倭寇
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倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。
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[編集] 概要
字句をそのまま解釈すれば、倭寇とは「倭(日本)による侵略」という意味で、中国、朝鮮では日本人海賊を意味する。用事例を辿ると5世紀の高句麗広開土王碑の条文にも見られるが、後世の意味とは異なる。ここに見られる『倭、○○(地名)を寇す』という表現の漢文表記では『倭寇○○』のように「倭寇」の2字が連結しており、これが後に名詞として独立したと考えられている。
また、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役,中国:萬曆の役,韓国:壬辰倭亂)、日中戦争における日本軍も「倭寇」と呼ばれるなど、排日感情の表現として使用された事がある。現代でも、韓国人や中国人が日本人を侮蔑するときに用いており、「野蛮人」のニュアンスを含む。
[編集] 前期倭寇と後期倭寇
倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇と、過渡期を経た後期倭寇の二つに分けられる。
[編集] 前期倭寇
[編集] 活動
前期倭寇が活動していたのは14世紀から15世紀とされているが[1]、朝鮮半島への倭寇の襲来自体は13世紀はじめから行われており[2][3]、1350(庚寅)年以降倭寇が大規模化し、なおかつ襲撃回数が増えたために朝鮮の人々にはこの年から倭寇が始まったという印象が残った[4][5]。倭寇は小規模なもので10人程度、大きいものでは500隻の大戦力で朝鮮半島を襲撃して人民の虐殺や食糧の強奪、捕虜を海外に売るなどした[1]。捕虜は村上水軍に関する風聞のねつ造に利用され、虚構を交えた伝説物語の類が大量に制作された。これら前期倭寇は対馬、壱岐、松浦、を中心に九州から瀬戸内沿岸までを根拠地としていた[1]。また、1375年の高麗史の記事には高麗側が倭寇の首領である藤経光を欺いて殺そうとしたが失敗し、これ以降それまで行っていなかった人民の虐殺を始めたと記している[6]。
14世紀の半ば以降日本の争いにより日本の混乱が続いたため倭寇は特に活発になり[2]、高麗国内の乱れに乗じて主に朝鮮半島を襲い、一部は中国沿岸を襲撃した[1]。1370年代から1380年代にかけてその活動は最盛を迎える[1]。 これに対して高麗では日本に対し外交交渉による禁圧を要求する一方で積極的に討伐を行った[2]。 戦慣れし、かつ神出鬼没の倭寇[7][8]に高麗軍は苦戦したが、崔瑩、李成桂、羅世、鄭地、朴イらの有力武将は次第に倭寇に打撃を与えて行き[9]、1376年には崔瑩が鴻山で[10][6]、1377年には李成桂が智異山で[10][6]、1378年には崔瑩が昇天府で[6]、1380年には李成桂が雲峰[7]、崔茂宣と羅世らが鎮浦で[10][9]、1383年には鄭地らが南海島観音浦で[9]、大勝利を収め[10][9][7]、1389年の朴ウィによる対馬遠征を境に倭寇の回数は激減し[9]、こうして14世紀の倭寇は下火となった[9]。
朝鮮王朝の時代に入ると衰退していた倭寇の規模は更に小さくなったが完全に消えることはなかった[11]。 しかし1419年に起きた望海堝の戦いと応永の外寇で倭寇はそれぞれ敗北し[11]、この二つの戦いで未だ消滅から逃れていた倭寇は決定的な損害を被った[11]。前者は遼東半島の望海堝に侵入した倭寇を明の都督劉江が破った戦いで、後者は対馬の実権を倭寇の頭目である早田衛 門太郎が握ったことに危機感を覚えた朝鮮政府が軍を派遣して対馬を攻撃した事件である[11]。
朝鮮政府は武力による鎮圧の他にも、投降、または朝鮮への定住を希望する倭寇には土地を与えて住まわせ、倭寇の有力者には朝鮮の官職を与えて交易を許可し、対馬の宗氏にも交易権を与えるなどの懐柔策を行った[1]。
一方の日本では室町幕府、西日本の諸大名が朝鮮貿易の利益を求めて倭寇鎮圧に乗り出した[1]。
こうして15世紀の初めに前期倭寇は完全に収束した[1]。
中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が南北朝合一を行うと、義満は倭寇討伐を行い、新たに「日本国王」として冊封され、勘合貿易が行われる。
[編集] 構成
高橋公明は倭寇の構成について、日本人だけではなく済州島の海民も倭寇に加わっていった可能性を唱え、倭寇の活動が「国境をまたぐ地域」で繰り広げられた国家の枠組みを越えた性格のものだと述べている[12]。 田中健男は1982年の自身の著書『倭寇』において、1370年から90年初めに倭寇の襲撃がもっとも激しくなったのは新たに高麗の賤民階級が加わったからだとし、高麗を襲った倭寇の構成員を日本人を主力として若干の高麗の賤民を含むものだと述べた。そして朝鮮王朝実録の記事を根拠に1446年には日本人の比率は1~2割に留まったとした。 一方、1987年の論文「倭寇と東アジア通行圏」では14世紀倭寇の構成員を日本人と朝鮮人の連合か朝鮮人のみであったと主張を変えた。その論拠として高麗史節要の1380年代の記事のなかに高麗の賤民が倭寇に扮して略奪を働いたという記述があること、朝鮮王朝世宗期(15世紀半ば)に判中枢院事・李順蒙の「前朝の季、倭寇興行し、民の生を聊んぜず。然るにその間の倭人は一二に過ぎずして、本国の民の避けて倭服を著け党を成し乱を作す」という発言があることを挙げた。他にも倭寇の人員と襲撃回数の多さや多数の馬を擁することを理由として挙げている(倭寇と東アジア通行圏」『日本の社会史』一<列島内外の交通と国家>岩波書店、1987年)。
これに対して村井章介は膨大な人員や馬を海上輸送させる困難さという背景説明も含めて説得力があるとしたが、そもそも膨大な朝鮮の史料のなかで倭寇に占める倭人の比率が記載されているのは田中健男が挙げた一例しか存在せず、しかもその史料は倭寇の最盛期から50年以上後のものであることを指摘した[9]。また、その史料における指摘は辺境の民(特に公私賤)の志が容易に崩れて賦役から逃亡する者が多いという事態の「模範」として提出されており、賤民階級に対する蔑視が根底に流れる基本的な考え方となっているため、倭人が一割~二割に過ぎないという数字を内容を十分に考えないでそのまま受け入れることは出来ないと指摘する[9]。 そのうえで村井章介は倭寇の正体を「倭人」という「倭語」「倭服」といった独自の文化をもつ「日本」とはまた別の人間集団として、彼らを境界に生きる人々だとし、その本質は国籍や民族を超えた人間集団であるとして、日本人、朝鮮人といった分別は意味がないと述べている[9]。
一方の武田幸男は「倭」は表向きの「日本」に対する裏側のマイナスイメージを担ったものと述べている[4]。高麗後期になって突然「倭」が出現して「日本」と併用されているが、武田は「倭」の出現の契機は倭寇にあると述べ、これが高麗史における日本観を二分したとする[4]。武田は高麗史を検証して「日本」と「倭」は対照的な「表」と「裏」をバランスよく演じていると述べている[4]。武田は高麗が日本を国家レベルで意識、または正式な通交相手と認識した場合は「日本」とし、国家レベルで意識せず「侵入者」、「敵対者」と認識した時は「倭」と記したと述べている[4]。 また、高麗史中に出てくる「倭国」を日本の南朝(征西府)だとしている[6]。また、武田幸男は14世紀倭寇の首領の装備について「典型的な中世日本武士」だと述べている[6]。
東郷隆は前期倭寇の首領のひとり、阿只抜都について赤星氏や相知比氏(松浦党)といった九州の武士、あるいはモンゴル系島嶼人や高麗人といった様々な推測をしている。(『【絵解き】雑兵足軽たちの戦い』 講談社〈講談社文庫〉、2007年、48-51頁を参照)
斎藤満は武田と同様に高麗史にでてくる「倭国」を南朝(征西府)だと推定している[13]。
濱中昇は田中、高橋の説を否定している[14]。濱中は倭寇の特徴である領主制が日本には存在するが、中世の朝鮮には相当するものが存在しないため倭寇の主体を朝鮮国内には求めるのは難しいと指摘する[14]。高麗史の記録で賤民が倭寇と偽って略奪を働いた例を検証すると倭寇そのものの襲撃がまずあり、それから若干遅れて賎民の乱暴が発生していると指摘し、倭寇とは別のそれに乗じた泥棒の類だと述べている[14]。そして、仮に朝鮮半島南部の海民が高麗末期の倭寇に加わっていたとしても、それは個別的な次元に止まり倭寇の主力が日本人であることには変わらないと述べている[14]。また、多数の騎馬や船を擁することについては現地での略奪によってその数を増やしたと述べる[14]。 他にも田中健男が自身の主張の主な論拠とする朝鮮王朝世宗期の李順蒙の発言についても発言の背景や、倭寇の最盛期から相当な年月が経っていることなどからその信頼性に疑問を呈している[14]。 また村井の言う「倭」と「日本」の違いについても、朝鮮が日本を国家を意識した場合とそうでない場合(蔑視の心がある場合)との使い分け、九州地方と近畿地方の文化的な差異に過ぎないとし[14]「倭」と「日本」は事物の本体としては同じものだと述べ[14]、「倭」と中世の日本は別個のものではないと村井を批判している[14]。
中国人学者の沈仁安は全体から見れば倭寇を国家の枠組みに囚われない海上に住む人々ということは可能であるが、13世紀から16世紀にかけて倭寇は変化しており、前期倭寇の主力が日本人であることには疑いを挟む余地もないと述べている[15]。そして倭寇の起源とその活動が日本人と関係あるため日本の古代の呼称である「倭」寇と命名したと指摘する[15]。また、倭寇を包括的に解釈することは具体的な歴史過程を隠し、具体的な問題の具体的な分析の手法として原則に合わないと述べる[15]。そのうえ、千数百年以降の歴史的事実を紀元前後に生まれた「倭」「倭人」で解釈することは完全に不適当だと指摘している[15]。また、そもそも古代中国における「倭」は日本だとも指摘している[15]。
前期倭寇の発祥地である対馬、壱岐、松浦地方から九州~瀬戸内沿岸部は自然環境により食糧などの生活必需品が常に不足しており貿易でそれを賄わなければいけなかった。しかし、南北朝の騒乱の激化により荘園の支配が厳しくなり、また貿易も困難になったため生活に困窮した末に海賊行為に走った[1]。矢沢康祐は倭寇に参加した者はそのようにして困窮した土豪、零細農民、漁民、海上の浮浪者群を中心勢力とし、十数隻から時には500隻の大規模な倭寇には松浦党をはじめとする海賊武士団が参加していたと述べている[1]。 その他にも倭寇の首領の装備が日本の精鋭部隊と同じであり、南北朝の混乱という状況で正規戦のための日本の精鋭部隊が軍需物資確保のために略奪に参加したという指摘もある[16]。 その背景を渡辺昭夫は長い戦乱で食糧を確保することに限界を感じた兵士達が近くに位置する高麗に頻繁に物資を求めに行ったので高麗の水路と地理に詳しくなっていたと説明する[16]。
稲村賢敷は、倭寇が数十隻から数百隻で騎士も伴って多くの米穀を略奪していることから、これは南朝方の菊地市や肥前の松浦氏が北朝との戦いのための食糧調達を目的に行ったと述べている[17]。そして稲村は倭寇の正体を西国沿海の不良の徒ではなく統率がとれ、戦を経験した武士団による行為だと述べている[17]。 北朝方の九州探題が倭寇と南朝方の征西府を同一視し敵と見做し、かつ明から倭寇の禁圧を求められても征西府が拒否したことも論拠として挙げている[17]。 佐藤進一もまた倭寇の後ろ楯を征西府がしていたと述べている[18]。
[編集] 後期倭寇
[編集] 活動
日本では1523年に勘合を巡って細川氏と大内氏がそれぞれ派遣した朝貢使節が浙江省寧波で争う寧波の乱(寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに中央で起った応仁の乱により混乱状態が戻ると、再び倭寇の活動が活発化する。
後期倭寇の中心は私貿易を行う中国人であったとされ、『明史』日本伝にも真倭(本当の日本人)は10のうち3であるとも記述されている。ただし少ないながらもこれら日本人は、当時日本が戦国時代であったことから戦争慣れしたものが多く、戦争の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していた。この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国や朝鮮の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼や福建省南部の月港を拠点とした。
これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、後期にはポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や、日本の博多商人も関わっていた[要出典]。後期倭寇の頭目には、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などがおり、王直は日本の五島列島などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している。1547年には明の将軍である朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。その一人、胡宗憲が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて戚継光が倭寇討伐に成功した。しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認めるようになる。ただし、日本に対してのみ倭寇への不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。これが豊臣秀吉による文禄・慶長の役の一つの伏線となる。
[編集] 構成
後期倭寇は、終始、中国人が中心であり、『明史』には、日本人の倭寇は10人の内3人であり、残り7人はこれに従ったものである(「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている[19]。中国人倭寇が多かったために日本人倭寇と偽って成敗した将軍を朝鮮王明宗は処罰している[20]。
[編集] 倭寇以後の東アジア海上世界
豊臣秀吉の海賊停止令により、倭寇の活動は一応は収束をみるが、東アジアの海上世界では林道乾や林鳳(リマホン)、明を奉じて清に抵抗した鄭芝竜、鄭成功の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、倭寇ではないが同時代の海上勢力である。
[編集] 倭寇の影響
中国の明や韓国の高麗・朝鮮王朝、また日本の室町幕府に対し、倭寇は結果として重要な政治的外交的な影響力を与えた。明は足利幕府に対し倭寇討伐を要請する見返りとして勘合貿易に便宜を与えざるを得なかった。 高麗は侵入してくる倭寇に対して外交面でも軍事面でも力を尽くして励んだ[16]。その結果として火砲の開発と地方の軍体制の整備という成果を得た[16]。倭寇侵入が返って高麗の国力を強化させ、具体的な成果は倭寇討伐の過程を通じて民の心を引きつけて権力も手中に収めた李成桂によって樹立された朝鮮王朝に引き継がれた[16]。
[編集] 八幡船
日本の室町時代から江戸時代にかけての海賊船は通称して「八幡船」と呼ばれた。倭寇が「八幡大菩薩」の幟を好んで用いたのが語源とされるが、「ばはん」には海賊行為一般を指すとも考えられている。
[編集] 武術
倭寇の中に日本の剣術を身につけていた者もいたようで、1561年に戚継光が、倭寇が所持していたという陰流の目録を得ている。(陰流の開祖・愛洲久忠も倭寇であったという説もある)戚継光が得た陰流目録は茅元儀が編纂した『武備志』に掲載された。この『武備志』は江戸時代に日本にも伝わり、掲載されている陰流目録について松下見林らが記している。この陰流目録については陰流から派生した新陰流の第20世宗家・柳生厳長によって真正の物と確認された[21]。
また、日本の剣術を基にした苗刀という中国武術が明末から清初にかけて生まれた。
[編集] 参考文献
- 伊藤亜人他監修平凡社編『朝鮮を知る事典』平凡社、1986年
- 稲村賢敷『琉球諸島における倭寇史跡の研究』吉川弘文館 、1957年
- 高橋公明「中世アジア海域における海民と交流-済州島を中心として」『名古屋大学文学部研究論集』史学33、1987年
- 佐藤進一『日本の歴史(9)、南北朝の動乱』中央公論社、1974年
- 武田幸男編訳『高麗史日本伝(下)』岩波文庫、2005年
- 武田幸男編訳『高麗史日本伝(上)』岩波文庫、2005年
- 田中健男『倭寇』教育社歴史新書、1982年
- 朝鮮史研究会編著旗田巍編修代表『朝鮮の歴史』、三省堂、1974年
- 濱中昇「高麗末期倭寇集団の民族構成-近年の倭寇研究に寄せて-」『歴史学研究』第685号、1996年
- 村井章介『中世倭人伝』岩波新書、1993年
- 李殷直『朝鮮名人伝』明石書店、1989年
- 麗羅『人物韓国史(上)』徳間文庫、1989年
[編集] 参照文献
- ^ a b c d e f g h i j 伊藤(1986)
- ^ a b c 旗田(1974)
- ^ 高麗の武臣政権は襲撃の度にこれを撃退して鎌倉幕府に禁圧を強く求めた。高麗の働きかけに対して、1227年に大宰府は独断で対馬の悪党90人を斬首し、これによって倭寇は止んだ(田中、1982)(李、1989)。
- ^ a b c d e 武田(上)(2005)
- ^ この記憶が永く伝承されて「庚寅以来」が常套句となった。(武田幸男編訳『高麗史日本伝(上)』岩波文庫、2005年、201頁、脚注(5)より引用)
- ^ a b c d e f 武田(下)(2005)
- ^ a b c 麗(1989)
- ^ 倭寇は特に「斬り込み」に長けていた(伊藤、1986)。
- ^ a b c d e f g h i 村井(1993)
- ^ a b c d 李(1989)
- ^ a b c d 田中(1982)
- ^ 高橋(1987)
- ^ 斎藤満「征西府とその外交についての一考察」『史泉』71号、1990年、63頁。
- ^ a b c d e f g h i 濱中(1996)
- ^ a b c d e 沈仁安『中国からみた日本の古代』藤田友治、藤田 美代子訳、ミネルヴァ書房、2003年、364頁から365頁
- ^ a b c d e 第9回「十四世紀(高麗末)、韓(朝鮮)半島における日本の精鋭部隊」 - 座談会資料 - 韓日歴史座談会の記録(Webサイト)
- ^ a b c 稲村(1957)
- ^ 佐藤(1974)
- ^ 明史卷三百二十二 列傳第二百十外國三 日本 嘉靖二十六年
- ^ 辛卯/憲府啓曰: “欺君罔上, 人臣大罪。 有犯於此, 常刑罔貸。 於 蘭浦 萬戶 金漢 、 金甲島 權管 朴世廉 , 擒殺 唐人 , 詐稱捕 倭 , 報諸主帥, 以致轉啓, 其倖賞欺誣之罪, 固難逃矣。 南邊士卒, 無不慣知 唐 、 倭 形狀, 雖交戰之時, 豈有難辨之理? 假曰風波之中, 未及詳察, 及其捕斬之後, 見其容貌物件, 可以立辨, 所當以戰殺唐人實狀 報于主將, 而貧庸之徒, 心若狗彘, 徒知希賞之是急, 而不計欺罔之大惡。 此而不治, 何以痛革宿弊, 而振肅朝綱乎? 請 金漢 、 朴世廉 , 竝拿致禁府, 依律定罪。 全羅右道 水使 李文誠 , 素無威風, 不能禁約諸鎭之將。 當 金漢 、 朴世廉 擒殺 唐人 , 詐稱捕 倭 , 收送首級及物件之際, 宜卽辨覈, 摘發欺罔之罪, 以正軍律, 而徇私同惡, 錄功馳啓, 略無顧忌, 可謂無狀。 請命罷職, 以懲其罪。” 答曰: “竝如啓。”朝鮮王朝実録明宗 33卷, 21年(1566 丙寅 / 명 가정(嘉靖) 45年) 7月 2日(辛卯) 1번째기사 (漢文) 国史編纂委員会
- ^ 柳生厳長、『正伝新陰流』、島津書房、2004年。
[編集] 資料
- 『老松堂日本行録』 - 朝鮮王朝の使節、宋希璟が世宗大王に献上した日本見聞録。
- 倭寇につうじる海民たちの活動の様子が比較的詳しく記されている。ただし倭寇の記述はない。岩波文庫版には応永の外寇にかんする朝鮮実録の抜粋なども併録。

