応永の外寇

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応永の外寇(己亥東征)
戦争:応永の外寇(己亥東征)
年月日1419年6月20日 - 1419年7月3日
場所日本対馬
結果:対馬(日本)軍の勝利、李氏朝鮮軍の撤退。
交戦勢力
So clan mon2.png対馬国(日本) 李氏朝鮮
指揮官
So clan mon2.png 宗貞盛 世宗
李従茂
戦力
600人[要出典] 17,885人
損害
~20人戦死 2,500~人戦死[要出典]

応永の外寇(おうえいのがいこう)は、日本史の時代区分では室町時代応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による対馬侵攻を指す[1]。対馬の糠岳(ぬかだけ)で戦闘が行われた事から糠岳戦争とも。朝鮮では己亥東征という[1]

目次

背景 [編集]

倭寇 [編集]

14世紀前後の北九州から朝鮮半島南部、国沿岸にかけての東アジアの海上世界は、日本人中国人朝鮮人らの諸民族が往来し雑居する状態にあり、それら諸民族からなる倭寇(前期倭寇)が活発化していた。

朝鮮半島も倭寇の襲撃を連年受けていた。成立して間もない李氏朝鮮は、自立的な治安維持能力が不足しており倭寇の統制が困難であったため、種々の懐柔策を講じつつ、室町幕府九州探題渋川満頼、倭寇の根拠地の一つである対馬の実質的な支配者宗氏に対して、倭寇および私貿易の取締りを要求した。

しかし、倭寇の取締りに協力的だった対馬国守護代宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、若年の宗都々熊丸(貞盛)が跡を継ぐ。実権を握った早田左衛門太郎は倭寇の首領であり、活動を抑制されていた倭寇は再び活発化した。

以下、日本側資料における関連事件を記す。ただし、看聞日記等は京都で執筆されているため、現地とのずれが生じており、日付が正確とは限らない[1]

  • 応永26年(1419年)5月23日、大唐国、高麗、南蛮が日本に責め来るべしと高麗が告げる[2][1]
  • 同年7月20日、「唐人」8万艘が薩摩を襲撃し、迎撃する[3][1]
  • 同年8月11日、「唐人」襲来。去る6月26日に対馬で「唐人」軍25000艘が襲撃するが、迎撃した[4][1]

戦闘の経緯 [編集]

対馬侵攻 [編集]

李氏朝鮮では前年に世宗が即位していたが、軍事の実権は譲位した父の太宗がなお握っていた。太宗は倭寇撃退を名目にした対馬遠征を決定した[1]。朝鮮軍は、対馬の有力者がなどに渡航し不在である時期を狙って、永楽17年(1419年)6月19日、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢が巨済島を出発し、対馬に侵攻させた[1]。また同時に朝鮮国内の在留日本人商人らを一斉に抑留した。

対馬上陸 [編集]

朝鮮軍は、6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、19日に再出航[5]、6月20日昼頃に対馬の尾崎浦[6]附近へ上陸した。一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の島民を殺害した[5]

しかし6月26日頃には、仁位郡(『実録』では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い2500の損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥った[7]

撤退 [編集]

朝鮮側は、同6月29日に宗貞盛に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗は拒絶する。損害の大きくなった李氏朝鮮側は対馬側の撤退要求を受け入れ、7月3日に巨済島へ全面撤退した。

損害 [編集]

李氏朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上[要検証 ]、『世宗実録』では6月26日の襲撃で死者百数十人[7]、7月10日の記録では180人とされている[8]。しかし士気の衰えや船舶の損耗、旧暦7月は台風シーズンであることにより再出撃が行われなかったことや[9]、6月26日、7月10日の損失を合計しても総数の2%程度であり、この程度の損害で和平を受け入れるとは考えにくく、6月26日は敗戦と自ら明記し将官も戦死していることからも、全体の被害は相当数にのぼると思われる。8月5日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が100余名とされている[10]、総じて朝鮮軍は不利であったようであり、この事は保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」と主張する左議政朴訔に対し右議政李原らは「事大の礼を尽くして送り返すべき」と反論したという記録や[11]朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった事[12]からも窺える。

戦後 [編集]

対馬宗氏と朝鮮は国交断絶となった[1]

対馬再侵攻計画 [編集]

また7月3日の黄海道沖に中国からの倭寇数十隻が沿岸を荒らし回っていると言う報告を受け、これを口実にした対馬再征も検討されたが実行されなかった。

日朝の和解 [編集]

一方の日本は、九州探題渋川義俊少弐満貞が注進、事実究明のため朝鮮へ使者を送り、その真偽を確かめさせた。翌年には朝鮮から回礼使として宋希璟が派遣され、4代将軍足利義持に拝謁して日本と和解した。宋希璟は日本の見聞録を『老松堂日本行録』として書き著した。

倭寇の衰退 [編集]

この事件により対馬や北九州の諸大名の取締りが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、前期倭寇は衰退していく。また、この事件の報が日本本土に伝わった際、元寇の再来との憶測が流れた。

なお、清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為(元寇)を行った高麗(朝鮮)への報復である、と記述されており、応永の外寇以前の前期倭寇は局地的な奪還・復讐戦であるとして「倭寇」と呼ばず、これ以降の後期倭寇を「倭寇」と考える説もある。


脚注 [編集]

資料 [編集]

参考文献 [編集]

関連項目 [編集]

関連サイト [編集]