英国海外航空

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英国海外航空
British Overseas Airways Corporation
IATA
BA
ICAO
BA
コールサイン
Speedbird
Boac logo.png
設立日 1939年11月24日
ハブ空港 ヒースロー国際空港
焦点空港 ヒースロー国際空港アイドルワイルド国際空港
保有機材数 68機(1972年3月)
本拠地 イギリスの旗 イギリスロンドン

英国海外航空(えいこくかいがいこうくう、英語: British Overseas Airways Corporation 略称:BOAC)は、イギリスに存在した国営航空会社で、現在のブリティッシュ・エアウェイズの前身の会社である。

歴史[編集]

植民地支配の道具[編集]

ジブラルタル空港に駐機するダグラスDC-3
香港啓徳空港に駐機するダグラスDC-4
デ・ハビランド DH.106 コメットI
BOACキュナードのビッカースVC-10
BOAC塗装のロゴだけをブリティッシュ・エアウェイズに変えたボーイング747

第二次世界大戦の開戦直後の1939年11月に、戦時体制突入を受けたイギリス政府の民間航空政策によってインペリアル航空とブリティッシュ・エアウェイズ(現在の同名の会社とは別会社)が合併して、イギリス領インド帝国や香港シンガポールなどの極東に点在するイギリスの植民地オーストラリアなどのイギリス連邦諸国、北アメリカ路線向けの航空会社として作られ、戦時体制下におけるイギリスの植民地支配の道具として機能することになった。

設立当初はダグラスDC-3などの陸上機のみならず、サザンプトン飛行艇用空港を拠点地として、ショート・サンダーランドやショート・エンパイアなどの飛行艇も多く運航していた。

大戦時[編集]

その後の戦闘区域の拡大などを受けて多くの機体がイギリス空軍に徴用されることとなったが、ダグラスDC-3などにより、イギリス本土より中立国であるポルトガルリスボンや植民地のジブラルタルへの直行便を運航していた他、イギリス本土とイギリス連邦諸国間を結ぶ路線などを運航していた。しかし間もなく、ヨーロッパ大陸の多くが敵国であるドイツ軍占領下に置かれたため、その路線網は大幅な縮小と迂回を余儀なくされた。

さらに1941年12月の日本とイギリスとの間の開戦以降は、アジア各地のイギリス軍が次々に日本軍に敗北した結果、シンガポールをはじめとしたマレー半島一帯やビルマ、香港をはじめとするアジアにおけるイギリスの植民地の多くが日本軍の占領下となった上に、オーストラリア北部も日本軍の爆撃を頻繁に受けるような状況に陥ったため、イギリス領インド帝国とオーストラリア、香港をシンガポール経由で結ぶ路線の運航も休止に追い込まれた。

また、本国から切り離されオーストラリア北部やアフリカ北部などの戦闘区域を運航していた所有機が、大日本帝国海軍機やドイツ空軍機により撃墜、地上破壊されている。

分割と再統一[編集]

第二次世界大戦終結後の1946年に、BOACのヨーロッパ域内国際線と国内線はブリティッシュ・ヨーロピアン航空(BEA、英国欧州航空と訳されることもある)に、南アメリカとイギリスの植民地も多いカリブ海域路線はブリティッシュ・サウスアメリカン航空(BSAA)に割り当てられることとなった。

その後1948年には、イギリスの植民地支配を脱して独立したインドを経由して、大戦後にイギリスの植民地に復帰した香港までの南回りヨーロッパ路線を延長する形で日本岩国飛行場/山口県[1])に乗り入れを開始するなど、第二次世界大戦中に枢軸国の統治下におかれていたイギリス植民地の主権回復と、イギリスの戦後の復興に合わせて路線拡張を進めた。

BSAAとの再合併[編集]

BSAAがBOACから分割されてわずか3年後の1949年7月に、BSAAはBOACに再び吸収合併されたため、再び路線網は全世界へと拡張された。1952年5月には世界初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットIをロンドン-ヨハネスブルグ線に就航させ、その後南回りヨーロッパ線で東京路線にも就航させた。

拡張[編集]

1958年には、世界の航空会社に先駆けて導入されたコメットMk.4により、初のジェット機による太平洋横断路線を運航した。またその後も、ブリストル ブリタニアヴィッカースVC-10などのイギリスの最新鋭機の導入を率先して行った。

1960年代に入ると、マレーシアケニアナイジェリアなどのアジアアフリカに点在するイギリスの植民地の多くが独立していったが、独立後もイギリス利権がそれらの地に残ることを象徴するように、その後もそれらの国々への乗り入れは継続された。

1960年代後半には、当時の最新鋭機であるコンコルドボーイング747を発注するなど(コンコルドはBEAとの合併後に納入)、最新鋭機を次々と発注するとともに、アメリカパンアメリカン航空に次いで世界一周路線を運航するなど、世界各国へとその路線網を広げて行き、パンアメリカン航空やルフトハンザ航空日本航空などと並ぶ世界を代表する航空会社として君臨した。

子会社[編集]

また、旅行ツアー客の獲得を目的に、クイーン・メリー号クイーンエリザベス2号などを運航する、当時イギリス有数の大手船舶会社であったキュナードとの合弁会社「BOACキュナード」を設立するなど、子会社の展開も行った。

消滅[編集]

その後、1971年に国会においてBEAと合併することが決定され、1974年3月31日をもってBEAと正式に合併し、「ブリティッシュ・エアウェイズ」となり「英国海外航空」の社名は消滅することとなった。

しばらくの間は英国海外航空の塗装に「ブリティッシュ・エアウェイズ」のロゴを入れただけの機体で運航されていたほか、英国海外航空のコールサイン「スピード・バード(Speed Bird)」は、ブリティッシュ・エアウェイズにそのまま引き継がれている。

主な運航機材[編集]

プロペラ機[編集]

ヒースロー国際空港に駐機する英国海外航空機
ハンドレページ・ヘルメス

ジェット機[編集]

日本における英国海外航空[編集]

ショート・サンドリンガム
DH.106 コメット Mk.4
「ロールスロイス707」

乗り入れ[編集]

第二次世界大戦後の1948年3月19日に、イギリスの南海岸のプールと香港を結ぶ路線を延長し、当時連合国軍による占領下であった日本の占領にあたっていたイギリス連邦占領軍(BCOF)への物資補給を目的に、岩国基地ショート・サンドリンガム「プリマス型」飛行艇で定期乗り入れを開始した。

なお、岩国基地を最初の定期乗り入れ地にした理由の1つに、定期乗り入れ開始に先立つ1946年3月に、イギリス連邦占領軍のセシル・バウチャー少将が、英国海外航空機の東京国際空港沖への乗り入れを連合国軍最高司令部ダグラス・マッカーサー最高司令官に求めたが、拒否されたという背景があった[2]。なお、この理由については定かではない。

コメット就航[編集]

同年11月には東京(東京国際空港)に乗り入れ地を変更し、さらに1952年には世界初のジェット旅客機であるデハビランド・DH106 コメットIによる南回りヨーロッパ線での乗り入れを開始した。なお、日本へのジェット旅客機の乗り入れはこれが初めてであったが、その後同機は設計上のミスにより乗り入れを停止してしまった。

その後、乗り入れ機材をブリストル・ブリタニアやDH.106 コメット Mk.4、ヴィッカース・VC-10、ボーイング707-420などに変更した他、世界一周路線の寄港地としての乗り入れを開始したほか、北回りヨーロッパ線での乗り入れも開始した。その後大阪国際空港にも乗り入れを開始し、1971年からはボーイング747での乗り入れも開始した。

乗り入れ引き継ぎ[編集]

1974年に路線がブリティッシュ・エアウェイズに引き継がれたものの、しばらくの間は英国海外航空の塗装にブリティッシュ・エアウェイズのロゴを入れただけの機体で運航されていた。

富士山麓墜落事故[編集]

1966年3月5日に、東京香港経由(南回りヨーロッパ線)ロンドン行き911便(ボーイング707-420)が、東京国際空港を離陸した後に富士山上空で山岳波(特殊な乱気流)に巻き込まれ空中分解し墜落、乗客乗員124人全員が死亡した。(右写真の機体が実際の墜落機。写真と墜落時の塗装が異なる)

脚注[編集]

  1. ^ 岩国市イギリス軍基地
  2. ^ 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.17 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年

関連項目[編集]