興宣大院君

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
興宣大院君
大院君・大院王
摂政
Heungseon Daewongun Portrait.jpg
団領姿の興宣大院君
先祖 仁祖
璿源 荘祖
本貫 全州李氏
続柄 南延君第四子
李昰応
漢字:時伯
諺文:시백
発音:シベク
雅号 漢字:海東居士
諺文:해동거사
発音:ヘドゴサ
諡号 漢字:献懿
諺文:헌의
発音:ホンウィ
生年 1820年12月21日
没年 1898年2月22日
南延君
驪興郡夫人閔氏
配偶者 驪興府大夫人閔氏
子女 完恩君
完興君
高宗

興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、デウォンワン)、1820年12月21日時憲暦嘉慶25年十一月十六日) - 1898年光武2年)2月22日(時憲暦二月初二日))は李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。

1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年フランス神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。

また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。

生涯[編集]

次男高宗
長男完興君

初期の活動[編集]

出生と家系[編集]

大院君は1820年12月21日現在のソウル特別市鍾路区安国洞で、父南延君と、母郡夫人驪興閔氏の四男として出生した。父の南延君は、英祖の子の荘献世子の三男・恩信君の養子となった。本系は仁祖の8世孫。7代祖は麟坪大君、6代祖は福寧君、5代祖は義原君、高祖父は安興君、曾祖父は李鎮翼、祖父が李秉源である。長兄興寧君は僅か8歳で死去し、母を12歳でなくすなど不遇な環境で育った。それでも父南延君から漢学を学び、姻戚の縁で、金正喜の門下生となって、学問を教わった。13歳で、母と12親等の驪興府大夫人閔氏と婚姻する。17歳で父を亡くすが、長男完興君、次男高宗などが早くから生まれた。また妾が二人いた。

青年期[編集]

1841年(憲宗7年)興宣正となり、興宣都正を経て、1843年(憲宗9年)興宣君に封爵された。1846年には緩陵遷葬都監の代尊官になり、備辺司堂上を経て、1847年(憲宗13年)宗親府有司堂上になり、璿派人(王族)を管理した。また安東金氏とも取引をし、王族の地位を高めようとした。また生活に困っていた大院君は絵を描いて両班に売って生計を立てていた。さらにこの頃から、安東金氏の金炳学金炳国らが経済的に援助し、つながりを深め、後の執政期に、このように必要な基盤を築いてゆく。その後、司僕寺提調、五衛都摠府都摠管などの閑職を勤めた。

ならず者[編集]

憲宗が崩御した頃、王孫として王位継承者の候補者になったが安東金氏の思惑により排除された。安東金氏が哲宗を即位させてからは、安東金氏が勢道政治の基盤を強化し、王族を厳しく監視していたので、保身策として、「千河張安」と呼ばれた、千喜然河靖一張淳奎安弼周などのならず者たちと関わり、妓生と昼夜遊んだりして、安東金氏からは「宮道令」と卑称され、監視から免れた。また勢道家などを回って、乞食などのように装って食事をとったり、使用人を与えられるなどして生活していた。小説家金東仁の「雲峴宮の春」には、当時の大院君は、酒に溺れていたが、実際はしっかり気概があり、唾を吐かれた時はちゃんと拭き取って、大きく笑って、必要以上に食べて侮辱までも甘受していた、とある。

王位への布石[編集]

神貞王后

大院君の表面はならず者だったが、実際は有力者に近づく努力をし、安東金氏に対抗する豊壌趙氏神貞王后の甥趙成夏(承侯君)と親交を結ぶことができ、神貞王后に近づいて、親交を深め、謀議を重ね、命福(高宗の幼名)を王位継承者とすることとする合意を得た。それによって宮中の宦官や女官を包摂し、王族とのつながりを深くした。安東金氏とも親交を結ぶ為に金炳学金炳国らを通して、安東金氏の中からも大院君を支持する者も現れた。大院君は系譜上、王位継承に近い人物ではなかったので、裏でこのようにさまざまな交友を深め、王位に向けての布石を打っていた。

第一次執政期[編集]

乞食から国父に[編集]

1869年の金冠朝服の肖像画

1864年1月に哲宗が崩御すると、神貞王后は早速命福を「翼成君」に封爵し、院相鄭元容ら元老の意見を利用して王位につける事ができた。これによって「興宣大院君」に封爵され、朝議では大院君の地位、政治参加について議論され、礼遇については、国王以上の待遇を与えるかわりに、政治に口出しできないように議論されたが、最終的には地位は国王の下になり、三政丞の上に設定され、礼遇は三政丞などが乗る、四人轎の乗車はしないなどの、三政丞より下の設定を取ることで政治に参加することが許され、神貞王后が垂簾聴政を行うので、それを補佐するという名目で摂政となった。実際は神貞王后が大院君に大権を委任していた。

基本政策[編集]

早速摂政の座に着くと、勢道家一門の官職追放、老論派一党独裁を終わらせ、各党派の人材を均等に登用し、王権維持のために王族を主要な官職に抜擢し、李朝500年の規則を破って庶子を科挙に応試させ要職につけるなどして、専制王権を強化しようとした。とはいえ勢道家や権門家(名門両班)の支持や推薦あっての大院君だったので、一部の権門勢家の勢力を残し、自らに包摂することで、大権を保持した。大院君は儒教政策を推し進め、勢道政治を終わらせ、党派と身分の貴賎を問わず、能力に応じて人材を登用する人事行政を行い、専横による腐敗や堕落した王朝を、もう一度再建しようとしていたが、国外対策については鎖国政策を採ることを布告し、従来の政策を推し進めた。公文書には王の教書と記さず「大院位分付」と記した。さらに即刻、華陽洞書院の権限を取り上げるように命じた。理由は華陽洞書院は朝鮮4大書院の一つであり、横暴や不正が強く、また大院君が摂政になる前、華陽洞書院の儒生に殴られことがあったことである。すぐさまこの命令は実行され、華陽洞書院は後に廃止させられる。

王権改革[編集]

国内政策[編集]

政治軍事最高機関であった議政府を復活させて、非特権層からの人材登用を図った。三政田税軍役還穀)の税制を改革した。書院の整理・撤廃や、景福宮の再建、願納銭の徴収、当百銭の製造、天主教弾圧などを強行した。[1]

制度改革[編集]

法治秩序の再整備に向けて勢道政治や貪官汚吏など堕落した王朝を再建するため、「大典会通」、「六典条例」、「三班礼式」、「両銓便考」、「五礼便考」、「宗府条例」などの法典を編纂して、綱紀粛正を行い、中央集権・専制王権の体制を確立させ、また三政の紊乱などで堕落した税制を変えるため、還穀制を社倉制に切り替え、荒れ果てた土地や作物が取れない土地は土地台帳に記載をやめさせ、守令郷吏の監理を怠らず、監察を名目で横暴な振る舞いを行った、導掌宮差の派遣を禁止し、暗行御史などを派遣して、租税の横領や売官売職を行う者を厳しく処罰し、解由文記などの報告書を自らが閲覧するなどして、徹底的に制度改革を実施した。他にも衣服制度を改革し、贅沢を厳禁し、両班の賄賂を隠すための長く伸びた服装を改良したりした。この制度改革は1862年の真珠泯乱で疲弊した民心を一時的に掴むことができた。

書院整理[編集]

朝鮮にはそのころ、800ほどの書院が存在したが、ほとんどの書院は華陽洞書院のような横暴や専横がひどく、墨牌という金銭を奉納しろという告知書を不正利用して、納めなければ私刑になるほどで、このような書院が出した弊害は国庫に打撃を与えるほどであったので、1864年8月書院が保有する土地に税金をかけ、所有奴婢の身分解放などを行った。その後、大院君は指定した47書院を除く全ての書院を廃止させ、祀られていた、先賢の位牌を国が管理して、庶民の負担を軽減し国民の生活を安定を図ろうとした。この書院整理で搾取に苦しんでいた民衆の支持を得ることはできたが、逆に儒学者からの反発を招き、その度、集団上京してくる儒者を武力で鎮圧した。これは、大院君を支持していた各党派からも批判を受け、執権層の老論派はこの頃から閔妃に近寄り、後に、大院君を弾劾するまでに至った。

権限分権[編集]

1864年1月大院君は軍事権と行政権を一体化して保持していた備辺司から行政権を議政府に軍事権を国外対策のみに減らした。さらに翌年3月、備辺司議政府に統合され備局として設置された。1868年には備辺司の軍権を三軍府として復設させ、勢道政治による集権化した軍権を整備するため、訓練都監など勢道政治の基盤になった、軍権を剥奪し、国王の親衛隊龍虎営の権限を強化し、自らに通じるようにした。また武職には武科出身の専門の軍人、王族、大院君の側近を任命した。とくに三軍府を厚く重用し、格別の待遇を用意した。後に新式軍隊が設置されると、これらの者たちは、大院君側についた。また他にも六曹には執吏を配置し、自らの情報統制などを行い、議政府には、八道都執吏を配属させた。

鎖国政策[編集]

丙寅教獄と丙寅洋擾[編集]
丙寅洋擾

1864年(高宗1年)2月28日、ロシア側より、豆満江より咸鏡道に南下して通商を要求する書簡が送られてくるが、拒絶し、使者を捕らえ、処罰した。この件で大院君はロシアの南下対策のために、フランスのカトリック宣教師たちと接触して、ロシアの南下を交渉し、防げるのならば、天主学を認めると好意的な態度見せた。しかし、金炳学や金炳国らが、大院君に迫り、天主学の後ろには、欧米列強があると言い、今や朝鮮地区と呼ばれるほど天主学が浸透していると警告し、政治的に困難な状況に陥った為、好意的な態度から、一転強硬な態度へ変え、1866年に南鐘三などをはじめ8000人近くのカトリックが処刑され、フランス人のカトリック宣教師12人中9人が処刑された(丙寅教獄)。助命された宣教師のリーデルは朝鮮をなんとか脱出してこれを報告し、丙寅洋擾が勃発する。

リーデルがフランス海軍司令官ロゼに丙寅邪獄について報告すると、ロゼは艦隊7隻の兵士800人を率いて江華島を攻撃した。外奎章閣から様々な書物を略奪し、その中には、今日のフランスにおける重要所蔵物の外奎章閣図書などもある。これは、フランス側が首都包囲作戦を敢行しようとしたが、失敗し、撤退の際行ったものである。このことは大院君をおおいに自信づけ、国防強化を行った。

ジェネラル・シャーマン号事件と辛未洋擾[編集]
辛未洋擾

丙寅洋擾の2ヶ月前、アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が平壌大同江に到着し、開港を求めたが、平壌監司の朴珪寿は中軍の李鉉益に食糧や薪と水を支給し退去させよと命を下した。ところが李玄益が乗る小舟が転覆させられ、李玄益はシャーマン号に監禁させられた。その上シャーマン号は民衆を砲撃して民衆との攻防戦になるが、大同江の水位が下がり始め、猛撃の末、シャーマン号は座礁した。大院君は、朝鮮の兵士がアメリカ軍を撃退したと宣言した。

アメリカはジェネラル・シャーマン号が朝鮮で消失したことを知り、アメリカ側は朝鮮側に確認をとろうとするが、丙寅洋擾の戦果に自信を持っていたので、アメリカ側の要求を蹴飛ばした。清国駐在のアメリカ公使のローは、この事件への賠償と開港を求めて、艦隊5隻と兵士1200人を用いて、江華島を攻撃し、占領したが、大院君は要求に応えず、持久戦に持ち込んで、撤退させた。

斥和碑建設[編集]

1868年4月英国商船とドイツ商人オッペルトが忠清道沿岸に来て、朝鮮が開港するよう求めたが、拒否された。そこでオッペルトは、脅迫をしかけ興宣大院君の父、南延君の徳山にある墓の副葬品を盗掘しようと試みるが失敗に終わり、帰路で朝鮮の兵士に鉢合わせ、結果朝鮮から脱出するはめになったが、大院君は激怒し、カトリック迫害、鎖国・攘夷政策を強化し、西洋人を野蛮人として、各地に次のような内容の斥和碑を建てた。「欧米列強が侵犯しているのに戦わずして和親するのは売国だ。」[2]この碑を建てた目的は民衆へのスローガンであり、呼びかけだが、大して反響を得ることはなく、逆に大院君の鎖国政策は失脚の原因となる。ちなみに失脚直後と日韓併合時に斥和碑は破壊された。

閔妃揀択[編集]

神貞王后は一族の勢力を強化するため、同族の趙冕鎬の娘を高宗の后にしようとするが、大院君が反対し失敗に終わる。1865年大院君は王后揀択を試みた。これは、権門勢家の政治的影響力を削ぐため、早急に執り行われた。といっても、有力候補はほぼ権門勢家の娘である中、驪興府大夫人閔氏が積極的に遠縁の閔妃を推薦したので、権門勢家の影響を考慮して閔妃を王后に指名した。閔妃が王后となって間もない頃は、大人しく従順だったが、夫である高宗が閔妃に無関心だったことや、大院君の態度によって、次第に大院君を敵視した。高宗の寵愛する李尚宮が長子・完和君を出産した際、大院君は歓喜し、その頃から大院君は閔妃に対して、無視するなど冷酷な態度を取るようになり、閔妃との軋轢が生じた。

景福宮再建[編集]

景福宮

景福宮の再建は憲宗が計画していたことであったが、財政は圧迫していたので、依然不可能な事だった。だが大院君は先王の意思を受け継ぐという口実を掲げ、諫言を聞かず、国家的権威の再建を急いでいた。これには、莫大な資金が必要になるので、願納銭や特別税を課し強制徴収して、毎日庶民を数万人動員して造らせ、人夫の為に、俳優、歌手、妓生などを呼んで慰問した。再建中の1866年3月、景福宮で大規模な火災が起こり、完成間近の景福宮は焼失し、重臣達はそろって、景福宮再建を中止を提唱したが、大院君は聞く耳を持たず、都城4大門を通過する際に通行料を取り、庶民からは、寄付金を出させ、當百銭などの貨幣を鋳造して、建設費を調達した。また材木などの材料は各所の霊園の木を伐採するなどした。ちなみに建設費は8千万両であった。大院君は国家的権威の再建を徹底的に進めたが、その裏では、租税を横領したり、不当に税を課したり、売官売職などの貪官汚吏が蔓延り、當百銭は悪質貨幣になってしまった。

打開政策[編集]

景福宮再建による財政の逼迫により、両班の特権を見直しを行い、両班には一戸あたり二両を徴収し、さらに戸布制を施行し軍布二匹を徴収させた。これに対し、両班はこれに尊厳を害するという事で、反発したが、大院君はこれを無視し、200年ぶりに施行させた。これは両班の不満を買い、次第に両班に限らず、大院君の強引な政策には国民全体が反発するようになる。それとは別に、この頃、国防強化を図る為に、金箕斗と姜潤に砲軍の育成、木炭蒸汽甲艦、水雷砲などの軍事兵器の開発を指示した。ほかにも、西洋艦隊の銃弾を防ぐ為、綿でつくった背甲を開発したが、背甲は重く厚いので簡単に脱げないことなどが問題になっていた。また1860年代末から鶴羽造飛船と名づけた飛行船を開発していた。これは西洋の熱気球を見た大院君が影響を受けたもので、軍器監に開発を命じ、ガチョウ、鶴の羽を集め、熱気球に接着させ、船が砲弾に耐えられるよう開発されたが、その度、船が水につくなどして失敗した。また背甲を改良したものが開発されたが、通気性が悪く、銃弾が当たると発火してしまい、問題になった。

独裁と失政[編集]

崔益鉉

大院君は自らが執政を行い、軍事権、行政権、人事権を王命によって施行した。これを儒学者黃玹は独裁だと指摘した。勢道政治でも、ある程度の範囲で合意や話し合いで物事を決定したが、大院君はそのような事はせず、自らの独断で物事を進め、どのような命令書でも大院君の目を通し、許可が下りない場合は施行できなっかった。また人事に関しては、大院君は事前に候補者名簿を作り、強引な人事異動を行わせ、大院君によって地方官に抜擢されたものは、租税を横領し、大院君の権威をかさに来て、横暴の限りを尽くす者もいた。このような大院君の独裁政治を皆が批判し、この情勢の中で、大院君を憎む閔妃は、裏で有力者に接近し、権門勢家も次第に閔妃の側につき、神貞王后も閔妃と結びつき、ついに有力者崔益鉉と連携し、大院君を失脚させた。

失脚直後[編集]

大院君弾劾[編集]

1873年11月3日、ついに大院君の政治を批判する上疏を崔益鉉が提出し、これに対し閔妃、神貞王后は高宗にこの国は大院君の国なのかと問い詰め、高宗をはじめ権門勢家及び各党派そろって、大院君を牽制し、大院君は失脚することになった。そして高宗の親政が宣言され、高宗の親政開始に協力した、影の実力者閔妃は大院君に代わって大権を握ることになった。大院君は雲峴宮で隠居した。大院君失脚以降後、閔妃は西洋に対しては好意的な態度を示し、鎖国・攘夷政策を捨てて、開国政策を取り、日朝修好条規をきっかけとし、朝鮮の門戸解放を進めた。

懐かしき大院君[編集]

1880年の肖像画

一方国内では大権を掌握した閔妃は一族を要職につけ、閔妃一族が権力を独占した情勢となり、職権乱用や不正蓄財などが表立ってきており、かつて反発した人々も大院君の執政期が恋しくなり、勢道政治や縁故主義の対義語として人々に浸透した。一方、この頃は儒学者達は大院君失脚を多いに喜んだ。大院君は自分に従順な長男完興君を王位につけて、閔妃の影響力を削ぐべきだったと悟ったが、完興君を王位につけることは血縁的に難しいので、完興君の子にあたる永宣君に目をつけるようになった。永宣君を王位につけようとしたのは、高宗のしなやかで弱い性格と比較して、大院君と同じ強い意思を持っていることにあった。

対立関係[編集]

1873年11月より、執政の座を追われた大院君は、親政を行っている高宗と執政者閔妃一族と敵対関係にあった。これ以後は機会が来るたび、高宗と閔妃を排除することを画策し、永宣君を王位につけ、執政を掌ろうした。ところで、大院君失脚を喜んでいた儒学者達や敵対勢力は、閔妃の開国政策ついて慎重な態度を表しはじめ、結局のところ儒学者達は大院君の鎖国政策を評価する形で、有力な儒学者の奇正鎮、柳麟錫も大院君を多いに支持し、老論派系も同じ手を取って、開国政策を批評して大院君側に回った。簡単に敵対勢力を説明すると、閔妃派は後に事大派となり、保守的で清国の制度を再編入及び宗主国として再認し、親露的な方針をとった。さらにこの後、福沢諭吉邸で決起した金玉均朴泳孝金弘集らを中心とした開化派がある。開化派は、親日的で日本とつながることで脅威となる。

改革の逆行[編集]

閔妃は大院君の改革を差し戻すかのように、儒学者の支持を得る為に財政的に弊害となる書院を復設させ、各党派及び有能な人材を官職につけさせる人事行政をやめさせ、閔妃の重用する人物が要職につくことになったので、大院君の政策によって官職についた者は官職を追われ、大部分の両班は失望し、これに対し、成均館儒生及び八道の儒生は王宮に押し寄せ、閔妃を非難するが、高宗は聞く耳を持たず、閔妃に同情していた。この頃大院君は揚州郡稷洞に下った。ちなみにこの頃の閔妃は、黃玹による「梅泉野録」によれば、元子(世子の冊封前の称号)を出産したので、巫堂ノリという儀式などを毎日行わせ、その額は国家予算の数倍にも及び内需司では賄いきれない額であったので、各省庁の公金を使用し、貪官汚吏どもは競って閔妃に財物を献上しており、おかげで国庫は破綻し、大院君が備蓄した国庫金を一年足らずで使い果たしてしまったとある。このような事があってか民衆も大院君を支持するようになる。

閔升鎬爆殺[編集]

1874年春に景福宮に火災が発生し、高宗は昌徳宮に避難し、同時に閔妃一族の最高権力者閔升鎬の邸宅にも火災が発生した。この件に関して閔妃は大院君が放火させたとして名前を挙げたが、具体的な証拠がなく、立証できなかった。1874年11月に閔升鎬一家が爆殺された。閔升鎬はその頃祭事を行って室内におり、部屋の戸に爆弾がしかけられていた。閔升鎬が戸を開けた瞬間にすさまじい火に飲み込まれ、一家も近くにいた為、死んでしまう。高宗と閔妃は嘆き悲しみ、閔妃は大院君が背後にいると何度も訴え、大院君の元兵使・申哲均が拷問され自白するも及ばなかった。そこで閔妃により、翌年11月大院君の兄興寅君の家が襲撃される事件が起こった。

対立期[編集]

第二次執政期[編集]

幽閉中の大院君(1883年)
袁世凱

1882年閔妃派の待遇に不満を持つ、旧式軍隊や大院君派が暴動を起こし、閔妃派を一掃し、大院君を執政者に推薦する事件が起こった。大院君の側近である許煜は軍の先頭に立って閔妃を殺害しようとするが、閔妃は事変を察知しており洪啓薫の妹を装って宮中から脱出し、都城を抜け出し実家の驪州に身を隠した。閔謙鎬は重熙堂で乱兵に「大監私を生かしてください」と叫ぶものの殺害された。宮中は混乱し、死体は燃やされ、乱兵は「中殿はどこだ」と叫び、凄惨な光景が広がった。大院君は宮中に出廷し、閔妃は死去したと虚偽報告を行い、閔妃の葬儀を執り行ない、高宗からは壬午軍乱の事態収拾の為に大権を委任され、この事態をつかって再び自らの政権運営を行おうとした。大院君は閔妃の死を公式に宣言し、新式軍隊の武衛営・壮禦営・別技軍を廃止し、かわりに五軍営・三軍府を復設させた。

大院君幽閉[編集]

壬午軍乱を起こし高宗から大権を譲り受けた大院君の画策は成功したかに見えた。ところが、閔妃は朝鮮に駐屯していた清の袁世凱に近づいた。反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が漢城にやってきて、馬建忠は大院君を接待して軍事問題を会談した。馬建忠は「今から船に乗って天津へ行って皇帝の諭旨を受けなければならない。」といったが、大院君は拒絶したので、強制的に輿で京畿道華城郡南陽湾まで移動させ、その後船に乗って天津に辿り着き、直隷省保定府に幽閉された。幽閉中は絵を書き、とくに大院君が書いた蘭の花の絵は清でも評判になった。1882年12月長男完興君が訪問して、1883年3月に一時帰国し、同年5月にはまた清国に戻った。清国に滞在している間は、清国の役人から「凶宣君」・「凶鮮君」の蔑称され様々な侮辱を受けたが、大院君はそれを笑って甘受していた。「凶宣君」は閔妃派が使用していた蔑称で、「凶鮮君」は清国の役人から、凶悪な朝鮮の暴君という意味でつけられた。とはいえ大院君は何もしなかった訳ではなく実際には救いを求める手紙を書いていた。

明日ここをから出発すれば二日後には天津に到着する。この書は隠密しておき伝便を送るので、中身を見てほしい。[3] 1884年旧暦7月15日、船の中で密かに書いた手紙
今は何も出来ずに日々を過ごしています。ただ情けなくて仕方ありません。自分の寿命も短くなっております。長男が安らかに過ごしていることを願っています。[4] 1884年旧暦10月12日、保留中に書いた手紙

大院君の救援の手紙を何度も受けた完興君は1884年6月から船便で往来する。1885年閔氏政権が親露、親日などの傾向を見せて清を牽制しようとすると、ロシアを牽制しようとする清政府と袁世凱などの政治的な計算で4年ぶりに帰国することになった。閔妃は清政府に何度も密書を送り、安東金氏出身の金明圭は天津に行き、大院君帰国反対を上奏して帰った。しかし、1885年初め袁世凱は大院君の帰国を手配し、8月に大院君は帰国する船に乗って仁川港に到着した。高宗は大院君を迎えに行くが、顔を背け帰った。だが雲峴宮に帰った際、愛妾の死を聞いて大号泣したという。

大院君爆殺計画[編集]

1887年、清国の袁世凱と密談し、高宗を廃位し完興君を王位に擁立する事を話し合うが、袁世凱は難色を示し、破談となった。失望した大院君の元に1890年東学党の主要人物の全琫準が尋ねてきた。大院君は全琫準を保護して門客とした。後に、この縁で東学農民軍と通じる事となる。1892年春雲峴宮に爆弾が仕掛けられていた事件が発覚し、完興君・永宣君の居所にも爆弾が仕掛けられていた。この事件で宮中では閔妃が閔升鎬爆殺事件を報復するために大院君一家を殺害を画策したという批判が浴びせられ、これは永宣君が統衛使に着任した時期に起こった。この事件で大院君は刺客と爆殺を恐れるようになり、雲峴宮には国王の親衛隊の一部が護衛に当たった。

東学党との内通[編集]

全琫準

1890年から1892年まで全琫準は大院君の食客であった。1893年2月全琫準は地方から漢城府に上京し、大院君と面談した。その際大院君に決起する意思を伝え、大院君は密約を結ぶことにした。全琫準は大院君との面談を終えた後、全羅北道古阜郡に下り、同志を募り全琫準は「東学党は人間は皆平等であることを知らしめ、欲に目がくらむ貪官汚吏どもを成敗し、新しい世へ導く」と宣言して、多くの青年が集まった。大院君は東学党を密かに支援し、活動を継続させていた。忠清北道報恩郡で決起し、漢城府に上京して景福宮の前で、弊政改革案と貪官汚吏の罷免を要求する上疏を提出したが、漢城府が軍隊を出動し、やむ無く解散した。しかしこれは、中央官僚と民衆に大きな影響を与えた。さらに上京してくる東学党の集団に大院君は、嫡孫永宣君を王位に擁立することも提唱させるものの通らなかった。

抗争期[編集]

政権転覆[編集]

しかし大院君は懲りず、閔妃派を排除する計画に着手し、全琫準を通じて東学党の指導者と引見し、穏健派の指導者数名に自らを摂政に復位させる事を約束させ、1894年甲午農民戦争が起こった。これは事大党の閔妃派を駆逐するために行った。1894年6月22日側近二人を送り込み、閔妃の廃位及び閔妃派の官職追放の要求を大鳥圭介日本公使に提示し、同意を得ようとするが、日本側からはなかなか返答がなく永宣君を日本公使館に送り込み説得させようとするが、杉村書記官をはじめとする日本公使館要員が反対し、大院君は挫折した。

閔妃派は宮中に残っているものの執権を掌っている大院君はあきらめず、永宣君を別入直待令医官に任命することで、高宗及び閔妃を監視し、閔妃を廃位することを画策する。だがこの頃、甲午農民戦争は鎮圧され大院君は驚くが、この時日本側は大院君を摂政にたてることを約束され、日本軍の護衛で宮中に出廷した大院君は再度執権を掌握し、甲午農民戦争の首謀者の一件については、国父だという不文律でまたしても免れる事ができた。

第三次執政期[編集]

1894年7月大院君は日本に押し立てられて第三次政権を樹立した。この政権は一定の範囲内での権限行使が容認され、それ以外は日本が裁決する親日政権にあった。早速摂政に再任されると甲午改革を行い朝鮮を独立させる為の内政改革を行った。ところが、大院君が押し進めた政策と日本側の望む改革とは違って、たった1ヶ月で摂政の座を下ろされた。だが大権はまだ保持しており、大院君は高宗を廃位して永宣君を王位に推戴しようと策定し、農民を上京させ、数十万の東学軍を利用して日本を追い払おうとしたが、逆に裏目に出て日清戦争に発展してしまう。しかし大院君は王位推戴をあきらめず、外国大使には高宗は老衰し、元々徳すらもないと説得させようと努力した。

王位推戴と日清戦争[編集]

永宣君

大院君は嫡長孫永宣君を王位に擁立するため、側近2人に妙案を思考させた。そこで出来上がった案は、数十万の農民軍を上京させて、永宣君擁立を提唱させ、王宮内に浪人を隠匿し、農民軍を討伐するという名目で兵を出動させ内外から宮中にいる日本軍を追放しようというものだった。万一に日本軍が朝鮮軍及び農民軍を鎮圧しにくれば、一大事になるので清国も鎮圧を名目に進軍してくるので、裏で交渉し、結託して日本軍を追い払うことにした。これに伴い吏曹判書であった永宣君を再び統衛使に異動させ兵権を掌握した。早速農民軍の了解を得て果川と水原に兵を結集させ、漢陽を攻撃し、日本軍を撃退することを実行に移した。この戦いで一時的に日本側を後退させることができた。その際大院君は日本を追い払うことが出来たら、開化派の中心人物を殺害し、高宗を上王にして、閔妃及び世子を廃位することを決定した。ところが、平壌の戦いでの清国側の敗戦の知らせを聞くと大院君は驚き、その後は清国は後退するというざまで、大院君は日本公使館に呼び出され、引退を勧められた。

開化派排除[編集]

戦時中の1894年9月開化派の許曄・李秉煇は大院君の計略を摘発されるとすぐさま、大院君は開化派の李允用の官職剥奪をおこなった。さらに開化派暗殺計画を企て、刺客を集めて、殺生簿をつくって、金嘉鎮・金鶴羽・金弘集・李完用・兪吉濬を上げて1894年9月14日から9月30日まで四回書簡を送り暗殺するように命じた。だが金鶴羽以外は日本軍の護衛があった。だがためらわず警護がいない金鶴羽他2人を殺害し、さらに他の開化派を暗殺しようと試みるが隙がなく不可能だった。この事件があって1894年10月中旬に日本側は、大院君に引退を勧めるが拒絶し井上馨金弘集の内閣を設立し、翌年に入って金鶴羽殺害の事件の首謀者に指名された永宣君は死刑を宣告されるが、大院君の必死の弁論で井上馨を説得し、永宣君は流刑に、大院君は雲峴宮に閉じ込められ、日本側の監視によって、大院君は事実上幽閉されることになる。

終末期[編集]

開化派包摂[編集]

大院君は先例の事件で大権を喪失しており、永宣君を閔妃派によって流刑にされた屈辱を晴らしたかった大院君は開化派へ積極的な態度を示し、1895年大院君が開化派を保護及び支持することで、金弘集・兪吉濬などを抱き込み、一部の実権を掌握できた。大院君は閔妃暗殺を画策し始めた。この暗殺計画には東学農民軍やロシアの台頭で立場の行き詰った日本の力を借用することを前提とした。その予想は的中し、新たに赴任してきた次期日本公使三浦梧楼は大院君と面会した。最初は慎重な態度を示すが、三浦梧楼によって監視をゆるくされると次第に日本公使館に密かに出入りし、兪吉濬らは何事かと聞いた。8月16日閔妃暗殺の覚書に署名した。内容は大院君は宮中を監督し、国王を補佐する、だが政治に関しては口出ししないこととあった。この際長男完興君も署名した。翌日告由文を漢城府全域に貼り付けた。内容は自分の偉業と閔妃一族の悪行を記した文書であった。しかし閔妃派のロシアとフランス側が暗殺計画があることを知って、早急に首謀者調べを行った。

乙未事変[編集]

しかしロシア・フランスの対応は一足遅かった。10月7日閔妃派は訓錬隊の解散と武装解除を通告した、これは閔妃派一掃にむけた闘争心を増した。翌日刺客を宮中に入れる為、宮中を監督していた大院君は裏門を解放し、密かに訓練隊を侵入させた。明け方第1大隊長李斗璜・第2大隊長禹範善そして日本人士官の指揮による日本人男性が侍衛隊を強襲して破り、騒動の中で閔妃の邸内に侵入し、閔妃の邸内の女官を振り回して、「王妃はどこだ」と叫び、殿舎に入って宮女3人が死亡したことが確認された。しかもその内の1人が閔妃であることが確認された。閔妃の死体は燃焼しており、この事はすぐに報告され、大院君はすぐに高宗がいる乾清宮に参内した。高宗は恐怖に怯えており、また大院君と決裂していた。大院君は完興君を使って高宗をなだめるが、高宗は悲しみと同時に怒りを覚えていたが、大院君は閔妃の地位を平民に格下げした。同日の昼兪吉濬は事態の収拾のために、アメリカ側に今回の事件は大院君がいると述べて事態を収拾しようとした。さらに大院君は嫡長孫永宣君を流刑地から逃亡させた。

老後[編集]

乙未事変後、日本側の公約によって大院君は雲峴宮に幽閉された。1896年俄館播遷が起こると揚州に隠居した。この頃はすでに権力欲は無くなっていた。1898年1月驪興府大夫人閔氏が死去すると大院君は気力を失い、翌月22日雲峴宮で死去した。

死後[編集]

大院君の葬儀は七日間行われ、多くの人波の中で埋葬されてゆくが、高宗は葬儀に参加しなかった。廟号は興園、別称は上奉国太公であった。高宗は大院君に関心を示さなかったが、孫の純宗が即位すると、掌礼院卿李重夏が大院君を王に追尊することを提案し、1907年10月1日大院王に追号され、諡号を献懿とし、合わせて献懿大院王と呼ばれた。1898年5月16日大院王に追号された同時に驪興順穆大院王妃閔氏の称号を与えられた驪興府大夫人閔氏の共同葬儀が執り行われ、京畿道高陽郡孔徳里に埋葬された。1908年、坡州郡雲川面大徳洞に転葬され、「興園」に格上げされた。1966年、現在の南楊州市に移された。

略歴と年表[編集]

1870年代の肖像画

興宣大院君と関連の深い年表を示す。

  • 1805年 - 安東金氏による権勢政治 ( → 1863年まで)
  • 1820年 - 英祖の曾孫として出生
  • 1852年7月25日 - 驪興府大夫人閔氏との間に次男命福誕生(後の高宗
  • 1862年 - 壬戌民乱慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱)
  • 1863年
    • 12月8日 - 哲宗が後嗣なく死去
    • 12月13日 - 先々代王憲宗の母で孝明世子嬪 神貞王后とで、孝明世子の養子として自己の第2子李命福(当時11歳、後の高宗)を世子とし、自ら大院君となって摂政政治を開始
  • 1865年
    • 景福宮の重建工事のために営建都監(国家的建設を担当した臨時官庁)を置く
    • 重建工事の費用捻出のため願納銭を広く大規模に集める
  • 1866年
  • 1869年
    • 6月 - 蔚山などに外国船打ち払いの砲台砲軍をおく[5]
  • 1871年
    • 5月9日 - 軍布法を廃止して戸布法を実施[6]
    • 6月 - 米国ジェネラル・シャーマン号事件の報復として江華島侵攻(辛未洋擾
    • 斥和碑(斥洋碑)を全国八道四都に設置
  • 1873年
    • 11月3日 - 崔益鉉、大院君政治を批判する「上疏」
    • 高宗親政、大院君失脚(摂政の座を降りる)(癸酉政変
    • 閔氏が政権を取る。大院派の人々は追放・流配・処刑等で追放。
    • 閔氏一族の官吏30数名高官に。
    • 12月10日 - 閔妃の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発[7]
  • 1874年
    • 3月 - 閔妃男子「」出産(後の純宗)
    • 宮女である李尚宮と高宗の長男「完和君」を世子とする大院君派と坧を世子としたい閔妃派で争い
    • 11月 - 閔氏一族の最高実力者である義兄・閔升鎬宅に爆弾、彼と母子が爆死
  • 1875年
    • 8月 - 閔妃派、李裕元を世子冊封の奏請使として清へ。王世子(世継ぎ)として認められる(翌年1月帰国)
    • 9月 - 江華島事件日朝修好条規
    • 11月 - 大院君の兄・李最応の家に火が放たれる事件
  • 1876年
  • 1877年 - 高宗第5男子平吉誕生(1891年義和君に封じられる)
  • 1880年 - 大院君が世子候補として推薦した「完和君」(高宗の長男)が変死
  • 1882年
    • 1月 - 純宗、戴冠式
    • 閔一族の高官閔台鎬の娘が世子嬪(皇太子妃)と決まる(後の純明孝皇后閔氏)
    • 7月 - 壬午事変。 閔妃は昌徳宮から脱出し閔応植に匿われる。[8]日本公使館包囲、焼き討ち、堀本工兵少尉ら数十名が死傷、花房義質公使ら逃亡→済物浦条約(8月30日)
    • 8月26日 - 壬午事変の策動容疑で 大院君、清へ連行[9]
  • 1884年
    • 12月 - 甲申政変 日本軍、王宮を占領。 閔妃失脚。
    • 閔一族の閔台鎬(純宗の妃 純明皇后の父)、閔泳穆、趙寧夏らが殺され、閔泳翊は重傷を負う。
    • 閔妃 袁世凱に清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害。(→漢城条約天津条約
    • 金玉均朴泳孝徐載弼らは3日間で失脚 日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等)
  • 1885年
    • 1月9日 - 日朝 漢城条約(日本:井上馨、朝鮮:金弘集)
    • 4月15日 - 巨文島事件(イギリスが巨文島を占拠)
    • 4月18日 - 日清 天津条約(日本:伊藤博文、清:李鴻章)日清両軍の撤退
    • 朝露密約。日本 清に大院君の帰還要請。閔妃側 大院君帰国の通達に難色
    • 10月3日 - 大院君、清から帰国(仁川)
  • 1892年
    • 6月 - 閔妃の大院君殺害陰謀(大院君邸内爆弾による火災)[10]
  • 1894年
    • 3月28日 - 閔政権、上海に刺客洪鍾宇を送り、開化派の金玉均を暗殺
    • 金玉均の遺体は清の軍艦威靖により朝鮮に届けられた。遺体は六支の極刑。(父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏は、奴婢として売られる)
    • 5月31日 - 農民軍全州占領。清と日本は出兵甲午農民戦争全州和約(6月))
    • 7月 - 日本軍が王宮包囲、開化派中心の政権成立。閔氏政権を倒すクーデター
    • 金弘集を中心とする政権 甲午改革
    • 8月1日 - 日清戦争宣戦布告
  • 1895年
    • 3月30日 - 日清休戦条約
    • 4月17日 - 下関条約
    • 5月4日 - 三国干渉受諾(閔妃、親露政策へ)
    • 7月6日 - 閔妃、ロシア公使ウェバー[11]とロシア軍の力を借りクーデターに成功 [12]
    • 7月10日 - 閔妃に関する謀議の風説の報告[12] 朴泳孝は閔妃殺害計画を謀議したとされと京城を脱出、釜山経由で亡命
    • 9月1日 - 三浦梧楼、韓国駐在公使として着任
    • 10月7日 - 閔妃派政権、訓錬隊の解散と武装解除を通告
    • 10月8日 - 閔妃暗殺される乙未事変[13]
    • 10月10日 - 大院君の提言で閔妃が王妃の身分を剥奪され平民とされる[14]
  • 1897年 - 大韓帝国の成立とともに献懿大院王の尊号を受ける
  • 1898年
    • 2月22日 - 79歳で死去

家系[編集]

父母[編集]

  • 父 南延君 李球 1788年 - 1836年
  • 母 郡夫人驪興閔氏

妻子[編集]

  • 正妻 驪興順穆大院王妃閔氏 1818年 - 1898年1月
  • 長男 完興君 李載冕 1845年 - 1912年
    • 嫡長孫 永宣君 李埈鎔 1870年 - 1917年
  • 次男 高宗 李𤌇 1852年7月25日 - 1919年1月21日
  • 長女 趙慶鎬(後に男爵の爵位)と結婚
  • 次女 趙鼎九(後に男爵の爵位)と結婚
  • 側妻 李氏 1884年 - 1978年 -- 驪州李氏、李麟九の娘
  • 庶子(男) 李載先 ? - 1881年5月 -- 高宗廃位事件で閔妃一派に捕らえられ済州島へ流配後、賜薬の刑
  • 庶子(女) 李允用李完用の兄、後に男爵の爵位)と結婚


系図[編集]

興宣大院君の親類・近親・祖先の詳細


配色
      朝鮮国王、大韓皇帝       世子、皇太子       大院君       王族       璿派人       全州李氏当主

 
 
 
仁祖
第16代国王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭顕世子
仁祖の長男
孝宗
第17代国王
 
 
 
 
 
麟坪大君㴭
仁祖の三男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕宗
第18代国王
 
 
 
 
 
福寧君栯
麟坪大君の長男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
粛宗
第19代国王
 
 
 
 
 
義原君爀
福寧君の次男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
景宗
第20代国王
英祖
第21代国王
延齢君昍
粛宗の六男
 
安興君淑
義原君の長男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝章世子
真宗
英祖の長男
荘献世子
荘祖
英祖の次男
 
 
 
 
 
 
李鎮翼
安興君の長男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正祖
第22代国王
孝章世子の養子
恩彦君裀
荘献世子の次男
恩信君禛
荘献世子の四男
延齢君の養子
 
李秉源
李鎮翼の長男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
純祖
第23代国王
全渓大院君
恩彦君の三男
 
南延君球
李秉源の次男
恩信君の養子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝明世子
文祖
純祖の長男
哲宗
第25代国王
純祖の養子
 
興宣大院君
南延君の四男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲宗
第24代国王
高宗
第26代国王
初代皇帝
孝明世子の養子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
純宗
第2代皇帝
初代李王
李堈
高宗の五男
李垠
純宗皇太子
第2代李王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李海瑗
李堈の次女
李鉀
李堈の九男
李玖
李垠の次男
 
 
李源
李鉀の長男


最近の話題[編集]

  1. 大院君が別荘として使っていた「石坡亭(ソクパジョン)」(ソウル市有形文化財・第26号)が競売で落札された。

脚注[編集]

  1. ^ 朝鮮人物事典148頁
  2. ^ 洋夷侵犯非戦則和主和売国戒我萬年子孫 丙寅作 辛未立
  3. ^ 京郷新聞1973年10月4日の記事7面
  4. ^ 京郷新聞1973年10月4日の記事7面
  5. ^ 『高宗実録』 高宗 3年10月20日30日、高宗4年1月16日、『蔚山邑誌』 宦蹟(『嶺南邑誌』)「蔚山府設砲射節目」等
  6. ^ 従来常民からだけ徴収してきた軍布(兵役の代用として布を納める)を両班からも徴収する戸布法
  7. ^ 犯人として大院君の自宅に住む使用人が逮捕される
  8. ^ 承政院日記高宗 19年 9月 22日前後にはその後の上訴等が記載
  9. ^ 花房公使ヨリ条約締結並清人馬建忠大院君ヲ諭シテ支那軍艦ニ搭シ天津ニ発航スルノ電報到達 アジア歴史資料センター Ref.A03023641400
  10. ^ 梅泉野録及び『大院君邸内火薬爆発ノ件』アジア歴史資料センター Ref.A04010006500
  11. ^ ウエベル またはヴェベールと記す。Karl Ivanovich Weber
  12. ^ a b アジア歴史資料センター Ref.B03050001800
  13. ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十日』
  14. ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十二日』

画像[編集]

参考文献および外部リンク等[編集]

先代:
金佐根
李氏朝鮮摂政
1863年 12月 - 1874年
1888年
次代:
-