三浦の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三浦の乱(サムポのらん)は、1510年(中宗4年)に李氏朝鮮で起きた、対馬宗氏と朝鮮居留日本人(恒居倭人)による反乱。庚午三浦倭乱。

東アジアの中世においては、倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海上勢力が朝鮮半島でも活動し、李氏朝鮮は討伐や懐柔、日本の室町幕府に鎮圧を要求するなど対策を行う。日朝貿易が開始されると、対馬壱岐の民になどに三つの港、釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道鎮海市)・開港し、そこに倭館を設置して交易を行う様に統制策を取り倭寇と識別した。世宗は塩浦(蔚山広域市)を加え、三浦倭館という。

交易が活発になると、密貿易が増大する事になった。それに対し、李氏朝鮮の官僚達は圧力を加え、居留日本人に対する統制を強化していった。それに対して貿易で生計を立てていた日本人の不満は増大し、対馬の宗氏の軍を主力とし、約4万5000(朝鮮居留日本人は約3000人)をもって攻め入り、釜山浦、薺浦を陥落させる。

しかし日本軍は大敗を喫し、駐留日本人は追放され、日本と朝鮮の間は断交状態になる。しかしながら、交易で生計を立てている対馬と胡椒丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方は折り合いを付ける必要に迫られ1512年壬申約条により対馬との和解が成立し、交易は再開され倭館も再び開かれたが、貿易港は乃而浦のみに制限され、日本人の駐留は禁止されるなど以前より制限されたものになった。その後も暴動はあり、朝鮮では備辺司が設置された。

関連項目