文宗 (朝鮮王)
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文宗(ムンジョン、ぶんそう、永楽12年10月3日(1414年11月15日) - 景泰3年5月14日(1452年6月1日))は、李氏朝鮮の第5代国王(在位:1450年 - 1452年)。姓は李、名は珦。
[編集] 系譜
父は第4代国王世宗。母は昭憲王后・沈氏。弟は世祖。子女には端宗などがいる。
[編集] 概略
1414年、世宗の長男として生まれる。7歳で王世子(王の跡継ぎ)となり、父王が健康を害していたため、即位前の1442年から摂政として政務に携わった。世宗の死去により王位につくが、文宗自身も病に倒れ、在位2年、38歳で崩御した。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 顕徳王后權氏(1418年-1441年,花山府院君 權專の娘)諡号を顕徳嬪と称したが夫文宗が王位に上がった後、追尊された。
[編集] 廃世子嬪
- 徽嬪金氏(父方の叔母は太宗の後宮明嬪金氏)- 文宗が世子時代(世宗11年)に廃され、その後自殺。
- 純嬪奉氏 - 世宗11年(1429年)に世子嬪になるが1436年に廃される。
[編集] 後宮
- 肅嬪洪氏 - 文宗が世子の時に東宮に従四品承徽で入宮し、文宗の好意を得た。
- 世子嬪奉氏が廃された時文宗は世子嬪にと考えていたが、既に敬惠公主を生んでいた顕徳王后は洪氏より後宮の品階も高いので、世宗が権氏に期待し世子嬪にならなかった。外祖父は尹珪,父親は洪深。
- 淑儀文氏 - 世子嬪(顕徳王后)の死後の1442年に承徽で入宮。世祖在位時期に昭容。中宗の時に淑儀。中宗3年(1508年)まで生きた。
- 昭容鄭氏
- 昭容權氏
- 昭訓尹氏 - 祖父は尹珪,父親は尹熺。
- 司則楊氏
- 承徽柳氏
- 尚宮張氏
[編集] 王子
- 端宗 弘暐:彼が王位の期間は短く、叔父の世祖に殺されたこともあって、韓国版忠臣蔵が起こっている。参照―ドラマ『死六臣』
[編集] 王女
- 敬恵公主(1435年-1473年。鄭悰と結婚)
- 敬淑翁主(1439年-?。司則楊氏が母。姜子順と結婚)
朝鮮国王 |
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| 権知朝鮮国事 |
太祖1393-1398 / 定宗1398-1400 / 太宗1400-1401
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| 朝鮮国王 |
太宗1401-1418 / 世宗1418-1450 / 文宗1450-1452 / 端宗1452-1455 / 世祖1455-1468 / 睿宗1468-1469 / 成宗1469-1494 / 燕山君1494-1506 / 中宗1506-1544 / 仁宗1544-1545 / 明宗1545-1567 / 宣祖1567-1608 / 光海君1608-1623 / 仁祖1623-1649 / 孝宗1649-1659 / 顕宗1659-1673 / 粛宗1674-1720 / 景宗1720-1724 / 英祖1724-1776 / 正祖1776-1800 / 純祖1800-1834 / 憲宗1834-1849 / 哲宗1849-1863 / 高宗1863-1897
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| 大韓帝国皇帝 |
高宗1897-1907 / 純宗1907-1910
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