位した。13歳の若い年で王位に就いたので、即位当初には貞熹大王大妃の垂簾聴政を受けた。当時有力な国王候補たちを皆追い抜いて韓明澮と貞熹大王大妃の意向によって王位に就いたので、摂政を受けた7年間の国政の全決定権は申叔舟韓明澮などの元老大臣にあった。

しかし垂簾聴政を終わらせた1476年からは、元老大臣が国政の重要な決定に参加する院相制度を廃止して決裁権を取り戻し、任士洪柳子光らの功臣たちを流配にさせる一方、新進勢力を果敢に登用することで士林勢力の政治的基盤を作った。

成宗の治世は“文化の黄金期”と呼ばれるほど、世宗世祖が成した政治的功績を土台に輝く文化政策を拡大させた時期であった。1474年には『経国大典』を完成・頒布し、1492年には経国大典を補った『大典続録』と『東国輿地勝覧』、『東国通鑑』、『楽学軌範』など多様な書籍を編纂、刊行した。世祖代に廃止された集賢殿と似た役割を引き継いだ弘文館を設置する一方、文臣中、すぐれた才を持った人物を選んで家で読書するようにさせる賜暇読書(湖堂制度)を実施するなど文化的発展に貢献した。また僧侶たちを厳しく統制して、大部分の寺院を閉鎖するなど崇儒抑仏政策を徹底的に実践した。対外的には鴨緑江周辺の女真族を追い出して、豆満江地域の女真族の巣窟を掃討、辺方を安定させた。

朝鮮王朝時代初期の文物制度は成宗の代にほとんど完成され、民衆は建国以来最も太平聖代な歳月を迎えた。しかしこのような太平聖代は、成宗の治世後半に頽廃的風潮を助長したりした。

在位期間25年の間始終善政を敷いた成宗は、1494年12月24日に38歳で薨去した。御陵は宣陵。

宗室[編集]

后妃[編集]

後宮[編集]

  • 明嬪金氏
  • 貴人鄭氏
  • 貴人権氏
  • 貴人嚴氏
  • 淑儀洪氏(同知中樞府事 洪逸童の娘)
  • 淑儀河氏
  • 淑儀金氏
  • 淑容沈氏
  • 淑容権氏
  • 淑媛尹氏:中宗28年に卒。

王子[編集]

  • 燕山君
  • 中宗
  • 桂城君
  • 安陽君
  • 完原君
  • 檜山君
  • 鳳安君
  • 甄城君
  • 益陽君
  • 利城君
  • 景明君
  • 全城君
  • 茂山君
  • 寧山君
  • 雲川君
  • 楊原君

王女[編集]

  • 順淑公主
  • 慎淑公主
  • 恵淑翁主
  • 徽淑翁主(任士洪の息子、豊原尉 任崇載に下嫁。)
  • 恭慎翁主
  • 慶順翁主
  • 慶淑翁主
  • 静順翁主
  • 淑恵翁主
  • 慶徽翁主
  • 徽静翁主
  • 静恵翁主
  • 静淑翁主

成宗が登場する作品[編集]

映画
テレビドラマ

関連項目[編集]