日本本土空襲

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空襲の主力となったB-29戦略爆撃機による爆弾投下
米軍の空爆予告の伝単
1945年(昭和20年)8月1日に広島や長崎その他33都市に投下された。裏面には軍施設への攻撃予告と避難指示、日本国民を軍事政権から解放する旨の文章が記載。

日本本土空襲(にっぽんほんどくうしゅう)は、太平洋戦争大東亜戦争)期、連合国軍、事実上はアメリカ軍が日本各都市に対して行った空襲戦略爆撃である。アメリカ軍による攻撃は、特に1944年昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われた。

攻撃は、B29に代表される戦略爆撃機による爆撃のみならず、機動部隊艦載機や硫黄島などから飛来する機体による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われた。また、航空戦力によってだけではなく、沿岸部の都市では艦砲射撃によっても攻撃されたところもある。

空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死傷者数は各説あるが100万とするものもあり[1]、被災人口は970万人に及んだ[2]。被災面積は約1億9,100万(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した[2]。その他、多くの国宝重要文化財が焼失した。

連合軍の戦略爆撃[編集]

ナパーム焼夷弾の開発[編集]

ドイツ軍が焼夷弾によるロンドン爆撃をおこなうと、米空軍は焼夷弾の開発にふみきり[3]、1942年には投下後ばらばらになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力をもつ小型焼夷弾M69が開発された[4]。M69を開発した国家防衛調査委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部門長でスタンダード・オイル社副社長のラッセルは「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃をおこなうべきだ」と主張した[4]

1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこさせ、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された[4]

外地台湾空襲[編集]

アメリカ軍による日本空襲以前には、日中戦争中の1938年(昭和13年)2月23日に当時は日本領外地だった台湾台北松山基地ソ連空軍志願隊中華民国空軍が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害を生じたことがあった。

1938年(昭和13年)5月20日に中国軍のB-10爆撃機が九州に侵入し、爆弾ではないが、反戦ビラを投下した。その後、日本軍は同年12月から重慶爆撃を開始した。

1943年(昭和18年)11月25日には台湾に対する新竹空襲が、1945年(昭和20年)5月31日には台北大空襲が行われた。

日本本土への初空襲 (ドーリットル空襲)[編集]

第二次世界大戦における日本本土の初空襲は1942年(昭和17年)4月18日ドーリットル空襲で、航空母艦「ホーネット」から陸上機である16機のB-25中型爆撃機を発進させ、東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などへの空爆に成功した。その後、日本軍も6月と9月にアメリカ本土空襲を行った。

B-29爆撃機による空襲[編集]

日米開戦直前、アメリカ政府はボーイング社に試験飛行もしていないB-29爆撃機を250機も発注したが、真珠湾攻撃で発注数を倍加、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め1600機の生産を命じた[4]。しかし、実現まで2年を必要とした[4]

1944年(昭和19年)6月にB-29爆撃機による初めての空襲が八幡製鉄所を目標にして中国の成都の基地から行われた(八幡空襲)。成都からの爆撃はB-29の航続距離の制約で九州北部しか爆撃できず、成都へのB-29用燃料の輸送の困難さのため出撃回数も限られていた。これらの問題を解決するためにアメリカはマリアナ諸島を攻略し、大規模な航空基地を建設した。

マリアナからの初空襲は1944年11月24日で、B-29の増強とともに大規模な日本本土爆撃へと進み、北海道を除く日本本土の大半が攻撃目標となった。空母搭載機による日本本土への攻撃も、沖縄に対する1944年10月10日の十・十空襲、1945年2月の関東地区空襲(ジャンボリー作戦)などが行われた。

1945年4月7日以降は硫黄島に配備されたアメリカ陸軍のP-51P-47などの戦闘機も空襲に参加し、B-29爆撃隊の護衛にあたるとともに、地上施設の攻撃を行った[5]。硫黄島は日本爆撃の際に損傷したり故障したB-29の不時着用の基地としても大きな役割を果たした[5]。また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害した(飢餓作戦[6]。なお、空襲以外の日本本土への攻撃として、釜石艦砲射撃室蘭艦砲射撃のような艦砲射撃も行われており、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場が存在するいくつかの工業都市が破壊された。

カーチス・ルメイ少将

B-29による初期の空襲は軍需工場を目標とした通常爆弾主体の高高度爆撃(高度8000m~10000m)であったため、命中率が低く攻撃目標の損害は限定的であった。そこで、「戦果が少ない」と判断された爆撃軍司令官のヘイウッド・S・ハンセル准将は更迭され[7]、1945年1月、ヨーロッパ戦線でドイツに対する絨毯爆撃の実績があり、中国戦線での漢口大空襲で焼夷弾絨毯爆撃の経験もあるカーチス・ルメイ少将が、グアム島第21爆撃集団司令官に着任した。ルメイ少将はまず爆撃高度を少し下げることを行ったが[8]、次いで都市部に対しては3月10日の東京大空襲をかわきりに夜間に低高度(高度2000m程度)から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃(地域焼夷弾爆撃[9])を開始した。焼夷弾空襲は耐火性の低い日本の家屋に対して高い威力を発揮し、なかでも東京大空襲では死者10万人の大きな人的被害をもたらした。

原爆投下まで[編集]

B-29による空襲は、東京および四大都市といった大都市から、主要な地方都市の多くに及んだ。多いときは一度に500機以上のB-29が飛来した。主要都市のうち、京都・広島・小倉・新潟は原子爆弾の攻撃目標候補となったため、後述のように小規模な空襲は受けているものの大規模な焼夷弾空襲は免れた。その後、ハリー・S・トルーマン大統領が、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標から東京と京都は除くようヘンリー・スティムソン陸軍長官に指示し、原爆投下目標都市は広島・小倉・新潟・長崎と決定された[10]。スティムソンも戦後への影響を考慮して京都への攻撃に反対していた。そして、広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下が行われて、日本側は大きな被害を出した。なお、京都が大規模空襲を免れた経緯について、文化財保護の目的で作成されたウォーナーリストによって京都の大規模空襲が避けられたという説が日本国内で流布したが、同リストは文化財返還および賠償弁済のための資料だという異論もある[要出典]

主な空襲一覧[編集]

空襲を受ける東京市街(1945年5月25日
焼け野原となった東京市街

米軍機数、空襲被害は資料により大きな違いがある。

主要大都市[編集]

東京[編集]

  • 1942年(昭和17年)4月18日 - ドーリットル空襲
  • 1944年(昭和19年)11月24日 - マリアナ諸島のB29による初空襲。B29・111機が出撃し、途中故障で引き返した機を除き88機が爆撃に参加。中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野市)が目標。 東京はこれ以後106回の空襲を受けた。11月27日には中島飛行機武蔵製作所2回目の空襲。中島飛行機武蔵製作所は初回から最後の翌年の4月12日まで11回空爆される。
  • 1945年(昭和20年)2月16日 - 米空母機動部隊艦載機による本土初空襲(ジャンボリー作戦)。関東の航空基地と軍需工場が標的。(ドイツでは2月13日からドレスデン爆撃)
  • 3月10日 - 東京大空襲(下町大空襲)。死者約8万-10万。負傷4万-11万名。焼失26万8千戸。
  • 4月13日 - 城北大空襲。B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
  • 4月15日 - 城南京浜大空襲。B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
  • 5月24日 - B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
  • 5月25日 - 山手大空襲。B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。国会議事堂周辺や皇居の一部も焼失。

名古屋[編集]

1944年(昭和19年)12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。

大阪[編集]

空襲後の大阪市街

大阪は1945年(昭和20年)2月26日以降、 下記の大空襲を含む33回の空襲を受けた。

  • 1945年3月13日 大阪大空襲 B29・279機。死者3115名。焼失13万2459戸。
    • 6月7日 B29・250機。死者1594名。負傷者4967名。焼失5万6千戸。
    • 6月15日 B29・469機。死者418名。負傷者1842名。焼失4万9千戸。
    • 7月24日 B29・約400機を含む大小二千機。死者187名。負傷317名。焼失554戸。
    • 8月14日 B29・約100機。死者173名。負傷89名。焼失二千戸。大阪城にあった砲兵工廠が目標であった。

神戸[編集]

神戸は1945年(昭和20年)1月3日以降、下記の大空襲を含む83日・128回、死者8841名、負傷18404名、焼失12万8千戸の被害を終戦までに受けた。同年3月17日の大空襲で旧市街地の西の地域を中心に焼失する。

  • 1945年3月17日 神戸大空襲 B29・309機。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。
  • 5月11日 B29・92機。死者1093名。負傷者924人。
  • 6月5日 B29・481機。死者3184名。負傷者5824名。全焼5万5千戸。罹災人口21万3千名。

京都[編集]

京都は1945年(昭和20年)1月16日以降、合計20回以上の空襲を受けて死者302人、負傷者561人の被害を出した(京都空襲)。

主要地方都市[編集]

1944年[編集]

十・十空襲に遭う那覇市街
  • 1944年6月15日 八幡空襲 中国の成都の基地から初めてB29が本土を空襲した。
  • 10月10日 十・十空襲 沖縄県全域に対しての米艦載機による空襲(フィリピン進攻の準備作戦)。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。
  • 10月25日 大村大空襲 当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。死者約500名。
  • 11月21日 熊本初空襲

1945年2月[編集]

1945年3月[編集]

  • 3月1日 台南初空襲 日本統治時代台湾台南市
  • 3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。
  • 3月18日朝 鹿児島初空襲 グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。
  • 3月19日 アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大破沈没。これに対しての日本軍の反撃で、九州沖航空戦が生起した。
  • 3月27日 小倉大空襲

1945年4月[編集]

  • 4月4日 立川空襲
  • 4月8日 玉野空襲
  • 4月12日 郡山空襲
  • 4月15日 川崎空襲 死者約1000人、負傷者15,000人。罹災人口10万人。全半壊33,361戸。同工場287戸。川崎は7月13日、25日、8月1日、13日にも空襲を受けた。
  • 4月21日  鹿児島空襲 鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。

1945年5月[編集]

  • 5月10日 徳山大空襲 第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・117機。死者500人以上、負傷者約1000人。
  • 5月29日 横浜大空襲 B29・475機、P51・約100機。死者3787人。重傷者1554人。軽傷者10,837人。罹災人口323,000人。焼失約3万戸。その後の調査で、死者は8千-1万人にのぼることが確実と考えられている。
  • 5月31日 台北大空襲 B24・117機日本統治時代台北市、死者約3000人。

1945年6月[編集]

空襲後の鹿児島市街
空襲後の浜松市街
空襲後の静岡市街
空襲後の水島市街
  • 6月1日 尼崎空襲 死者231人。奈良空襲
  • 6月10日 日立空襲 死者1200人。
  • 6月10日 千葉空襲 B29・約100機。死者152人。
  • 6月17日 鹿児島大空襲 B29・117機、焼夷弾810トン。死者2,316人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
  • 6月18日 浜松空襲 死者1720人。焼失家屋15,400戸。
  • 6月18日 四日市空襲 B29・89機。死者736人、負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
  • 6月19日 福岡大空襲 B29・239機。罹災人口60,599人(うち死者902人)。罹災家屋12,693戸。
  • 6月19-20日 静岡大空襲 B29・137機。死者1,952人 罹災人口127,119人 焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射など小規模な爆撃を受けている。
  • 6月19-20日 豊橋空襲 B29・136機。死者624人
  • 6月22日 姫路空襲川西航空機姫路製作所とその周辺) B29・約60機、死者341人、罹災者10220人。
  • 6月22日 水島空襲(現倉敷市) 死者11人、重軽傷者46人。
  • 6月22日 各務原空襲(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。死者169人
  • 6月22日 呉空襲 工廠への爆撃[11] 死者1600人。
  • 6月26日 奈良空襲
  • 6月28日 呉大空襲
  • 6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
  • 6月29日 岡山空襲 B29・137機。死者1737人。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。(『岡山市史』)空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。

1945年7月[編集]

空襲後の仙台市街
呉軍港空襲。7月28日に江田島小用沖で爆撃を受ける戦艦榛名
空襲後の青森市街
  • 7月1-2日 熊本大空襲
    • 午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)[12]市街地の約20%を焼失。死者数469人、負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人[13]
  • 7月1日-2日 呉市空襲 B29・150機。死者3,700人。[14]
  • 7月2日 下関空襲 B29・143機。死者324人。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。
  • 7月3日 姫路大空襲 深夜から4日未明にかけ、B29・約107機。死者173人、罹災者45,182人。姫路城は焼失を免れる。
  • 7月4日 高松空襲 B29・116機。死者1359人、罹災人口86,400人、罹災家屋18,913戸。高松市の約80%が焦土と化した。
  • 7月4日 徳島大空襲 B29・129機 死者約1,000人、けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
  • 7月4日 高知大空襲 B29・120機 死者401人、罹災家屋約12,000戸。
  • 7月6日 千葉空襲 B29・124機。死傷者1,679人。
  • 7月6日 甲府空襲 B29・131機。死者1,027人。全焼17,920戸。
  • 7月7日 清水大空襲(現在の静岡市清水区
  • 7月9日 和歌山大空襲 B29・約100機。死者約1200人。
  • 7月9日 堺空襲 B29・約100機。死者1860人。焼失18,000戸。
  • 7月9日 岐阜空襲 B29・約130機。死者約900人。
  • 7月10日 仙台空襲 B29・124機。死者828人。負傷者385人。焼失家屋23,956戸。詳細は項目記事を参照。
  • 7月12日 宇都宮大空襲 B29・133機、焼夷弾12,704発。死者628人、負傷者約1,150人。焼失家屋9,490戸。鹿沼空襲 死者9人。
  • 7月12日 敦賀空襲 死者109人。負傷者201人。日本海側初の空襲[15]
  • 7月13日 1回目の一宮空襲。午後8時頃、B29約20機の編隊が、愛知県一宮市内北部の葉栗・西成両地区と今伊勢町に油脂焼夷弾を投下、20数名の死者。
  • 7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。少なくとも死者515人。
  • 7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土と青森県に及んだ。青函連絡船全12隻も被害に遭い、青函航路が途絶した。
  • 7月15日 室蘭艦砲射撃。死者436人。室蘭は前日にも空襲を受けたばかりだった。
  • 7月16-17日 大分空襲 16日夜半頃B29編隊(約30数機)が襲来、市の中心部を約6,000発の焼夷弾爆撃。2,358戸が焼失。
    • 大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。一連の空襲での死傷者は1,193人。
  • 7月16日 平塚大空襲 B29・136機 焼夷弾10,961発、死者343名
    • 海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
  • 7月17日 沼津大空襲 B29・130機 焼夷弾9,000発。死者274人。沼津海軍工廠・海軍技術研究所音響研究部が置かれた同市はこの他にも7回の空襲を経験。
  • 7月17日 桑名空襲
    • 桑名は7月24日にも空襲を受けた。
  • 7月17日 日立艦砲射撃。死者317人。アメリカの戦艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦9隻とイギリスの戦艦3隻によるもの。
  • 7月18日 野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。
  • 7月19日 福井空襲 B29・120機。死者1,576人。
  • 7月19日 日立空襲 B29・127機、死傷者2,199人。
  • 7月19日 銚子空襲 B29・91機。死傷者1,181人。
  • 7月19-20日 岡崎空襲 B29・126機。死者203人。
  • 7月24日 半田空襲 B29・78機。死者269人。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
  • 7月24日、28日 津大空襲 死者1,239人。旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
  • 7月24日、28日 呉軍港空襲 米艦載機950機、B29・110機[16] 航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没 死者780人。
  • 7月25日 保戸島空襲(大分県津久見市)米軍グラマン戦闘機が投下した3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)を直撃し、児童125人、教師2人が即死し、70数人の児童が重軽傷を負った。
  • 7月25日 串本艦砲射撃。潮岬も含め、周辺は何度となく艦砲射撃を受けている。
  • 7月26日 松山大空襲 B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。死者・行方不明259人、負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。なお、松山地方裁判所検事正からの7月30日付の報告書には、死者301名、重軽傷者520名、行方不明12名、罹災民約82,000名と記されている。
  • 7月26日 平空襲
  • 7月26日 徳山空襲 B29・約100機。死者482人、負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
  • 7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。
  • 7月28日 青森大空襲 B29・61機。死傷者1767人。焼失家屋18,045戸(市街地の88%)。新型のM74六角焼夷弾が使用され、東北地方では最大の被害を出した。
  • 7月28日-29日。2回目の 一宮空襲。午後10時頃、B29約260機が愛知県 一宮市上空に侵入し、油脂焼夷弾の波状攻撃を行った。2回に及ぶ空襲で市街地面積の80%が灰燼に帰し、罹災戸数は全市戸数の83%にあたる10,468戸、罹災者は全市人口の71%にあたる41,027名、内死者727名、負傷者4,187名に達した。
  • 7月29日 浜松艦砲射撃。死者177人。周辺の被害も含む。
  • 7月29日 大垣空襲。死者50人、負傷者約100人、全半壊家屋約4,900戸、罹災者約30,000人。大垣城開闡寺などが焼失。
  • 7月29日 津市国宝建造物である観音寺本堂、大宝院本堂(阿弥陀堂)、西来寺奥殿が戦災で焼失。
  • 7月31日 清水艦砲射撃。死者44人。7隻の駆逐艦によるもの。

1945年7月21日米軍報告書[編集]

米軍陸軍第20航空部隊が対日爆撃の中間総括を試みる報告書「中小工業都市地域への爆撃」のなかで、6月15日の大阪への空襲(第4回大阪大空襲)を以って第20航空軍によって優先目標と認められた「指定工業集中地区」の実質的な破壊を完了したとし、さらなる破壊効果増大のために攻撃目標として中小都市を含む180都市を人口に基づいて順位付けし、リストアップした。

No 都市 都道府県 No 都市 都道府県 No 都市 都道府県 No 都市 都道府県
1 東京 東京都 46 宇部市 山口県 91 今治市 愛媛県 136 石巻市 宮城県
2 大阪市 大阪府 47 青森市 青森県 92 松江市 島根県 137 日田市 大分県
3 名古屋市 愛知県 48 福井市 福井県 93 沼津市 静岡県 138 土浦市 茨城県
4 京都市 京都府 49 川口市 埼玉県 94 宇治山田市 三重県 139 彦根市 滋賀県
5 横浜市 神奈川県 50 秋田市 秋田県 95 宇和島市 愛媛県 140 鶴岡市 山形県
6 神戸市 兵庫県 51 千葉市 千葉県 96 小田原市 神奈川県 141 池田町 北海道
7 広島市 広島県 52 盛岡市 岩手県 97 小松市 石川県 142 玉野市 岡山県
8 福岡市 福岡県 53 久留米市 福岡県 98 弘前市 青森県 143 松坂市 三重県
9 川崎市 神奈川県 54 若松市 福岡県 99 岩国市 山口県 144 上田市 長野県
10 呉市 広島県 55 宇都宮市 栃木県 100 船橋市 千葉県 145 飾磨市 兵庫県
11 八幡市 福岡県 56 旭川市 北海道 101 佐賀市 佐賀県 146 川内町 青森県
12 長崎市 長崎県 57 前橋市 群馬県 102 東舞鶴市 京都府 147 能代市 秋田県
13 仙台市 宮城県 58 桐生市 群馬県 103 鳥取市 鳥取県 148 立川市 東京都
14 札幌市 北海道 59 戸畑市 福岡県 104 半田市 愛知県 149 西条市 愛媛県
15 静岡市 静岡県 60 岡崎市 愛知県 105 熊谷市 埼玉県 150 八代市 熊本県
16 熊本市 熊本県 61 日立市 茨城県 106 米沢市 山形県 151 伊丹市 兵庫県
17 佐世保市 長崎県 62 延岡市 宮崎県 107 尾道市 広島県 152 下松市 山口県
18 函館市 北海道 63 大分市 大分県 108 足利市 栃木県 153 三島市 静岡県
19 下関市 山口県 64 長野市 長野県 109 福島市 福島県 154 宮古市 岩手県
20 和歌山市 和歌山県 65 八戸市 青森県 110 会津若松市 福島県 155 佐伯市 大分県
21 横須賀市 神奈川県 66 松本市 長野県 111 明石市 兵庫県 156 新宮市 和歌山県
22 鹿児島市 鹿児島県 67 高崎市 群馬県 112 米子市 鳥取県 157 萩市 山口県
23 金沢市 石川県 68 一宮市 愛知県 113 直方市 福岡県 158 浜田市 島根県
24 堺市 大阪府 69 山形市 山形県 114 飯塚市 福岡県 159 倉敷市 岡山県
25 尼崎市 兵庫県 70 津市 三重県 115 岸和田市 大阪府 160 酒田市 山形県
26 小倉市 福岡県 71 清水市 静岡県 116 小野田市 山口県 161 福知山市 京都府
27 大牟田市 福岡県 72 大津市 滋賀県 117 瀬戸市 愛知県 162 八幡浜市 愛媛県
28 岐阜市 岐阜県 73 長岡市 新潟県 118 豊中市 大阪府 163 敦賀市 福井県
29 浜松市 静岡県 74 宮崎市 宮崎県 119 諌早市 長崎県 164 唐津市 佐賀県
30 小樽市 北海道 75 水戸市 茨城県 120 平塚市 神奈川県 165 高山市 岐阜県
31 岡山市 岡山県 76 吹田市 大阪府 121 新居浜市 愛媛県 166 栃木市 栃木県
32 新潟市 新潟県 77 別府市 大分県 122 釜石市 岩手県 167 島原市 長崎県
33 豊橋市 愛知県 78 釧路市 北海道 123 桑名市 三重県 168 高田市 新潟県
34 門司市 福岡県 79 八王子市 東京都 124 鎌倉市 神奈川県 169 平市 福島県
35 布施市 大阪府 80 奈良市 奈良県 125 岡谷市 長野県 170 七尾市 石川県
36 富山市 富山県 81 銚子市 千葉県 126 伊勢崎市 群馬県 171 舞鶴市 京都府
37 徳島市 徳島県 82 大宮市 埼玉県 127 津山市 岡山県 172 柏崎市 新潟県
38 松山市 愛媛県 83 浦和市 埼玉県 128 芦屋市 兵庫県 173 洲本市 兵庫県
39 西宮市 兵庫県 84 高岡市 富山県 129 三原市 広島県 174 中津市 大分県
40 高松市 香川県 85 防府市 山口県 130 徳山市 山口県 175 海南市 和歌山県
41 室蘭市 北海道 86 都城市 宮崎県 131 川越市 埼玉県 176 館山市 千葉県
42 高知市 高知県 87 市川市 千葉県 132 山口市 山口県 177 飯田市 長野県
43 姫路市 兵庫県 88 郡山市 福島県 133 藤沢市 神奈川県 178 丸亀市 香川県
44 四日市市 三重県 89 福山市 広島県 134 帯広市 北海道 179 多治見市 岐阜県
45 甲府市 山梨県 90 大垣市 岐阜県 135 三条市 新潟県 180 熱海市 静岡県

この中で、横浜市神戸市川崎市については、すでに破壊済みであり、名古屋市には過去5回の攻撃を行いこれ以上の攻撃は不要であること、さらに東京大阪市尼崎市はそれぞれ5回と4回ずつ攻撃を行なっており、それぞれあと1回ずつ最大努力の攻撃を行えばよいとされた。 また、都市爆撃を免除した3つの例を示した[17]

  1. 原子爆弾の投下目標として、爆撃対象から除外された4都市。
  2. レーダーが作用しにくい地形であるために、夜間や悪天候での爆撃を免除されていた15都市。
  3. 北緯39度以北にあるため、硫黄島を基地として使用するまでは目標がサイパン島から遠すぎて攻撃不可能であった17都市。

1945年8月[編集]

広島の原爆ドーム
長崎への原爆投下によって廃墟と化した浦上天主堂付近
焼け野原になった福山城と福山市街地
土崎空襲の爆弾破片で損傷した「首無し地蔵」
(秋田市飯島・雲祥院)
  • 8月1日 水戸空襲 B29・99機。死者242人。負傷者1293人。罹災人口5万605人。
  • 8月1日 八王子空襲 B29・169機。死者445人。負傷者2000人以上。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
  • 8月1日 長岡空襲 B29・125機。死者1470人余。焼失家屋11,986戸。
  • 8月2日 富山大空襲 B29・174機。死者2737人。負傷者7900人。焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。

なお、8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。

  • 8月5日 前橋・高崎空襲 B29・92機。死傷者1323人。
  • 8月5日 佐賀空襲
  • 8月6日 広島原爆
  • 8月7日 豊川海軍工廠空襲 死者2477人。
  • 8月8日 福山大空襲 B29・91機。死者354人、負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
  • 8月8日 八幡大空襲。B29・127機。死者2952人、焼失家屋数14,380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
  • 8月9日 長崎原爆
  • 8月9日 大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐などが大破。
  • 8月9日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は秋田市まで響いたという。
  • 8月10日 花巻空襲、熊本空襲
  • 8月11日 久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅が全焼。死者約210人[19]。焼失家屋4,506戸。
  • 8月11日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとんど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
  • 8月13日 長野空襲 長野市上田市に艦載機62機による空襲。
  • 8月14日 熊谷空襲 B29・82機。死傷者687人。
  • 8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
  • 8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
  • 8月14-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲したB29が帰路に余った爆弾を投下した[20]
  • 8月14-15日 土崎空襲 B29・132機。死者250人超、製油所全滅。最後の空襲。

米軍の心理作戦[編集]

米軍の戦時情報局は、戦況の正確な情報を持たない一般日本国民に対して「リーフレット心理作戦」を実行した。宣伝ビラをB29から撒くという方法で工作は行われ、米軍は1945年2月から終戦まで計460万部のビラを投下した[21]。「大本営発表の虚実を暴いたもの」「軍閥が諸悪の根源であり天皇は関係ない」「空襲の日時、場所の予告」が主な内容だった。空襲の場所と日時をビラで事前に予告し、実際にB29が空襲することはビラの信用性を大いに高めた。特に7月28-29日の第12回中小都市空襲では、青森、大垣、一宮、宇和島、津、宇治山田に空襲予告ビラが一斉に投下され、その24時間後に大空襲があった。この大規模ビラ投下は8月1日、8月5日にも実行された他、原爆投下のニュースもビラでされた[22]。日本国民の中には、ビラの内容以上にビラの上等な紙質に衝撃を受ける者もいた[23]

日本の防空体制[編集]

軍による迎撃[編集]

当時の防空航空部隊は、海軍航空隊と陸軍飛行戦隊に分かれており、防空指揮や、その使用機材にも、あまり情報交換や協力関係が見られなかったために戦力を分散使用する結果となり、1944年以降の戦争末期(昭和19年以降)の日本本土防空戦で実質的な敗北を喫し、国土は焦土と化し、制海権も失った。

戦力としては、海軍側では大戦を通じて主戦力であった零戦を、後継機種開発が結果的に後手に回った結果、使い続けなければならなかった。零戦の高高度性能は低く(敵地侵攻用の艦上戦闘機であり、高高度戦闘を視野に入れず設計されていた為)、低・中高度での対戦闘機戦はともかく、対B-29戦の主要飛行高度(約1万m)まで20分程で上昇しても、高度を維持するのが精一杯で、戦闘機動を行うと高度が急激に落ち、回復が困難であった[24]。迎撃戦闘用に開発され、6,000m位の高度までなら優れた上昇力を発揮した雷電紫電紫電改も、9,000m以上の高空での飛行特性は零戦よりは良かったものの、米軍機より低い部位に入り、しかもそれぞれ生産数が少なく零戦を代換できるほどの量は確保できず、有効な戦力とはなり得なかった(ただし紫電改は零戦の後継機としての制空戦闘機としてなら活躍し、実戦配備後の用途は完全に制空戦闘機に替えられていた)。

一方、本土防空の責任をより重く負わされていた陸軍飛行戦隊は、海軍とは異なり、の後継機として、雷電同様の迎撃機鍾馗、重武装の戦闘爆撃機屠龍、スマートかつ頑丈な迎撃機たる飛燕、そして米軍にも警戒された高性能戦闘機疾風など、戦闘機の更新は海軍よりも積極的かつ、タイミングを欠かさず行っており、隼でも三型甲は高空性能において疾風よりも優れていたため迎撃で活躍した。しかし、全体的に弱武装であり高空性能も不足していたため、エースパイロットが搭乗しないかぎりB29戦には苦戦を強いられた。 高高度を約500Km/hの速度で飛行可能で、対戦闘機用にほぼ死角なく機関銃を配置し、与圧システムと防弾システムによる乗員の疲労軽減や生存性に最大限の配慮を行った設計のB29に対しては、それを高空で迎撃する為に必須な、排気ガスによるタービン過給機付エンジン(排気タービン)を、材料の欠如や当時の工業レベルの低さゆえ実用化出来なかった為で、陸軍では屠龍の後継機であった高空用迎撃機キ102甲型が約25機のみの生産、同じく五式戦闘機の2型が試作3機のみ、また比較的高空性能の良好な飛燕2型は、90機程度の量産に過ぎなかった。

海軍では、「斜銃」を装備した夜間戦闘機月光彗星銀河彩雲などを改造した夜間戦闘機が活躍し、陸軍でも百式司令部偵察機屠龍に装備され、戦果をあげた。

屠龍の改良発展型でキ102の前身キ96は、昭和18年中に試作機がそこそこの性能を記録していたが(ツインエンジン単座の戦闘機で最高速度600Km/h、ツインエンジンで複座の屠龍は540Km/h、そしてキ102は580Km/h)、性能不足と適した用途を見つけられずに、量産には至らなかったが、ほぼ同じ機体構成で複座の戦闘爆撃機仕様のキ102を再度作り直させている。海軍の雷電などは上昇力も良く、対B29戦の戦果も良かったが、振動やコクピットからの視界の狭さ等の欠点が問題となり(戦後のテストでは、アメリカ軍の基準では問題にならなかった)少数生産で終わっている。結果として海軍戦闘機部隊の大半は、すでに旧式化していた零戦を最後まで使用せざるをえなかった。

戦争前半に、南太平洋戦線にて低・中高度で来襲するB17(B29の前の主力爆撃機)にも苦戦しており、それを遥かに上回る性能のB29を、相対速度差がより少ない高空で、敵より少ない機数で迎撃していたのであるから、戦果は乏しかった。レーダー管制網や優れた誘導システムもなかったこともその理由とされる。

戦果の大半は、戦争前半までに創設され、迎撃訓練を積んで来た一部の部隊、陸軍の244戦隊や47戦隊、海軍の302航空隊(厚木航空隊)が挙げたものであった。

1945年頃の日本軍は性能の低いレーダー「電波警戒機甲型」「電波警戒機乙型」しか実用化出来ていなかった。特に高度測定用レーダーが設置されていなかったことで、本来は待ち伏せ攻撃で有利な体制で戦闘が出来るはずの防空戦にもかかわらず、逆に探知が遅れてアメリカ軍に奇襲をかけられ、不利な戦闘を強いられる事が多かった。ドイツから技術供与された高性能対空管制用マイクロ波レーダーであるウルツブルグレーダーは輸入品以外になく、最後まで国産化できなかった。

また、空軍が独立していたイギリスやドイツと異なり、陸軍または海軍付属の航空部隊という位置づけでしかなかった日本の航空部隊は(戦前に空軍創設の構想は、若手将校を中心に、陸・海軍共にあった)、統一の防空指揮系統や連携訓練などが出来ておらず、各部隊が個別に散発的に戦闘を行っていた。一方、戦争の初期に問題であった無線機の性能の低さは、この頃には改良型が投入された為に、実用レベルには達した。

昭和20年3月の硫黄島陥落後には、アメリカ軍の戦闘機P-51ムスタングの護衛が付くようになり、B-29撃墜の戦果は大幅に低下していった[25]。また圧倒的な戦力差により、パイロット達の戦意も低下していった。また、航空燃料欠乏により、沖縄戦以後(6月以降)は、本土決戦に備えて出撃を控えることとなった。

高射砲[編集]

B-29に対抗できた三式12cm高射砲

一方、高射砲も一万m以上の高高度を飛ぶB-29に対抗できる強力な三式12cm高射砲五式十五糎高射砲が東京、大阪、神戸や北九州の八幡製鉄所、軍需工場などの重要都市・施設に重点配備され、高性能のウルツブルグレーダーと連動して奮戦したが絶対的な数量を揃えることができなかった。このため、大部分の高射砲部隊は依然として旧式の八八式7.5cm野戦高射砲九九式八糎高射砲が主力のままで苦戦を強いられた。首都近辺では高射砲弾の欠乏も見られていたという[26]

このため先進兵器の開発が進められ、上昇力や最高速度が極めて優秀なロケット戦闘機であるメッサーシュミット Me163の技術供与で十九試局地戦闘機秋水が試作され、ジェット戦闘機火龍ビームライディング地対空誘導弾の開発も計画・設計されたが終戦に間に合わなかった。

民間防衛[編集]

日本では防空法が制定されており、防空壕の建設や疎開などの民間防衛が実施された。

防空要塞[編集]

栗田尚弥によれば、1944年には軍防空、民防空の強化充実が図られ、「東京航空要塞」が東京には出現していたとする[27][28]

都道府県別被害数[編集]

※広島と長崎は原爆被害を含む。沖縄の被害については沖縄戦を参照のこと。東京都の被害市町村数は23区を含む。

都道府県名 被害市町村数 死者数 行方不明者数 負傷者数 損失家屋数
北海道 52 1,210 20 - -
青森県 5 1,772 - 890 17,863
秋田県 2 94 8 - -
岩手県 5 616 10 664 4,850
宮城県 11 1,118 82 1,936 11,603
山形県 6 42 - 37 -
福島県 8 661 66 412 2,730
茨城県 7 3,299 60 3,190 14,952
栃木県 9 612 - 1,181 10,835
群馬県 15 1,237 - 1,538 15,052
千葉県 12 1,448 44 1,909 14,181
埼玉県 10 392 8 955 3,797
東京都 29 116,959 6,034 109,567 770,090
神奈川県 9 9,197 - 16,202 146,493
静岡県 15 6,539 10 9,808 96,774
新潟県 2 1,467 - 472 15,123
山梨県 2 1,181 - 885 17,364
長野県 4 52 - 46 106
富山県 2 2,300 - 3,801 22,490
石川県 3 27 - 25 -
福井県 2 1,809 14 1,907 26,966
岐阜県 3 1,191 23 1,071 33,963
愛知県 26 13,359 231 15,565 168,119
滋賀県 4 45 7 79 -
奈良県 12 31 - 122 -
三重県 8 5,612 3,749 3,749 32,837
和歌山県 12 1,830 5 5,255 30,276
大阪府 15 15,784 - 28,347 364,422
京都府 7 215 - 270 -
兵庫県 10 12,427 - 21,619 212,968
岡山県 3 1,773 127 1,114 23,800
広島県 3 262,425 14,394 46,672 101,628
鳥取県 3 61 9 312 -
島根県 1 38 - 16 -
山口県 9 3,493 161 3,878 23,106
香川県 1 1,369 186 1,034 -
徳島県 3 1,710 450 1,210 -
愛媛県 5 546 - 2,219 21,552
高知県 1 647 43 1,055 12,237
福岡県 4 5,776 - 5,011 62,048
佐賀県 3 138 - 192 -
長崎県 10 75,380 48 2,219 50,079
熊本県 11 869 - - 11,657
大分県 7 710 16 521 2,486
宮崎県 8 646 - 559 -
鹿児島県 51 4,601 48 2,219 -

損失家屋数、死者数は[29]より。 負傷、行方不明者数は[30]より。 被害市町村数は[31]より。

合計死者数[編集]

東京大空襲による死者

調査団体、研究者、新聞社各紙によってばらつきがあり、約24万から100万人と考えられている。

死傷者数(単位:人)
調査団体 合計 調査年数
米国戦略爆撃調査団 252,769 1947年
経済安定本部 299,485 1949年
戦災都市連盟 509,734 1956年
第一復員省 238,549 1957年
建設省戦災復興史 336,738 1957年
東京新聞 558,863 1994年
田中利幸 100万[1] 2009年
日本経済新聞 死者33万人、負傷者43万人 2011年[2]

負傷者は30万人程度[32]と推測されている。

戦後処理[編集]

これら日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。

アメリカ軍による民間人への無差別爆撃による民間人の大量虐殺は明らかに戦時国際法違反である[1]が、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 田中利幸「犯罪と責任:無差別爆撃と大量虐殺」現代社会研究12号、京都女子大学現代社会学部、2009年
  2. ^ a b c 「戦災復興 日本再生の記憶と遺産」 『日本経済新聞』 2011年(平成23年)8月10日 朝刊社会面
  3. ^ カー「戦略東京大空爆」 大谷勲訳、1994年
  4. ^ a b c d e 今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。2014.10.27閲覧
  5. ^ a b 米軍が記録した日本空襲 p152
  6. ^ 米軍が記録した日本空襲 p162
  7. ^ 米軍が記録した日本空襲 p34
  8. ^ 日本爆撃の実録 p174
  9. ^ 米軍が記録した日本空襲 p39
  10. ^ 浄法寺(1981年)、382頁。
  11. ^ 呉市の歴史 http://www.kure-city.jp/kureintrod/kurehistory.html
  12. ^ 熊本県の百年(1987) 森田誠一ら、山川出版社、東京、市制百周年記念 熊本 歴史と魅力 (1989)、 熊本日日新聞 熊本 ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 (1955) 図書刊行会など
  13. ^ 熊本市発表
  14. ^ http://kure-sensai.homeip.net/HeiwaKyouiku/HeiwaKyouikuSiryou/701Print.htm
  15. ^ 図説福井県史 近代23 敦賀・福井空襲
  16. ^ 呉市の歴史 http://www.kure-city.jp/kureintrod/kurehistory.html
  17. ^ 吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002年8月。ISBN 4-02-261353-X
  18. ^ 上記の通り、中国大陸からの空襲はこの時点ですでにおこなわれており、マリアナ諸島からの空襲が実施されていなかったという意味である。後述の8月8日の空襲は日中に実施された。
  19. ^ 諸説あり、『続久留米市誌』上巻では212人、『目で見る久留米の歴史』・『久留米市史』では214人
  20. ^ 米軍が記録した日本空襲 p195
  21. ^ 川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社学術文庫、2004)266-272頁
  22. ^ 工藤洋三/奥住喜重『写真が語る日本空襲』(現代史料出版、2008)、190頁
  23. ^ 川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社学術文庫、2004)272頁
  24. ^ 『零戦ニ欠陥アリ設計者たちの記録』より
  25. ^ 帝都遊撃隊 迎撃戦闘機本土防衛 滝沢聖峰著
  26. ^ 草鹿 1979, p. 372.
  27. ^ 栗田尚弥「『東京航空要塞』の出現」、上山和雄編著『帝都と軍隊―地域と民衆の視点から』日本経済評論社、2002 年
  28. ^ 柳澤潤「日本陸軍の本土防空に対する考えとその防空作戦の結末」戦史研究年報 (11), 84-105, 2008-03 防衛省防衛研究所
  29. ^ 朝日新聞社『週刊朝日百科 日本の歴史 12 現代 122号・敗戦と原爆投下』
  30. ^ 三省堂『東京大空襲の記録』
  31. ^ 岩波新書 早乙女勝元著『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』
  32. ^ 空襲死者数全国調査

参考文献[編集]

  • 今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。
  • E・バートレット・カー『戦略・東京大空爆』 大谷勲訳、光人社、1994年
  • 工藤洋三、奥住喜重『写真が語る日本空襲』現代史料出版、2008
  • 早乙女勝元『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』岩波新書
  • 浄法寺朝美 『日本防空史』 原書房、1981年。
  • 太平洋戦争研究会 『図説アメリカ軍の日本焦土作戦』 河出書房新社、2003年、ISBN 4-309-76028-7
  • 田中利幸「犯罪と責任:無差別爆撃と大量虐殺」現代社会研究12号、京都女子大学現代社会学部、2009年
  • チェスター・マーシャル(著)、高木晃治(訳) 『B-29日本爆撃30回の実録』 ネコ・パブリッシング、2001年、ISBN 4-87366-235-4
  • 原田良次 『日本大空襲』上下、中央公論新社〈中公新書〉、1973年。
  • 平塚柾緒 『米軍が記録した日本空襲』 草思社、1995年、ISBN 4-7942-0594-5
  • 文化庁 『戦災等による焼失文化財 建造物篇』 便利堂、1983年、ISBN 4653009473
  • 文化庁 『戦災等による焼失文化財 美術工芸篇』 便利堂、1983年、ISBN 4653009481
  • 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂  - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
  • 吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]