トラウトマン和平工作

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トラウトマン和平工作(トラウトマンわへいこうさく)とは、1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼称される。

和平交渉の期間は、日中戦争支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1ヶ月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。

概要[編集]

近衛文麿内閣

当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた(中独合作)。ゆえに中国権益の保護には大きな関心を抱いており、また日本の目が中国に向かって北方のソ連から逸れるのは望まざるところであったので、和平工作の仲介に乗り気であった。盧溝橋事件以降、緊迫した状態の中で第二次上海事変が勃発した。そんな中で日本は船津和平工作を踏襲した和平工作を行おうとした。

同時期の政府の四相は首相の近衛文麿、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政であり、和平工作の打ち切りの当事者である。

1937年10月[編集]

戦局が激しくなる中、日本は昭和12年10月1日に「支那事変対処要綱」を四相決定(総理、外務、陸軍、海軍)し,停戦条件と国交調整方針を策定した。10月下旬、九国条約関係国会議の対日招請状が届くと、日本は不参加を決定したが、同時に「軍事行動の目的がほぼ達成された時期には第三国の公正な和平斡旋を受理する」方針を外務省と陸海軍との間で三省決定した。参謀本部する石原莞爾少将の第一部長離任転出直前、第二部の馬奈木敬信中佐が「今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリンで補佐官をしていた時代の友人である」と言ったので、石原は「それは願ってもない。すぐ支那に行ってトラウトマンと会い、日支和平工作の手がかりを作ってくれ」と、馬奈木を上海に行かせた。この後、石原は第一部長を離任、満州へ転出した。日本政府と軍部の首脳は早急に戦争を終えたいとの気持ちから、第三国の公正な斡旋の申し出があった場合は船津和平工作案の範囲内で受諾するとの方針を外務省と陸海軍三者間で決め、広田弘毅外相より10月27日、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアに対して、日支交渉のための第三国の好意的斡旋を受諾する用意のあることを伝えた。

1937年11月[編集]

広田はいわゆる第1条件を提示した。そして同時に広田は戦争が継続される場合には、この条件ははるかに加重されるであらうと強調した[1]

実は7月29日の閣議で承認されたもので、開戦前の事態収拾案である。参謀本部はこの戦争を局地戦と考えていた。戦果による条件の改変を考えていなかったし外交に属することは関与を避けた。ただこの時参謀本部の情報部はかなり正確に国府軍の暗号を解読していたとみられ、国民党政府内部の情況についてよく把握していた。蒋介石が日本側の和平提案やブリュッセル会議へ関心をもったため国府軍の全面退却はやや遅巡しており結果としての混乱を歓迎する面もあった。

11月上旬に広田から日本の和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使が接受し、ベルリンアドルフ・ヒトラーの諒承を得て、トラウトマン大使が王寵恵外交部長に日本の意向を伝えたが、王は蒋介石の意見として、『中国は国際連盟に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、その結果を見るまでは、日本の条件を考応すべきではない』との返事をした。11月2日に広田は第1条件をディルクセンに手渡し、11月3日にディルクセンはドイツ外務省に右会談の模様を報告し、「日本のこれらの条件は極めて穏健なものであるから、中国がこれを受諾するよう圧力をかけるのが賢明と思われる」と述べた。ドイツ外務省も日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、同日トラウトマン大使宛てにこれを中国側に伝えるよう訓令した。11月5日に蒋介石は第1条件を入手した。

1.外蒙と同じ国際的地位を持つ内蒙自治政府の樹立。
2.華北に、満州国境より天津、北京にわたる非武装地帯を設定、中国警察隊が治安維持。ただちに和平が成立するときは華北の全行政権は南京政府に委ねられるが、日本としては長官には親日的人物を希望する。もし直ちに和平が成立しない場合は新しい行政機関を設ける必要がある。この新機関は平和が結ばれた後にもその機能を継続する(ただし今日までのところ日本側には華北新政権を設立する意向はない。)。
3.上海に非武装地帯を拡大し、国際警察により管理する。
4.排日政策の停止。
5.中ソ不可侵条約と矛盾しない形での共同防共。
6.日本製品に対する関税引き下げ。
7.中国における外国人の権利の尊重。[2]

上記の条件では満州国の正式承認は要求していない。

11月6日、トラウトマン大使は、孔祥煕実業部長だけが列席している場で蒋介石に日本側の意向を伝えた。蒋介石は現在これに応じられないと回答した。蒋介石は11月2日に第一次案がトラウトマンより示された時にこう述べた、「日本側が事変前の状態に復帰するのでない限りどんな要求も受諾できない。」「もし自分がこの(日本側の)条件を受諾したら、わが政府は世論の大浪に押し流されてしまうだろう。…日本のやり方でわが政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と極秘に述べた。蒋介石は、開催中の国際連盟ブリュッセル会議において、なんらかの形で対日制裁が決議されるものと期待していたので回答を留保した。

蒋介石は大場鎮陥落をもって敗北とみなすファルケンハウゼンの進言を容れず、また英米などの干渉により日本が国府軍の殲滅に乗り出さず、戦線を維持できると観測した。広田への回答はせず引き延ばしを図った。

20日の「遷都宣言」で蒋介石は「盧溝橋事件発生以来…日本の侵略は止まる事を知らず…各地の将士は奮って国難に赴き…死すとも退かず…日本は更に暴威を揮い…わが首都に迫る…およそ血気ある者で瓦全より玉砕を欲せざる者はない。…」と述べ、戦争に固執した。

壊走した国府軍への日本軍の網は締まりつつあった。国民党政府要人誰もが11月中旬には破滅的な事態となりつつあることを認識し始めた。11月28日から蒋介石は第1条件受諾の根回しを開始した。12月2日午後4時の南京にて、蒋介石は徐永昌唐生智白崇禧顧祝同銭大鈞らを招集し日本側の条件についての意見を求めた。

和平条件に「華北の行政権は南京政府に委ねる」が記載されている為、白崇禧は「こんな条件ならなぜ戦争するのか」、徐は「これだけの条件なら承認してよい」と述べた。顧は受諾に賛成、最後に唐が「みなが賛成なら賛成でいい」といったという。最後に蒋介石は「ドイツの調停は拒否すべきでない」「華北の政権は保持しなければならない」と言明した。

1937年12月[編集]

12月2日、蒋介石は第1条件を交渉の基礎として受け入れることをトラウトマンに伝達した。しかしこの段階でも蒋介石の対日不信は根強く「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつ、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」などとした。

しかしながら、中国側が返答を保留している間に、日本は上海を攻略し次いで南京を攻略した。12月13日に、日本軍が南京陥落。日本国内では「強硬論」が強まった。日本政府は、講和条件を賠償を含む厳しい条件にした。12月21日の閣議で新条件を決定した。東亜局長の石射猪太郎は発言権のない立場にもかかわらず、思わず「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と発言したが無視された。絶望した石射は、当日の日記に「こうなれば案文などどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目と見切りをつける」と記している。

支那は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力する。
所要地域に非武装地帯をもうけ特殊の機構を設定する。
.日満支三国間に緊密な経済協定を締結する。
.支那は帝国にたいして所要の賠償をする。

以上の他口頭説明として細目を次のように付加した

支那は満州国を承認する。
支那は排日反満政策を放棄する。
北支・内蒙古に非武装地帯を設定する。
北支は支那主権の下において、日満支三国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定しこれに広汎な権限を与え日満支経済合作の実をあげる。
内蒙古に防共自治政府を設定する。
支那は防共政策を確立し、日満両国の防共政策遂行に協力する。
日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して、特殊機構を設ける。また上海市には租界外に特殊政権をもうけ日支協力して治安維持と経済発展にあたる。
日満支三国は資源開発、関税、交易、航空、通信に関し協定を締結する。
支那は帝国にたいし所要の賠償をする。

付記

北支・内蒙古・中支の一定地域に必要な期間、日本軍の保障駐屯することを認める。
前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する 。

広田は回答期限を1月5日として、12月22日にこれをディルクセンに提出した。日本政府は、南京攻略後の12月下旬に満州国の承認と賠償等の条件を加重した第2次和平案を国民政府に伝えた。蒋介石は第2次和平案には態度を硬化させ、交渉打ち切りを視野に入れながら詳細を日本側に問い合わせたため、第一次近衛内閣は遷延策であると判断して交渉を打ち切ることを決定した。

加重の理由は、第二次上海事変は中国軍による上海の日本海軍に対する奇襲攻撃をもって始まり、上海戦における日本側犠牲者は日露戦争の旅順攻撃における犠牲者に匹敵(4万1千人)するものであったからと言われている。

1938年1月[編集]

多田駿。支那駐屯軍司令官、参謀本部次長でも日中和平を唱えていた。

蒋介石は「日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい」「断固として拒絶せよ」と述べた。日本では1月11日には参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれる。参謀本部は御前会議開催について、「戦勝国が敗戦国に対し過酷な条件を強要する」ことを戒める意味がある、と説明した。参謀本部は最後まで交渉による和平を主張するが、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定した。

この時、広田が「私の永い間の外交官生活の経験から見て、中国側の態度は、和平解決の誠意のない事は明らかであると信じます。参謀次長は外務大臣を信用する事ができませんか?」と言った。米内はこれに同調し「政府は外務大臣を信頼しております。統帥部が外務大臣を信用しないという事は、政府不信任である。それでは政府は辞職せざるを得ない」と言った。これに対し、多田駿は「明治天皇は、かって辞職なしと仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなど何事でありますか」と応酬したとされ、最終的に多田が内閣総辞職の政府側の圧力に屈した形になった。しかし、なお参謀本部は諦めず最後の賭として、昭和天皇への上奏により政府決定の再考を得ようとした。しかし、先に上奏した近衛によって、参謀本部の試みは阻まれた。このような打ち切りに際しては、蒋政権との和平交渉継続を強く主張し、第一次近衛声明の発表を断固阻止しようと食い下がる陸軍の多田駿参謀本部次長に対し、米内光政海軍大臣が大本営政府連絡会議で「内閣総辞職になるぞ!」と恫喝して黙らせた事が知られる。

翌16日に、近衛内閣は「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」と声明を発した。同時に日本はドイツ側に和平交渉への謝意と共に打ち切りを伝え、ここに交渉は終了した。

太平洋戦争後、和平工作を妨害したために、文官である広田弘毅は日中戦争を拡大させてしまった政治家として連合国側によって絞首刑にされた。

補足[編集]

トラウトマン和平工作は太平洋戦争大東亜戦争)へ至る重大な政策の過程であったにも関わらず、近代史ではあまり取り扱われない事柄である。これ以降、中国側の呑めない過酷な条件により和平が出来ず、1938年1月の近衛文麿の「国民政府相手にせず」で、2年間半近く日中関係は最悪の状態になった。しかし、1940年に行われた桐工作では条件を緩和させ、蒋介石板垣征四郎汪兆銘の三者が参加する大物会談に発展する和平工作になった。しかし桐工作の条件である華北への日本軍の防共駐屯は蒋介石が断固として反対し、東條英機も日本陸軍の中国からの無条件撤退に断固として反対した。

陸軍参謀本部のトップが停戦・和平を主張し、政府海軍らがそれを阻止し和平を打ち切るという、戦後の一般的なイメージ(陸軍悪玉論)とは逆の構造となっている。つまり日中戦争は満州事変での関東軍の暴走と違い、政府が後押ししており、必ずしも陸軍の「下剋上」「暴走」ではなかったと言える。

年表[編集]

1937年

  • 11月2日 - 交渉開始。第1次和平案が日本より駐日ドイツ大使に連絡される。
  • 11月3日 - ブリュッセル会議(15日迄)
  • 11月5日 - 国民政府に和平案が伝えられる。
  • 11月9日 - 上海陥落。
  • 12月1日 - 大本営が南京攻略を正式に発令。
  • 12月2日 - 蒋介石が第1次和平案受諾の意向をトラウトマンに伝える。
  • 12月7日 - 蒋介石の和平案受諾の意向が日本政府に伝わる。
  • 12月13日 - 南京攻略戦終結。
  • 12月21日 - 第2次和平案閣議決定、翌日駐日ドイツ大使に連絡。
  • 12月26日 - 第2次和平案が蒋介石に伝えられる。

1938年

  • 1月12日 - 日本政府、回答を督促。
  • 1月14日 - 国民政府より、和平案に対する問い合わせ。
  • 1月15日 - 大本営政府連絡会議の場で交渉打ち切りを決定。
  • 1月16日 - 日本政府、交渉打ち切りの声明。(第一次近衛声明)

脚注[編集]

  1. ^ (「日独伊三国同盟の研究」85・86ページ)。
  2. ^ 大杉一雄氏「日中十五年戦争史」

関連項目[編集]