宋希璟

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宋希璟
各種表記
ハングル 송희경
漢字 宋希璟
発音: ソン・ヒギョン
日本語読み: そう きけい
ローマ字 Song Hui-gyeong
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宋 希璟(そう きけい、辛禑2年(1376年) - 世宗28年(1446年))は、李氏朝鮮の官僚。字は正夫、号は老松堂。世宗2年(1420年)、応永の外寇に係る回礼使として室町時代日本に派遣され、『老松堂日本行録』を著した。

経歴[編集]

高麗辛禑2年(1376年)、公洪道連山県竹安坊筠亭里(忠清南道論山市連山面朝鮮語版)に生まれた[1]太宗2年(1402年)春、科挙別科第三に合格し、太宗4年(1404年)翰林院に入り、太宗7年(1407年)司諫院正言となり、聴暁楼報漏閣の創営に当たったが、命令違反により罷免され、帰郷した[1]。太宗9年(1409年)司諫院献納として復帰し、芸文館朝鮮語版修撰に選ばれ、太宗11年(1411年)には聖節使書状官としてに上った[1]

その後、知錦山郡事に就任したが、太宗15年(1415年)5月17日、丁香、乾肉を献上するため狩猟を行った際、獐鹿[2]を独占しようとした郡吏2人を杖殺した罪で一百を言い渡され[3]、病死と抗弁するも認められず、翌年1月17日執行された[2]。太宗17年(1417年)には任添年、崔得霏、李茂昌と共に北京から帰国している[4]。また、この間知制誥を兼帯した[1]

世宗元年(1419年)、朝鮮は倭寇討伐のため対馬出兵を行ったが、これが日本側で応永の外寇として脅威をもって受け止められ、室町幕府足利義持は朝鮮側の意図を探るため、無涯亮倪を使者として派遣した。これを受け、朝鮮は日本使者の帰国に回礼使を伴わせることとなり、希璟を抜擢した。世宗2年(1420年)閏1月15日に漢城を出発し、釜山から対馬壱岐博多を経て瀬戸内海を東上し、4月21日京都に到着、6月26日足利義持に謁見し、10月25日帰京した。なお、この時の身分は奉正大夫、僉知承文院朝鮮語版事、直集賢殿[5]。帰国後、労を労われて繕工監正となった[6]

その後知天嶺郡事となったが、世宗4年(1422年)1月10日、司憲執義朴安臣等によって過去の罪状が取り上げられ、守令に不適格と非難されている[7]。世宗4年(1422年)太宗上王が死去し、『太宗実録』編修に関わった[1]。晩年は判司宰として全羅南道潭陽郡に退隠し、世宗28年(1446年)錡谷郷荘(鳳山面朝鮮語版錡谷里)で死去した[1]

親族[編集]

礪山宋氏分流新平宋氏に属し、代々の墓所は連山県鶏龍山北青巌洞[1]

  • 祖父:宋謙 - 正順大夫、判典客寺事、兼春秋館編修官事[1]
  • 父:宋玄徳 - 通訓大夫、兼春秋館記注官[1]
  • 弟:宋公亀 - 参判。後に霊光郡に移る[1]
  • 妻:東萊鄭氏朝鮮語版判書鄭允厚女[1]
  • 子:宋寿之 - 右軍司勇、贈通政大夫、兵曹参議[1]
  • 孫:宋福川 - 奮順副尉、贈嘉善大夫、兵曹参判、兼同知義禁府[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 宋篪「老松堂日本行録家蔵」万暦47年(1619年)
  2. ^ a b 『太宗実録』16年1月17日条
  3. ^ 『太宗実録』15年5月17日条
  4. ^ 『太宗実録』17年6月12日条
  5. ^ 『老松堂日本行録』157節
  6. ^ 『世宗実録』2年10月17日条
  7. ^ 『世宗実録』4年1月10日条

参考文献[編集]

  • 宋希璟著、村井章介校注『老松堂日本行録 ―朝鮮使節の見た中世日本―』、岩波文庫、1987年
  • 「アジア人物史 6」 集英社 2023年

関連項目[編集]