啓徳空港

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

香港啓徳國際機場
香港啓徳國際機場
IATAHKGICAOVHHH
概要
国・地域 香港 香港
設置場所 九龍城区
空港種別 民間
運営者 香港民航處
標高 9 m・28 ft
位置 22°20′″N, 114°11′″E
滑走路
方向 ILS 全長×全幅(m) 表面
13/31 13(IGS)/31 3,390×? 舗装
リスト
国際空港の一覧日本の空港
啓徳空港
繁体字: 啟德機場
簡体字: 启德机场
英語
英語: Kai Tak Airport

香港啓徳国際空港(ほんこんカイタックこくさいくうこう)は、1925年1月24日から1998年7月5日にかけて香港九龍ビクトリア・ハーバーに面した九龍城区、九龍半島の北東端にあった国際空港。1996年の統計は乗降客数 2,950 万人、貨物 1.56 トン。

正式な名称は「香港国際機場」だったが(後述)、所在地付近の地名から「啓徳機場」と通称された。日本語では、広東語読みとそれから音写されたアルファベット表記から「カイタック」または「カイタク」と読まれることが多かったが、日本語の音読みで「けいとく」とも読まれることもあった。

目次

[編集] 沿革

[編集] いきさつ

「啓徳」という地名の由来は、何啓と區德が経営した「啓德営業有限公司」が、当時イギリス植民地であった香港のビクトリア・ハーバーに面した九龍湾北岸の辺りを埋めたことから、新しくできた土地が、2人の名前であり会社名でもある「啓徳濱」と名づけられた。

のちにアメリカ人のハリー・アボットが航空学校を設立するため、啓徳濱の一部を貸し滑走路を作ったが、間もなく閉鎖された。1927年3月啓徳濱は香港政府に徴用され、新しいイギリス軍用の空港として生まれ変わり、1937年には軍民両用の空港となった。これが「啓徳空港」である。

[編集] 拡張

第二次世界大戦後間もない頃の啓徳濱(1946年)
廃港を間近にひかえた啓徳空港(1998年)

1941年12月8日太平洋戦争大東亜戦争)開始に伴い、日本軍がイギリスの植民地である香港に侵攻、その際空港は猛烈な爆撃を受け、空港内にあったイギリス軍の航空機や施設がほとんど破壊された。同年12月25日に香港は陥落し、日本軍が占領した。

1942年3月日本軍は数千人を動員し、周辺の村々に加え、宋王台などの文化財、さらに九龍城砦の城壁などを取り壊し、そこから得た石材で滑走路の延長など設備の充実が図られたが、1945年に入ると連合国の反撃により空港は再び爆撃を受け、甚大な被害を受けた。

[編集] 戦後

第二次世界大戦後、再びイギリスの植民地となった香港の政府は空港を修復するため、取り壊された宋王台の跡地をそのまま利用した。現在空港跡地の近くにある宋王台の石碑は実はレプリカで、大きさは実物の三分の一に過ぎない。その後1950年代ジェット機の就航などに伴い滑走路が延長されるなど、設備の充実が継続して行われ、1962年に正式名称が香港国際空港香港國際機場Hong Kong International Airport)となった。

しかし1960年代に入り、アジア諸国の経済発展を受けて乗り入れ航空会社、便数ともに増加し、それに伴い発着回数が増加するにつれて、滑走路が1本しか存在し無い事や、旅客数、貨物取り扱い量の増加による、ターミナルの狭さ、スポットの少なさが問題となっていった。

[編集] 廃港

これを受けて、1970年代に入り新空港の必要性が叫ばれ、1984年に香港の中華人民共和国への移譲、返還が決まると、ランタオ島北側の赤鱲角(Chek Lap Kok、チェク・ラプ・コック)に新空港の建設が開始された。

1997年の香港の中華人民共和国への移譲、返還の翌年の1998年に、ランタオ島北側の赤鱲角に新しい香港国際空港が完成、7月6日開港が決定したのをうけて、啓徳空港は7月5日の最終便をもって閉鎖された。啓徳空港に割り当てられていたIATA空港コードのHKGとICAO空港コードのVHHHは新空港に引き継がれた。

[編集] 閉港後の変化

閉港後の跡地(2007年11月)

閉港後、ターミナルビルは取り壊されずに残され、香港政庁の合同庁舎(啓德政府大樓・Kai Tak Government Building)として、従前の設備を利用して税関や入国管理当局の訓練所などとして利用された。空港の閉鎖後、建物が取り壊されるまでに、滑走路はBEYOND張惠妹などの大型コンサートに数回使用された。

この他、出発ターミナルだった場所にはゲームセンターや屋内ゴーカート乗り場などのアミューズメント施設も入居していたが、2004年9月頃から始まった工事により、現在では取り壊されてしまった。空港の跡地には、公園およびショッピングセンター、高層アパート、オフィスなどが建設される予定で、現在では再開発が進み滑走路跡地は大量の土が盛ってある。

市街地の上空を飛行機が通過する都合上、空港周辺ではビルの高さに制限が設けられていた。空港に近づくにつれて低いビルしか建てられないというものだったが、空港が無くなった現在はその規制も撤廃された。そのため、例えば高級住宅地の九龍塘では、従来12階建て相当の高さに規制されていたが、現在ではその内の数軒が30階建て程度のマンションに建て替えられるなど、景観に変化が出始めている。また、空港に誘導するための着陸誘導灯が無くなったため、市街地でのネオンサインの点滅が解禁となった。

[編集] 施設

[編集] 旅客ターミナル

旅客ターミナル

開港後数回に渡り増改築を繰り返し、最終的に8つのゲートを持つ旅客ターミナルへと進化した。しかし、乗り入れ便数に対してボーディングブリッジの数か少なく、多くの便が航空機との間のバスでの移動を余儀なくされていた。

なお、旅客ターミナル内には数多くのレストランやみやげ物店があり、発着エリア内には免税店や土産物店、航空会社ラウンジなどがあった他、旅客ターミナルに直結して「リーガル・エアポート・ホテル」(現在は「リーガル・オリエンタル・ホテル」と改名)があった。

[編集] その他

貨物ターミナルが旅客ターミナルと離れて置かれていた他、空港内の整備エリアには、当時主にキャセイパシフィック航空の整備を行っていた「香港エアクラフト・エンジニアリング(HAECO、中国語:香港飛機工程)」社のハンガーが置かれていた。

[編集] 香港アプローチ/カーブ

啓徳空港見取り図

啓徳空港は、滑走路13への着陸進入の際大きく機体を傾けつつ九龍仔公園上空近辺で機体を右旋回させ、ビル群すれすれの高さを飛行して着陸する「香港アプローチ(香港カーブ)」で有名だった。香港アプローチは、香港を訪れる観光客や航空ファンにとっては必見で、香港名物のひとつとなっていた。

しかし香港アプローチは、旋回する着陸進入の直前にILSを解除しなければならないため、飛行すべき場所の目安としてビルの屋上などに取り付けられたチェッカーボードを頼りにするという、パイロットにとっては相当な技量が要求されるものだった。

滑走路13への進入は詳しくは一旦西側に迂回して現在の新空港上空あたりで約180度右旋回し、旧空港の西側から東に向かって進入し、この際本来なら空港の滑走路延長上から射出されている誘導電波ILSに従って進入するが、旧空港は滑走路に対し48度オフセットで設定されて射出されている誘導電波IGSに従い一旦進入し、空港から約5マイルに設定されたミドルマーカを通過後に大きく右旋回させ、地上に見える進入路指示灯の指示に従い滑走路へ進入する方式が多用された。

この滑走路13への最終進入態勢である香港カーブはパイロットの技量が問われ、香港を拠点としていたキャセイパシフィック航空のパイロットは旋回後の滑走路までの進入態勢時の直線飛行距離を稼ぐ為、ギリギリまで直進し、旋回角度を大きくして一気に変針するパイロットが多かった。逆に慣れていないパイロットは小刻みに変針して滑走路に降りる寸前まで機体の進路が定まらなくなりがちで、同時に乗り心地も揺れが大きく良くなく、接地地点が遠くなり着陸滑走する距離が短くなってしまったりすることもあった。さらに過密空港だったため、接地後航空管制官からすぐ誘導路へ待避指示が出ることが多く、着陸後ブレーキの急制動を掛ける。このことがパイロットの負担に拍車をかけていたことは想像に難くない。

それゆえ、着陸進入に失敗してゴーアラウンドしたり、着陸過走して滑走路先の海中に突っ込んだり、尻もち着陸をしたり、エンジンを地面に接触させたりするトラブルが多かった。

[編集] 主な事故

香港アプローチ/カーブのためもあり、滑走路をオーバーランして中に突入したり、着陸時にしりもちを起こすなどの小さな事故は多かったものの、パイロットが緊張するためか、着陸に失敗し市街地に突っ込むような事故は皆無であった。

また当時は、着陸誘導灯と誤認しないために、香港内の全てのネオンサインは点滅させてはいけない決まりになっていた(着陸誘導灯は、空港とは無関係の一般のビルの屋上に設置されていた)。

[編集] 乗り入れ航空会社(一部)

[編集] ハブを置いていた会社

[編集] 乗り入れていた航空会社

[編集] 北米・日本からの経由地として運航していた航空会社

日本航空のダグラスDC-8は南回りヨーロッパ線のみならず、東南アジアやオセアニア線への接続に多く使用した
ブリティッシュ・エアウェイズ ボーイング747の香港路線のウエイトは高かった。画像は-400
マレーシア航空はDC-10を主軸として台北・香港経由便として活躍した
エールフランス航空747-200Bも香港経由便を飛ばしていた
シンガポール航空はボーイング707から747-300「ビッグトップ」にかけて香港経由便をとばしていた
ルフトハンザ・ドイツ航空DC-10、ボーイング707から747-200Bに大 型化されても-400化されるまで香港路線で活用されていた。

かつての日本-香港路線は、ヨーロッパ路線として一般的であった南回りヨーロッパ線の寄港地として香港を選択していたため、ヨーロッパの航空会社の運航が圧倒的に多く、1980年代まで香港路線こそが花形時代の一つでもあった。特に、世界一周便の一部としても運航していた英国海外航空(後のブリティッシュエアウエイズ)は、香港がイギリス領で、オセアニアにおけるイギリス連邦の主要国であるオーストラリアとの中継地点であったという事もあって便数が多かった。

また、古くから日本路線を運航していたスイス航空やスカンジナビア航空、ルフトハンザ・ドイツ航空やエールフランス航空、さらにはアリタリア航空などは、東京-香港間のみの区間利用者も利用する事が出来、ボーイング747が登場した後も離陸重量や航続距離が比較的短かった理由などから座席提供面での利用客も多かった。さらに、アメリカパンアメリカン航空やその路線を引き継いだユナイテッド航空、さらにノースウエスト航空や、カナダカナダ太平洋航空も、以遠権を利用して、日本経由で香港まで運航していた。また日本航空においても、自国日本経由で便名を変えずに香港-サンフランシスコ路線を運航していた。

一方、アジアの航空会社も機材(ダグラスDC-6などのプロペラ機や、ボーイング707及びダグラスDC-8が主流だった時代)及び航続距離の関係から香港経由便が多かった。

しかしながら、ボーイング747-400を契機とする航続距離の長い旅客機の登場や、ソビエト(シベリア)上空の開放による直行便の増加により南回り便が廃止されてゆくのに伴い、啓徳空港が廃港になる頃には、日本-香港路線からヨーロッパの航空会社は姿を消した。また、アジアの航空会社の路線においても、直行便が主流になるに従い、香港経由便は減少していったが、アメリカの航空会社2社とエア・インディアなどが運航する路線については、最後まで運航が続けられた。

詳しくはヨーロッパ航空航路 #南回りヨーロッパ線を参照。


[編集] 注脚


[編集] 外部サイト

ウィキメディア・コモンズ

香港アプローチの模様: