インパール作戦

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インパール作戦
Imphalgurkhas.jpg
日本軍を撃退しに向かいインパール-コヒマ間の路上を進撃する、M3中戦車を伴ったグルカ兵
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日1944年3月8日7月3日
場所:イギリス領インド帝国 ビルマ州 インパール
結果連合軍の勝利
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国
AzadHindFlag.png インド国民軍
イギリスの旗 イギリス
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国
指揮官
日本の旗 河辺正三
日本の旗 牟田口廉也
AzadHindFlag.png スバス・チャンドラ・ボース
イギリスの旗 ウィリアム・スリム
イギリスの旗 ジェフリー・スコーネス英語版
イギリスの旗 ジャック・ボールドウィン英語版
戦力
92,000 ~150,000
損害
戦死:26,000
戦病:30,000以上
死傷:17,500[1]
戦病:第33軍団のみで47,000[2]
ビルマの戦い

インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。

補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦代名詞として現代でもしばしば引用される。

日本軍作戦立案の経緯

二十一号作戦

インドへの侵攻作戦という構想は、ビルマ攻略戦が予想外に早く終わった直後から存在した。インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって、連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた[3]

日本の南方軍は、「二十一号作戦」と称して東部インドへの侵攻作戦を上申した。1942年(昭和17年)8月下旬、戦争の早期終結につながることを期待した大本営は、この意見に同調して作戦準備を命じた。参加兵力は第15軍第18師団を主力とする2個師団弱とされた。イギリス軍の予想兵力10個師団に対して著しく少ないが、ビルマ戦の経験からはこの戦力比でも勝算があると考えたのである[3]

しかし、二十一号作戦の主力に予定された第15軍及び第18師団(師団長:牟田口廉也中将)はこの計画に反対した。現地部隊は、雨季の補給の困難を訴えた。乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴発の困難などが予想されると主張した[3]

現地部隊の反対に加え、ガダルカナル島の戦いの発生もあったため、同年11月下旬、大本営は二十一号作戦の実施保留を命じた。ただし、あくまで保留であったため、現地では作戦研究が続行されるべきことになった[3]

武号作戦

1942年(昭和17年)10月以降、第一次アキャブ作戦などイギリス軍の反攻作戦が起きるようになった。1943年(昭和18年)前半には、オード・ウィンゲート率いるコマンド部隊空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へもイギリス軍の反攻が可能なことが示された[4]。ウィンゲート旅団は撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍の反攻作戦が予想された。

日本側では太平洋方面の戦況が悪化し、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下が生じていた。そこで日本側は防衛体制の刷新を図り、3月に緬甸方面軍(ビルマ方面軍)を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させた。この大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけとなってしまい、幕僚達が司令官のビルマでの経験に頼らざるを得ない状況となった[4]。これが司令官の独断専行発生の構造的な要因となり、本作戦失敗の遠因ともなった。

第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢から攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換、つまり、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになった。かつては攻勢反対論者だった牟田口であったが、ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を変えていた。より西方のチンドウィン河に新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も広すぎるため、むしろインパールを経てアッサム地方まで進攻すれば、連合軍の反攻を封じることができるだけでなく、インドの独立運動を誘発して戦争の早期終結につながるとの期待も持っていた。名目上も保留中の二十一号作戦を自らの手で行おうというこの構想は、盧溝橋事件に関与した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もある[5]

牟田口は、まずインドへの侵攻拠点として、防衛線をビルマ領内のチンドウィン河西方ミンタミ山系に進めることを考えた。イギリス軍の反撃を避けるために、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に奇襲的に防衛線を進めるべきだと牟田口は主張、これを「武号作戦」と呼称した。しかし、小畑信良第15軍参謀長らは、ウィンゲート旅団掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン河西方への兵站・支援部隊の駐屯は困難であることなどから、武号作戦に反対した。まもなく実際に雨季が近付いたため、作戦実行は時期的に不可能となり、作戦案は自然消滅となったが、小畑参謀長の消極意見は牟田口の強い怒りを買った。また、小畑が軍司令官に直言せず隷下の田中新一第18師団長を通じて翻意を促した点は、統率上問題であると田中師団長が進言し、牟田口も同意見で参謀長更迭を決心した。小畑参謀長は就任後僅か1か月半の5月に、河辺方面軍司令官の承諾を得て罷免された[6]

ウ号作戦

1943年(昭和18年)5月、なおも攻勢防御案を強く主張する牟田口第15軍司令官は、南方軍司令部での軍司令官会合でもインパール攻略・アッサム侵攻を力説した。河辺ビルマ方面軍司令官もこれに同調して、インパール攻略とアラカン山系への防衛線前進を主張したが、牟田口と異なってアッサム侵攻は無謀と見ていた。会合の結果、南方軍全体としてもアラカン山系への防衛線前進を図る攻勢防御が妥当という点で一致したが、稲田正純南方軍総参謀副長などはあくまで限定的かつ慎重な作戦を採るべきという方針だった[7][8]

この会合での決定に基づいて翌6月にビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習では、ミンタミ山系への限定前進でも結局はイギリス軍との全面会戦になると予想され、より積極的なインパール攻略のほうが有利との判定が下った[7]。同席の南方軍・大本営参謀らからも攻勢防御案に異論は出なかったが、第15軍の主張する軍主力がアラカン山系の山岳地帯を一気に越えてインパールを電撃攻略し、さらにはアッサム地方へ進撃するという計画は兵站の点から問題視され、演習に列席した竹田宮恒徳王大本営参謀は、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評し[9]、また中永太郎ビルマ方面軍参謀長や稲田総参謀副長らは、補給困難を理由にインパール北方のコヒマへの投入兵力を限定して柔軟にインパール攻略を中止・防衛線構築に移行という修正案を提示した。しかし河辺司令官は、アッサム侵攻という考えには反対するが、「わたしは牟田口中将の心事をよく呑み込んでいる。最後の断は必要に応じわたし自身が下すからそれまでは方面軍の統帥を乱さない限り、牟田口中将の積極的意欲を十分尊重するように」と述べただけで、うやむやとなった[10]

しかし、こうした懸念にもかかわらず、8月、大本営陸軍部はインパール攻略作戦の準備命令を下達した[9]。このときも南方軍は限定攻勢とする修正を指示したが、ビルマ方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視された。また、アッサム侵攻はこの作戦案には明示されなかったものの、牟田口はなおも密かに企図していたとされ、この作戦の成否を一層危ういものにしていた[11]。第15軍参謀の木下大佐は、この際の作戦準備要綱で方面軍が作戦意図を明確に示していれば、牟田口であっても再考せざるを得なかったはずであると回想した[12]。しかし牟田口司令官は当初のアッサム侵攻構想を含む作戦準備に邁進し、8月末には隷下の各兵団長を司令部に呼び、作戦準備を命じた。このとき牟田口司令官は、「もともと本作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。糧は敵によることが本旨である。」「敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発撃て。そうすれば敵はすぐに投降する約束ができているのだ。」と発言し、列席の兵団長は司令官の本心を疑ったという[13]

本作戦案は、1944年(昭和19年)1月に大本営により、その実施が南方総軍司令官に発令(大陸指令第1776号)[14]されたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働いていた。この上層部の思惑を前に、インパール作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消されていった。第15軍内部で作戦に反対していた小畑参謀長が1943年(昭和18年)5月に更迭されたのに続いて、ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍でインパール作戦実施に強硬に反対していた稲田総参謀副長が、同年10月15日に突然更迭された。こうして作戦に反対する者が排除される様を目の当たりにする中で、反対者は次第に口を閉ざしていくことになった。

また、インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として第二次アキャブ作戦ハ号作戦)が、1944年2月に花谷正中将を師団長とする第55師団により行なわれた。この支作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦中止を命令していたにもかかわらず、本作戦であるインパール作戦に何ら修正が加えられることはなかった。

連合軍の作戦立案の経緯

連合軍の場合、欧州の戦況を睨みつつ、東南アジアに向けての反攻をどこで実施するかと言う観点から、多岐にわたる選択肢が議論された。

1942年(昭和17年)3月のルーズベルト大統領の提案により英米両国は4月にその担当戦域を分割して、英国の担当はインド洋、中東および地中海と決められた。インド洋、中東での指揮権については、陸海空三軍指揮官の権限は同格扱いであったが、陸軍指揮官が指導的立場にあることは認められた。

その後、戦局の進展に応じて幾つかの計画が立てられては消えていった。英国は日本軍にビルマから駆逐された当初はビルマ地域での反攻計画に積極的だったが、やがて欧州反攻を重視し1943年秋には消極的に変わっていた[15]

ビルマ作戦

1943年(昭和18年)に構想されたビルマへの反攻作戦には、ANAKIMという呼称が与えられた。中華民国軍の指導に当たっていた米陸軍のスティルウェル中将はこの計画に強い関心を持っていた。1943年5月の第3回ワシントン会談に参加したスティルウェルは持論を説き、米海軍のキング作戦本部長も同調したが、スティルウェルが英国側に嫌悪されていたことや、チャーチルが必要性を認めなかったこと、身内の米陸軍からもマーシャル参謀総長が実施不能と否定的見解を示したことでお蔵入りした[16]

ビルマで攻勢を実施する利点としては中国本土で航空基地を作戦させていた関係上、政治的には魅力のあるものと映り、ルーズベルト大統領の側近には第1回ケベック会談の際にこの話を蒸し返す者が居たが、そのための兵力を調達しなければならないのは英軍であったので、欧州反攻を重視していた英国は反対していた。

東南アジア指揮地域の分離

第1回ケベック会談ではビルマ戦域の指揮権についても議論された。将来的にはインド指揮地域から切り離して東南アジア指揮地域を設定し、その範囲をビルマ、セイロン、タイ、マレー半島スマトラを包含することとし、米軍より副最高指揮官(Deputy Supereme Commander)を迎え、最高指揮官と連合幕僚長会議との間に英国幕僚長会議を挟むこととなった。同会談での第2回全体会議の最終報告では下記のように述べられている。

52
スティルウェル将軍は東南アジア指揮地域の連合軍副最高指揮官となり、その資格で、ビルマに向かって作戦する中国軍と、東南アジア指揮地域におくことを許される米国の航空部隊と地上部隊とを指揮する。
53
ビルマに向けて作戦する中国軍の作戦指揮権は、英国陸軍の全般的計画に従って、連合軍最高副指揮官または中国軍と同所にいる彼の代表者によって行使される。

第1回ケベック会談連合幕僚長会議最終報告

これに従って1943年8月25日、チャーチルはマウントバッテンを東南アジア連合軍最高指揮官に任命した[17]

英国の守勢方針

1944年(昭和19年)10月に、チャーチルはマウントバッテンに次のように指令している。

貴官の第一の任務は日本軍に執拗に繰り返し繰り返し接触し挑発し続けて日本軍を疲れさせ、特にその航空戦力を消耗させることだ。そうして太平洋正面からビルマ正面に日本軍の戦力を吸引することである。

John Ehrman, Grand Strategy ⅴ (London: Her Majesty’s Stationery Office, 1956), p.148(荒川憲一による訳。[15]

この指令を受け、英印軍にとってビルマ戦域での作戦は支作戦となり、11月以降は最小限の兵力で日本軍を誘出、拘束することが目的となった。荒川憲一は、日本軍が攻勢をとる為に兵力を増強すればするほど「思うつぼ」だった旨を述べている。

カイロ会談

その後、1943年(昭和18年)11月のカイロ会談では東南アジア作戦は主要議題とすることが議事日程で予告され、会談の前段としてスマトラ作戦とアンダマン作戦の2つを比較して参加国で検討が行われた[注釈 1]。チャーチル以下、英国側はいずれもこれらの作戦に乗り気ではなかった。これらの作戦はオーバーロード作戦[注釈 2]後を予定していたが、OVERLORD後にはイタリア西部に対する上陸など地中海での作戦を切望していたからである。OVERLORD後に直ちにこれらの作戦のいずれかでも実施された場合には、地中海での作戦が台無しになると考えたのである。

一方、米国側は英国側の地中海での作戦提案を信用せず、スマトラ作戦、アンダマン作戦のいずれにしても中国に対する連合国の援助の保証として重要性が認められ、これらを断念することは蒋介石政権の弱体化に繋がると考えた。なお、カイロ会談には中華民国も参加していたので、英米は会談中の討議において中華民国に対しても外交上の配慮が必要であった[18]

なお、中華民国がこの会談で要求したのは下記の3点である。

  1. ヒマラヤ山脈を越えて実施中の空輸作戦(月間10000トン)はビルマ作戦に関係なく継続すること
  2. TARZAN作戦(下記)は雲南の地上部隊のラシオ進撃と呼応する為、マンダレーを目標とすること
  3. 海軍作戦は陸軍作戦と同調するように開始すること

スマトラ作戦

スマトラ作戦にはCULVERINというコードネームが与えられた。

カイロ会談においては、本作戦は北部スマトラに対する進攻として扱われたが、米国幕僚長会議は11月8日、本作戦に対しては必要な援助を与えることが出来ないから、アンダマン作戦を早期に開始することに同意したが、「ビルマ南部の日本軍を釘付けにするために、更に別個の陸、海、空の作戦を実施することが出来るものと信ずる」とマウントバッテンにこの問題を研究するように勧告した。

アンダマン作戦

アンダマン作戦にはBUCCANEERというコードネームが与えられた。アンダマン諸島を攻略しベンガル湾方面の制海権を握ることを直接の目的にしている。本作戦を押していたのは上記のように米国側および中華民国であり、1944年3月に実施できる確固たる保証を欲していた。しかし、11月8日の米国幕僚長会議による勧告は英国幕僚長会議にとっては英軍が主導する作戦地域への不当干渉と映った。そのため英国側は、対日戦の主戦略が決定されるまで、東南アジア作戦についての取扱を延期しようと図った。

チンドウィン川渡河作戦

チンドウィン川渡河作戦にはTARZANというコードネームが与えられた。スマトラ、アンダマンと同時期に計画されたものであり、北部ビルマでの攻勢を企図したもので、チンドウィン川を渡って概ね南東に進撃し日本軍を駆逐する。中華民国側が関心を示した。しかしカイロ会談にて、マウントバッテンは、

  1. ビルマでの大規模な攻勢作戦を実施すれば中国への空輸には打撃となる
  2. マンダレーへの進撃は航空機500機の増援を必要とするがその入手には期待出来ない

という説明を蒋介石におこなっている。

これを受けた蒋介石は選択を迫られ、次のように回答した。

  1. TARZAN作戦の目標についてはインド=カーサen)の線で妥協する。
  2. ビルマ作戦の成功は、陸上での攻勢と同時に実施する海軍の協力如何で決まる

これに対し、チャーチルは次のように回答し、蒋介石の上陸作戦実施要求を拒絶した。

  1. 海軍作戦は必ずしも陸上作戦とは関連しない
  2. 1944年3月までには適当な艦隊をインド洋に準備するが、上陸作戦の確約は出来ない

しかし、蒋介石にはルーズベルトと言う援護者が居た。ルーズベルトは「次の2、3ヶ月以内にベンガル湾を超えて」相当規模の上陸作戦を実施する旨を中国側に約束していた。そのため、翌11月のテヘラン会談の際、英国側は追い詰められた。結局、12月5日の連合幕僚長会議による協同覚書では

  • 英側提案:BUCCANEER作戦延期
  • 米側提案:TARZANおよび連接する上陸作戦は政治的にも軍事的にも必要性大

とそれまでの要求が併記されるに至った。ルーズベルトはBUCCANEERを断念することで対立状況が打開できると決心し、「欧州における作戦のために、ベンガル湾において大作戦を行う余裕がない」ことを名目とした書簡を送り、自身が蒋介石に行った約束を破棄した。マーシャル、キングはBUCCANEER実施を前提に議論を展開してルーズベルトを補佐してきた為、新見政一はルーズベルトの専断的な決定例と説明している。

1944年(昭和19年)1月に米国幕僚長会議はTARZAN作戦自体も渋々取り下げるに至ったが、その頃にはスティルウェルは自身の成功により、米国内での声望を高め、英国側は不利な立場になった[19]

レド公路の建設計画

その後も議論は僅か数ヶ月の間に紆余曲折を辿った。テヘラン会談後の議論の焦点はスマトラでの作戦に戻った。マウントバッテンは1944年1月に新戦略を考案し、それはマクシオムと呼称された[20]。それはマッカーサーの援護であり、ビルマでの攻勢ではなく、チャーチルの支持するスマトラ作戦と同じ方向性のもので、ビルマ戦線に集積した軍事的資源を転用する内容だった。ただし、マウントバッテンはスマトラでの作戦には洋上の艦隊の支援にしか頼ることが出来ないことを理由として、敵陸上戦力の5倍の兵力を要求した。チャーチルはこの要求は過大であると考え、アメリカが太平洋で実施した島嶼上陸の事例を挙げて反論した。

また、どの作戦を実施するにせよ、シンガポールに駐留する日本艦隊に連合艦隊主力が加わった場合など、出方次第ではインド洋方面からの攻勢に必要な海軍戦力が大幅に増強を迫られる為、この点もネックになった[注釈 3]

また、米国は1943年(昭和18年)以来、B-29による中国からの日本本土戦略爆撃の計画に執着しており、援蒋ルートの増強を求め、レド公路en)の建設と作戦用燃料のパイプライン建設計画を立てた。これらの建設には毎月26000トンの資材と43000人の人員を必要とした。インド北東部での準備はインド司令部の後援により1943年11月に開始されたが、本格的な着工には米国の熟練した土木労働者が必要であり、1944年(昭和19年)1月の開始であった。米軍の求めに応じ、最初の計画では、1944年(昭和19年)11月までに昆明まで一方通行、1945年3月までには両面通行可能なものとするとされ、パイプラインは1944年11月までには完成して、1945年(昭和20年)7月までに全能力を発揮可能なレベルに整備されることになっていた。しかし、東南アジア作戦の規模が縮小決定されたことと予期しない工事遅延により、昆明までの公路完成の予定は一方通行が1946年(昭和21年)1月、両面通行が1946年(昭和21年)6月とされた。なお、公路での輸送力は一方通行で毎月8000トン、両面通行で20000-30000トンと見積もられていた[注釈 4]。パイプラインは1946年(昭和21年)4月より送油を開始して、10月に全能力に達するとされ、その量は開始時13000トン、全能力で6万3000トンと見積もられた。このような遅延があっては実用上の役には立たないため、マウントバッテンは空輸の強化を勧告した。公路の建設を中止すれば、ビルマ北部の広大な領域を奪回する必要性も無くなるという計算もあった[22]

評価の修正

米国幕僚長会議はマウントバッテンが1月に提出した新作戦計画によりビルマ北部戦域の優先度が引き下げられることを危惧し、1944年(昭和19年)2月17日に、英国幕僚長会議に北部作戦の再開を要求した。元々ビルマでの攻勢に消極的な英国幕僚長会議は、マウントバッテンの意見があるまで回答を差し控えたが、その回答を要約すると

  • 既に全兵力をビルマに投入している
  • スマトラでの作戦の為の戦力は何も留保していない
  • 従って米国の目標を達成することは出来ない
  • 米国幕僚長会議はスティルウェルに引きずられている可能性があるのでマーシャル参謀総長による保証が必要

というものだった。

なおルーズベルトも米国幕僚長会議同様にミイトキイナの占領要求をチャーチルに打電したが、チャーチルは欧州戦終結前の実施は不可という従来の回答を繰り返した。

1944年3月になると、アラカンおよびフーコン峡谷で日本陸軍を撃破したことで、連合国側での日本軍に対する評価は下方修正された。その顕著な例は3月21日の米国幕僚長会議決定で、英国側に北部ビルマでの活発な作戦行動を求める内容となっている。また、太平洋方面で英艦隊の増強が不要となったことも新材料であった。

これらの情勢を勘案し、チャーチルは国内の論争を裁定するための案を出した。その内容は東洋艦隊の増強と東南アジアでの新たな攻勢計画の立案の提示が主であり、英統合計画幕僚委員会は「中間戦略」と称してこの具体化を進めようとした。オーストラリア=チモールセレベスボルネオサイゴンを軸線とし、マッカーサーの全般指揮の下その進撃を支援する内容で1944年7月頃まで議論されたが、実現には至らなかった[23]

サーズデイ作戦による兵力分散

なお、ウ号作戦が実施されようとしていた直前の3月3日、オットー・ウィンゲートの指揮する6個旅団は2度目のビルマ遠征のため空挺降下(第16旅団のみ陸路)を実施していた。この目的は、英印軍主力のビルマ進出を支援するものでも、ウ号作戦のため進出して来る敵を包囲する為のものでもなく、日本軍の第18師団、雲南方面の第56師団を孤立させ、レド公路の建設を支援する内容であった。そのため、インド最高司令部en)のクロード・オーキンレックen)将軍はこの作戦には反対であった。投入する戦力と航空機を手元に残置しておけばアラカン方面での戦力比は更に圧倒的になるからであった[24]

準備および戦場の状況

日本軍の状況

5月上旬時点での参加兵力は、第15軍の下記3個師団で計49600人、その他軍直轄部隊など36000人の総兵力約85000人であった。7月までの総兵力は、約90000人と見られる。ただし、チンドウィン川を渡河したのは2/3の約60000人に限られ、残りの人員は後方に残っていた[25]。ただ、そのうち主力の一角の第15師団は、ビルマへの到着が遅れており、迅速性が要求される本作戦成功の障害となっていた。これは、本作戦に反対する稲田南方軍総参謀副長が、同師団にタイ方面の道路整備作業などを割り当て、故意にビルマへの前進を妨げた影響であった[26]

インパール作戦には、イギリス支配下のインド独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合国軍の後方戦略を撹乱する目的が含まれていたことから、インド国民軍6000人も作戦に投入された。

長距離の遠征作戦では後方からの補給が重要であるところ、当時の第15軍は自動車輜重23個中隊、駄馬輜重12個中隊の輜重戦力を持っており、その輸送力は損耗や稼働率の低下を考慮しなかった場合、57000トンキロ程度であった。しかしながら実際に必要とされる補給量は第15軍全体において56万トンキロ程度と推計され、到底及ぶものではなかった[注釈 5]。なお、自動車中隊は、当時のビルマ方面軍全体でも30個中隊しかなかった。

この点は第15軍としても先刻承知の上であり、事前に輜重部隊の増援を要求したものの、戦局はそれを許さなかった。第15軍は150個自動車中隊の配備を求めたが、この要求はビルマ方面軍により90個中隊に削減され[28]、さらに南方軍によって内示された数に至っては26個中隊(要求量の17%)へと減らされていた。しかも、実際に増援されたのは18個中隊だけにとどまったのである。輜重兵中隊についても、第15軍の要求数に対して24%の増援しか認められなかった。第15軍参謀部は作戦を危ぶんだが、牟田口軍司令官はインパール付近の敵補給基地を早期に占領すれば心配なしと考え、作戦準備の推進につとめた[29]

連合軍の状況

一方、連合軍は第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に、約15万人がこの地域に配備されており、オード・ウィンゲート准将のコマンド旅団が、ビルマ地域の日本軍の脆弱な補給線の破壊活動の分析を行い、また、英軍は暗号解析などにより1944年2月頃までに日本軍が三方向より侵攻する攻撃計画の全容を把握していた[15]。そこで第14軍司令官スリム中将など連合軍司令部では、重火器装備をそろえた上で、空輸作戦による補給体制を確立する一方、英印軍部隊をインパールまで後退させつつ防御戦闘を行うことで後方兵站部隊の脆弱な日本軍を疲弊させ、その進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で一気に反攻に移る作戦を固めていた。

もっとも、ウィンゲート旅団参謀長だったデリク・タラク少将は、上記のインパールまでの後退が第14軍の作戦通りだったとする多数説には懐疑的である。タラクによれば、1944年2月末時点でも確固たる作戦計画が無かったのが実情だったという[注釈 6]

地理的状況

この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。

「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」[31]

このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。

参加兵力

日本軍

5月上旬時点での参加兵力は、第15軍の下記3個師団で計49600人、その他軍直轄部隊など36000人の総兵力約85000人であった。7月までの総兵力は、約90000人と見られる[25]

()内は通称号

  • 第15軍馬匹[32]
    • 軍馬12000頭(専ら物資運搬に使役)
    • ビルマ牛30000頭(物資運搬及び食用)
    • 1030頭(専ら物資運搬に使役)
    • 山羊等を食用に交付 - 第15師団だけで約10000頭

インド国民軍

  • 6000人

イギリス軍

戦闘経過

日本軍の攻勢

インパール作戦時のビルマの戦況と第15軍の作戦構想

物資の不足から[要出典]補給・増援がままならない中、3月8日、第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は1個師団(第31師団)を要衝ディマプールとインパールの結節点であるコヒマに進撃させ、残りの2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。しかし作戦が順調であったのはごく初期のみ(但しこれは連合軍側の重点防御地域でなく最初から放棄地帯とされ防御を固めたインパールへ日本軍をしむける罠)で、ジャングル地帯での作戦は困難を極めた。 牟田口が補給不足打開として考案した、山羊水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。さらに、急峻な地形は重砲などの運搬を困難にし、糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。

物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と空電文を返していたとされる。 また、この時期、日本軍に対してイギリス軍が採用した円筒陣地は、円形に構築した陣地の外周を戦車火砲で防備し、日本軍に包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支え、日本軍が得意とする夜襲、切り込みを完全に撃退した。これに加え、イギリス軍は迫撃砲機関銃で激しく抵抗したため、あまりの防御の頑強さに、インパール急襲を目的とした軽装備(乙装備)中心の日本軍は歯が立たず、この円筒陣地を「蜂の巣陣地」と呼んだ。皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資(「チャーチル給与」と呼ばれた)を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だった。

日本軍の攻勢に対して連合軍は、このころまでに確保しつつあったビルマでの制空権を存分に活用して対応した。連合軍航空部隊はイギリス軍第4軍団に近接支援を行う一方、日本軍の集結地点のほか、チンドウィン川に至る交通路を攻撃したが、雨季の到来もこうした作戦行動に影響を及ぼさなかった。また、連合軍は米英両軍のC-47を中心とする輸送機を動員して大量の人員や物資をインパールまで空輸したため、陸路で遮断されていたにもかかわらず補給線はかろうじて確保されていた。戦闘開始当初は、ビルマ戦線にあった連合軍輸送機の多くは援蒋ルートの中でもヒマラヤ山脈を越えて援助物資を輸送する「ハンプ越え」(en:The Hump) に使用されており、しかもウィンゲート空挺団やアラカン方面の第15軍団の支援にも駆り出され、輸送機が不足した。苦心の末に3月中旬からハンプ越え用輸送機のうち20機を抽出してインパールへの空輸に振り向けたが、なおも不足した。パレル飛行場が酷使による滑走路破損や日本軍のコマンド攻撃で使用不能になったため、インパールの仮設滑走路が頼みの綱であった。第4軍団は食糧を定量の2/3に減らし、インパールに残っていた非戦闘員43000人を空路で脱出させるなどしてしのいだ。その後、イギリス空軍の輸送司令部の改編が効果を上げたことで、第4軍団への補給不足は解消された[33]

戦線の膠着

RAFホーカー ハリケーンによる日本軍への攻撃

4月に入って雨季が始まり、補給線が伸びきる中で、空陸からイギリス軍の強力な反攻が始まると、前線では補給を断たれて飢える兵が続出、極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態に陥った。また、飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、マラリアに感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍には、年間降水量が9000mmにも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は、著しい損耗を強いるものであった。しかし、牟田口は4月29日の天長節までにインパールを陥落させることにこだわり、

  1. 天長節マデニインパールヲ攻略セントス。
  2. 宮崎繁三郎少将ノ指揮スル山砲大隊ト歩兵3個大隊ヲインパール正面ニ転進セシム。
  3. 兵力ノ移動ハ捕獲シタ自動車ニヨルベシ。

と、作戦続行を前線部隊に命令した。しかし、この頃では、各師団は多数の戦病者を後送出来ないまま本部に抱えており、肥大化する戦病者と、欠乏した補給に次第に身動きが取れなくなっていた。中には武器弾薬が尽きて石礫を投げて交戦する部隊まで出始めた。

さらにこのような戦況をよそに、司令部が400キロも遠方のメイミョウに留まっていることに対する風当たりが次第に強くなったため、牟田口はインダンジーまで15軍司令部を進出させた。

第31師団は「山を越えてやってくるのは一個連隊が限度」と見ていたイギリス軍を一個師団丸ごとで急襲することに成功し(但し、31師団は戦力を抽出していたため二個連隊の戦力)、インパールの北の要衝コヒマを占領していた。コヒマはディマプールとインパールを結ぶ街道の屈曲点に当たる要衝で、コヒマの占領は通常ならばインパールの孤立の成功を意味するはずだが、連合軍は豊富な航空輸送能力によるインパールへの空中補給が可能だったため、効果は薄かった。

実はこの時点で、最重要援蒋ルートの1つレド公路への要衝ディマプールまで、遮る連合軍部隊が存在しない状態であったために、日本軍が前進を継続していたらディマプールは陥落していた可能性が高いと、戦後のイギリス軍の調査で結論付けたものも存在する。戦後、この調査報告を鵜呑みにした牟田口中将は、自身の正しさを証明したお墨付きがでたかのように喜び、作戦失敗が部下の独断撤退のせいだと責任転嫁する論拠の1つとした。しかしながら現実には、日本軍の補給線は伸びきっていて、前線の部隊には一粒の米、一発の弾薬も届かないような状況であった。つまり、明らかに攻撃の限界点を超えており、日本軍はディマプール攻略どころかコヒマ維持も不可能な状態だったのである(たとえ強引にディマプールを攻略したとしても、維持することは不可能だった)。

日本陸軍内の抗命事件

現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。

  1. 余は第三十一師団の将兵を救わんとする。
  2. 余は第十五軍を救わんとする。
  3. 軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。

さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため[34]、独断で更にフミネまで後退した。これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れ師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることは無かった。三師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った[35]

日本陸軍の作戦中止及び退却

6月5日、牟田口をビルマ方面軍司令官河辺正三中将がインタギーに訪ねて会談。二人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており[注釈 7]、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。この時の状況を牟田口は、「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛庁防衛研修所戦史室に対して述べている。これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。こうして作戦中止を逡巡している間にも、弾薬や食糧の尽きた前線では飢餓や病による死者が急増した。

7月3日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していた。しかし、実情は傷病者の撤収作業にあたると言え、戦闘部隊を消耗し実質的な戦力は皆無で、事実上の壊走だった。杖を突き、飯盒ひとつで歩く兵士たちは、「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」という、撤退の視察に乗馬姿で現れた牟田口の怒号にも虚ろな目を向けるだけで、ただ黙々と歩き続けた。だれも自分を省みないことを悟った牟田口は、泥まみれで悪臭を放つ兵たちを避けながら帰っていった。

7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部を集め、泣きながら次のように訓示した。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」[37]

退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリア赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様を、日本兵は「白骨街道」若しくは「靖国街道」と呼んだと三村秀氏は主張している。イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。伝染病に罹患した餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、集団感染を恐れたイギリス軍が、生死を問わずガソリンをかけて焼却した。この悲惨な退却戦の中で、第31歩兵団長宮崎繁三郎少将は、佐藤の命令で配下の歩兵第58連隊を率いて殿軍を務め、少ない野砲をせわしなく移動し、優勢な火砲があるかのように見せかけるなど、巧みな後退戦術でイギリス軍の追撃を抑え続け、味方に撤退する時間をいくらか与えることに成功した。また、宮崎は脱落した負傷者を見捨てず収容に努め、最悪の戦場の中でも最善を尽くし多くの将兵の命を救った。

牟田口ら第15軍司令部は、指揮下の部隊の撤退に先行する形でチンドウィン川を渡って、シュエジンへと移動した。さらに牟田口は、7月28日ころに副官のみを伴って司令部を離れ、さらに後方のシュエボへと向かった。牟田口によれば、シュエボへの先行は同地にいた方面軍兵站監の高田清秀少将との撤退中の食糧補給に関する打ち合わせのためであった。しかし、部下よりも先に後退するこの行為は将兵の強い不満を招き、河辺方面軍司令官も牟田口らを非難した。牟田口は、その後、8月4日頃にシュエボ北西で軍主力の退路に予定されたピンレブ付近を視察、シュエジンに戻る途中でシュエボまで後退中の第15軍司令部に出会い合流した[38]

一方、イギリス軍は、第33軍団を投入して追撃戦を行った。雨期に入っていたため、イギリス軍もマラリアなどの戦病者が多発する結果となった。イギリス側は、追撃を強行したからこそ日本軍の再建を有効に阻止することができたと自己評価している。

8月30日に牟田口軍司令官と河辺方面軍司令官はそろって解任され、東京へ呼び戻された。

日本軍の苦戦の様相

優位に立つ連合軍は日本軍陣地に対し間断なく空爆と砲撃を繰り返した、兵士達は生き残るために蛸壺塹壕にずっと潜り込んでいるしかなく、反撃などは夢の又夢であった。そのような状況下で雨季が到来すると、塹壕は水浸しになった、塹壕構築のための資材など満足に支給されるはずも無く、ありあわせの道具や素手で各自が掘った塹壕では排水溝の設備など望むべくもなかったからである。砲撃のため水浸しの塹壕から抜け出ることができず、ずっと水に浸かっていたために皮膚が膨れ、損壊する兵士が続出した。(塹壕足)

日本軍の伝統として補給が軽視されており河舟、車両等機械力による大量補給は殆ど行われなかった、偶さかそのような手段が確保されたとしても「食糧よりも武器弾薬」という方針により餓死寸前の前線に食糧が届けられることは乏しく、糧食は集積所に放置され腐るに任されたとされる。そのため前線の兵士は「食うに糧なく、撃つに弾なし」という、もはや戦闘どころではない状態に置かれた。ある部隊では、野砲はあっても砲弾の割り当ては一日にたった2発だったという。また第15師団の生存者が証言するところによれば、弾薬が尽きた部隊は投石で抵抗するしかなくなっていた。

作戦梃子入れのため、弓師団に着任した田中信男少将は早速配下部隊を視察した、しかし、ある中隊長の軍刀を抜くと真っ赤にびていた。彼は中隊長を叱責し、その場にいた全将校の軍刀の検査を行ったところ、ほぼ全員の軍刀が錆びている事が判明した。激怒した彼は、部隊長に今すぐ部下に軍刀の錆びを落とさせるよう命じた。 しかし、誰一人として軍刀を磨き錆を落とす将校はいなかったと言う。連日の豪雨と泥に浸かり続ける戦場で軍刀を維持する方法は無いと分かりきっていたからである。

航空戦

作戦を通じて航空機を投入したイギリス軍に対して、日本軍の航空支援は皆無だった。「制空権がなく航空作戦は無理」という陸軍第5飛行師団に対して、牟田口が「それならばチンドウィン渡河まででよい」と、むしろ支援を断る結果になったためである。

しかし、作戦中補給を求めても、空返事しか返さない牟田口に業を煮やした各師団は、指揮命令系統を超えて第5飛行師団に窮状を訴えた。第5飛行師団もそれに応じて、敵制空権下を突破して手持ちの食料医薬品を投下したが、襲撃機の武装を外しても輸送できる物資はわずかであり、全くの焼け石に水だったという。

両軍の馬匹運用

本作戦に第15師団に陸軍獣医(尉官)として従軍した田部幸雄は、英印軍の軍馬の使用について次のように分析している。日本軍は平地、山地を問わず軍馬に依存した。作戦期間中の日本軍馬の平均生存日数は下記。日本軍の軍馬で生きて再度チドウィン川を渡り攻勢発起点まで後退出来たものは数頭に過ぎなかったと言う。

  • 騾馬:73日
  • 中国馬:68日
  • 日本馬:55日
  • ビルマポニー:43日

これに対して英印軍の場合、途中の目的地までは自動車で戦略物資を運搬し、軍馬は裸で連行した。自動車の運用が困難な山岳地帯に入って初めて駄載に切り替えて使用していたという。また使用していた軍馬も体格の大きなインド系の騾馬だった。これらの騾馬は現地の気候風土に適応していた。なお、田部は中支に派遣されていた頃、騾馬は山砲駄馬としての価値を上司に報告した経験があったと言う[32]

結果

本作戦は参加した日本陸軍部隊・インド国民軍に多大な損害を出して、7月1日に中止された。日本陸軍の損害は、『戦史叢書』によれば、戦死者が第15軍の主力3個師団で計11400人・戦病死者が7800人・行方不明者1100人以上(計20300人以上)にのぼり、そのほか第15師団だけで3700人の戦病者が発生した[25]。別の説によれば参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り(そのほとんどが餓死者であった)、戦病者は4万人以上ともいう[要出典]。インド国民軍も、参加兵力6000人のうちチンドウィン河まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)で、その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害を受けて壊滅した。

一方、イギリス軍の人的損害は、ルイ・アレンの調査によれば前哨戦で920人・コヒマ周辺で4064人・インパール周辺で12603人の計約17500人の戦死傷者が出た[1]。また、作戦末期に日本軍を追撃した第33軍団は、7月から11月まで週平均兵力88500人が投入されたうち、戦死者はわずか49人であったが、2万人を超えるマラリア患者を中心に47000人の戦病者が発生し、死傷病者は総計50300人にも上る容易ならざる損害を受けた[2]。『戦史叢書』はスリムの回顧録『敗北から勝利へ』による数字として、作戦期間中の英印軍の死者15000人および戦傷者25000人という値を挙げている[25]

この作戦失敗により、英印軍に対し互角の形勢にあった日本軍のビルマ=ベンガル湾戦線は崩壊、続くイラワジ会戦ではイギリス軍の攻勢の前に敗北を喫する。翌1945年(昭和20年)3月には、アウン・サン将軍率いるビルマ国民軍が連合軍側へと離反し、結果として日本軍がビルマを失陥する原因となった。

本作戦を特集したTV特番『NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 ~ビルマ・インパール~』(1993年6月13日放送)では「一将功成らずして万骨枯る[注釈 8]」とこの作戦を総括した。

戦後、インパールのあるマニプール州などのインド東北部は、隣接するナガランド州などの分離独立運動による政情不安のため、インド政府は外国人の立ち入りを規制、このため現在に至るも遺骨収集などは遅々として進んでおらず、日本政府がインド政府の協力の下、インパール近郊のロトパチン村に慰霊碑を建立したのは1994年(平成6年)のことである。

日本軍敗北の責任

インパール作戦の失敗後、日本陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した[39]。牟田口第15軍司令官も軍司令官を解任され、予備役に編入される懲罰人事を受けた[39]。独断撤退を行った佐藤中将は作戦当時「心身喪失」であったと言う診断が下され、軍法会議で刑事責任を追求されることなく、やはり予備役編入とされた。佐藤中将自身は軍法会議で撤退の是非を論じることを望んでいたが、河辺方面軍司令官は、親補職の師団長を軍法会議にかけるには天皇の親裁を要することから、不祥事が重大化することを懸念して軍法会議を回避した[40]責を問う軍法会議が開催されることで、軍法会議の場で撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかにされることと、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避したとも言われる[要出典]。河辺中将は方面軍司令官を退いたものの、翌1945年3月に大将に昇進し、終戦時には第1総軍司令官の要職にあった。

戦後、日本軍敗北の責任は主に牟田口にあるとする評価が支配的である[41]戦時中からも、戦病死した山内正文師団長は、死の床で「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語っていた[要出典]。この点、伊藤正徳は、牟田口が作戦の主唱者であった以上は責任甚大であるのは当然としたうえで、牟田口一人に罪を着せるのは不公平であると述べる。仮に牟田口が暴走したのだとしても、これを断固として押さえつけるのが上層部の責務であって、インパール作戦の無謀の責任は牟田口と大本営が少なくとも五分と五分[42]、あるいは引きずられた上司の罪をさらに重いものと見るのが公平であると評している[43]

また、戸部良一は、『失敗の本質』において、インパール作戦でずさんな計画が実行された原因について、牟田口軍司令官や河辺方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、より重要なのは「人情」という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にあると主張している[44]

関連人物

  • 塚本幸一 - ワコール創業者。第15師団歩兵第60連隊に所属。当作戦の従軍体験を著書や講演で語っていた。
  • 片倉衷 - 緬甸方面軍作戦課長、作戦中第33軍参謀長に異動。戦後遺骨収集に尽力。
  • 野中国男 - 第31師団後方主任参謀。戦後収容所にて回顧録『その日その後』を執筆。補給不備については悔いていた。1947年、失意の中謎の自殺を遂げる。
  • 美倉重夫 - 本作戦に従軍。1988年より日置川町町長を務めた。同町に出来した原発誘致問題において反対の姿勢をとり、中止への原動力となったが、その根本には本作戦での体験が影響している[45]
  • 阪崎利一 - 日本高等獣医学校卒業後応召により本作戦に従軍。戦後は食中毒の研究に当たり、赤痢についても実績を残す[46]
  • 長谷川毬子 - 漫画家・長谷川町子の姉。結婚直後に夫が応召されて本作戦に従軍、戦死した[47]
  • 吉原正喜 - プロ野球選手(巨人)。当作戦に従軍中に戦死。
  • 川崎徳次 - プロ野球選手(南海)。当作戦に従軍し捕虜になるも復員。戦後は巨人、西鉄で活躍。

脚注

注釈

  1. ^ 2つの作戦を比較と言う表現は新見政一の表現に倣った記述だが、カイロ会談ではチンドウィン川渡河作戦に関する議論も英中間で行われている。
  2. ^ 1944年6月初頭に実施された。会談当時は1944年5月予定だったがこれを一ヶ月延期するかが問題になっていた。
  3. ^ 日本艦隊の動静分析については例えば2月24日、戦艦7、空母2、巡洋艦8、駆逐艦18の大部隊がシンガポールに向かっているという報告で混乱したことがある。トラック島空襲による部隊の後退であり、同港の修理能力やリンガ泊地の活用をしただけという正確な分析結果もあったが、英国側は確証を持てなかった。動機が何であれ、能力においてベンガル湾に進出可能な優勢な敵艦隊が出現したことは疑いの余地がなかったからである[21]
  4. ^ 参考として1944年(昭和19年)初頭、空輸による中国への補給量は毎月13000トン前後だった
  5. ^ 第31師団後方担当参謀であった小口徳二の述べた見解[27]。ただし時代背景を考慮すれば、かなり潤沢な場合を見積もったものである。
  6. ^ タラク少将は、コヒマやディマプール、インパールの防備は手薄で、インパールへの食糧の集積も不十分、アラカン方面に5個師団が釘付けにされていたことを挙げ、仮にインパールへの誘致作戦を考えていたとしても、実際には何の役にも立っていないと評している[30]
  7. ^ 牟田口は戦後連合軍の尋問に対して4月末に失敗を悟ったと語り、河辺は自身の日記の中で、4月中旬には失敗を悟ったと記している[36]
  8. ^ 「一将功成りて万骨枯る」のもじり。

出典

  1. ^ a b アレン(1995年)下巻、付録3頁。
  2. ^ a b アレン(1995年)中巻、275頁。
  3. ^ a b c d 戸部(1991年)、142-143頁。
  4. ^ a b 戸部(1991年)、147-148頁。
  5. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、89-91頁;戸部(1991年)、149頁。
  6. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、95-101頁;戸部(1991年)、150-152頁。
  7. ^ a b 戸部(1991年)、153頁。
  8. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、105-106頁。
  9. ^ a b 戸部(1991年)、158頁。
  10. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、106-111頁。
  11. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、115頁;戸部(1991年)、157頁。
  12. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、123頁。
  13. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、126頁。
  14. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13071053700 大陸指第1776号 大陸指(案) ウ号作戦二関スル件 昭和19年1月7日 (防衛省防衛研究所)
  15. ^ a b c 英国の姿勢転換、マウントバッテンへの命令、日本側の侵攻作戦把握については、荒川(2003年)、151頁。
  16. ^ 新見(1984年)、432-433頁。
  17. ^ 新見(1984年)、454-457頁。
  18. ^ カイロ会談、スマトラ、アンダマン両作戦については、新見(1984年)、458-467頁。
  19. ^ TARZAN取り下げについては、新見(1984年)、484-485頁。
  20. ^ アレン(1995年)中巻、178-179頁。
  21. ^ 新見(1984年)、480頁。
  22. ^ レド公路とパイプラインについては、新見(1984年)、475-476、485-486頁。
  23. ^ 新見(1984年)、「極東戦略に関する英国首相(戦争内閣)と英国幕僚長会議の間の意見対立」。
  24. ^ アレン(1995年)中巻、172-174頁。
  25. ^ a b c d e f g 『戦史叢書 イラワジ会戦』、209-212頁。
  26. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、184-185頁。
  27. ^ NHK取材班(1993年)、72頁以降。
  28. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、116頁。
  29. ^ 『戦史叢書 インパール作戦』、189-192頁。
  30. ^ タラク(1978年)、218-219頁。
  31. ^ 『陸戦史集 インパール作戦 上巻』、166-167頁。
  32. ^ a b 田部幸雄「インパール作戦で全滅した第15軍の軍馬12,000頭の悲劇」『獣医畜産新報』1977年6月
  33. ^ アレン(1995年)中巻、70-72頁。
  34. ^ 『責任なき戦場』、200頁。
  35. ^ 『責任なき戦場』、207頁。
  36. ^ 『責任なき戦場』、214頁。
  37. ^ 『責任なき戦場』、206頁。
  38. ^ 『戦史叢書 イラワジ会戦』、135-137頁。
  39. ^ a b 伊藤(1973年)、197頁。
  40. ^ 伊藤(1973年)、186-187頁。
  41. ^ 伊藤(1973年)、99頁。
  42. ^ 伊藤(1973年)、199頁。
  43. ^ 伊藤(1973年)、207頁。
  44. ^ 戸部(1991年)、176-177頁。
  45. ^ 「美倉重夫さん=反原発を訴え和歌山県日置川町長に初当選」『毎日新聞』1988年7月4日東京朝刊3面
  46. ^ 「この人=野口英世記念医学賞を受賞した日本生物科学研究所主任研究員 阪崎利一さん」『産経新聞』1998年11月13日朝刊3面
  47. ^ 『サザエさんうちあけ話』ISBN 4784480013 参照。作内では「玉砕した」の記載がある。

参考文献

  • 荒川憲一日本の戦争指導におけるビルマ戦線―インパール作戦を中心に(PDF形式)」『平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書』 防衛庁防衛研究所、2003年。
  • 伊藤正徳 『帝国陸軍の最後 3―死闘編』 角川書店、1973年
  • 大田嘉弘 『インパール作戦』 ジャパンミリタリーレビュー、2009年ISBN 9784880500089
  • 戸部良一ほか 『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』 中央公論社、1991年ISBN 9784122018334
  • NHK取材班(編)『ドキュメント太平洋戦争 4 責任なき戦場』 角川書店、1993年。
  • 陸戦史研究普及会編(吉川正治執筆) 『陸戦史集 インパール作戦 上巻』 原書房、1969年
  • 陸戦史研究普及会編(吉川正治執筆) 『陸戦史集 インパール作戦 下巻』 原書房、1970年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 (不破博(元ビルマ方面軍作戦参謀)執筆) 『戦史叢書 インパール作戦』 朝雲新聞社、1968年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 イラワジ会戦』 朝雲新聞社、1969年
  • 新見政一 『第二次世界大戦戦争指導史』 原書房、1984年
  • デリク・タラク(著)、小城正(訳) 『ウィンゲート空挺団』 早川書房、1978年
  • ルイ・アレン 『ビルマ 遠い戦場』(上・中・下) 原書房、1995年。
    • (原書)Allen, Louis. Burma: The longest War. Dent Publishing, 1984. ISBN 0-460-02474-4.

関連書籍

  • 高木俊朗 『インパール』 文春文庫、1975年。
  • 同上 『抗命―インパール 2』 同上、1976年。
  • 同上 『全滅―インパール 3』 同上、1987年。
  • 同上 『憤死―インパール 4』 同上、1988年。
  • 同上 『戦死―インパール牽制作戦』 同上、1984年。
  • 丸山静雄 『インパール作戦従軍記』 岩波書店〈岩波新書〉、1984年。
  • 山岡荘八 『小説 太平洋戦争』 講談社、1965-1971年。

関連項目

外部リンク