シベリア抑留

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シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、終戦後武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する日本側の呼称。

一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在でいうモンゴル中央アジア北朝鮮カフカス地方バルト三国ヨーロッパロシアウクライナベラルーシなどソ連の勢力圏全域や中華人民共和国に送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背くものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した[1]

背景[編集]

ロシア帝国時代から囚人の強制労働が行われてきたが、ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人の労働力が注目され、囚人による過酷な強制労働がより行われるようになった。また当時のソ連では重労働を伴う分野での労働力不足が深刻であり、むしろ労働力確保を目的として囚人を確保する側面もあった[2]スターリン体制下(ソビエト連邦の歴史 (1927年-1953年)英語版)の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56%が死亡した[3]

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談ウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[4][5]。スターリンは捕虜を労働力としてしか見ておらず、人道的な扱いは望むべくもなかった。第二次世界大戦勃発後、ソ連が獲得した外国人捕虜は当然のごとく強制労働の対象となった。また、ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[6]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[7]。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[8]

経緯[編集]

ソ連軍侵攻と停戦[編集]

第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連・アメリカイギリスヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順の租借権の回復および大連港や中東鉄道南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[9]

日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった[10]

抑留の決定[編集]

スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[11]。スターリンの抑留方針決定をめぐってはさまざまな説が唱えられている。

関東軍密約説[編集]

8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は関東軍参謀・草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍総司令官・山田乙三と関東軍総参謀長・秦彦三郎の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだという[12]。また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。ただしこれを作成したという大本営参謀・朝枝繁春本人は、この文書が偽造されたものであると主張している[13]

なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会会長・斎藤六郎や近代史が専門のノンフィクション作家・保阪正康らによって主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。またこの交渉に同行した瀬島龍三もフジテレビ出版から上梓した『日本の証言』の中で、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦にはそもそもそうした密約を結ぶ権限はなかったこと反論している。

北海道代償説[編集]

8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい[14]

移送[編集]

占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[15]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[16]

収容所での生活[編集]

シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[17](犠牲者数に関しては後述)。

一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった反面、将校クラスではそれが少なかった。共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った(死者も出たという)。

抑留中に起きた事件としてはこの他に「暁に祈る」事件ハバロフスク裁判がある。

日本側の対応[編集]

1945年11月になって、日本政府は、関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。

当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという[18]。左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。

日ソ共同宣言をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。

帰国[編集]

1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満州国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者達もいた。しかしさまざまな事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、など)で帰国せずにソ連に残留して帰化した例川越史郎 [19]、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した例もある。

一方、兵卒や下士官を中心に、抑留中の教育によって共産主義に感化された者が多数おり、占領軍による1950年からのレッドパージも、帰国事業が本格化してから彼らの存在を危惧したことが遠因となっている[20]。しかし、多くは帰国後も共産主義に固執しつづけたわけではなく、しだいに政治活動からは身を引いていった。しかし、日本の公安警察は“共産主義の脅威”を理由に1990年代後半まで彼等を監視下においた[21]

冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。

厚生労働省では、2003年より遺族の希望に応じて遺骨のDNA型鑑定が行うこととしており、2010年までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡されている[22]

犠牲者数[編集]

日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されている。ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[23]。従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。

賃金未払い問題[編集]

国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた[24]。この規定に基づき、捕虜は帰国時に証明書を持ち帰れば、国から賃金を受け取ることができた。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府は賃金や給養費の所属国負担が慣習として定着していないと主張していたため、賃金は支払われなかった。1992年12月以後、ロシア政府は旧抑留者の申請に対して労働証明書を発行するようになり、1994年からは正式に日本政府に送付するようになった。未払い賃金については複数の訴訟が行われているが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。

シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、2006年10月に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせた。

国家賠償訴訟[編集]

シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された[25]

シベリア特措法[編集]

旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年5月20日に参院総務委員会で佐藤泰介委員長により提案され、全会一致で参院本会議への提出を決めた。5月21日に本会議で可決し今国会で成立する運びとなる。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される[26][27]

同法案は、第174国会最終日の6月16日に衆議院総務委員会で可決の後、衆議院本会議で可決成立し、同日付けで法律第45号として公布、施行された。
同日において日本国籍を有する戦後強制抑留者が特別給付金の対象になるが、前日までに死亡していると対象外となるので、支給人数はごくわずかであり、支給されない抑留者の数は膨大なものとなる。支給対象者が、特別給付金の支給の請求をする前に死亡した場合は、相続人が請求できる(本人が前記年月日までに死亡していれば支給されない。)ためにする法律でもある。

なお、2007年4月から2009年3月まで同基金が実施した「特別記念事業」により戦後強制抑留者と認定され、慰労品が贈呈された人には、10月中旬までに直接同基金から特別給付金請求書が送付される予定である。

現地慰霊碑[編集]

厚生労働省の事業により、抑留された各地に小規模な慰霊碑の建立が進められている。

ロシア[編集]

ウズベキスタン共和国[編集]

グルジア共和国[編集]

関連団体[編集]

経験した著名人[編集]

シベリア抑留に関連する作品[編集]

当事者による手記(小説は除く)
  • 伊藤政夫『マホルカ - シベリア抑留記』(2002年、文芸社ISBN 9784835539515
  • 井戸邊正則『シベリヤヤポンスキーサルダート』(2007年、文芸社) ISBN 9784286032665
  • 井上三次郎『地獄のシベリア抑留記』(2010年、文芸社) ISBN 4286085600
  • 今川順夫『私のシベリア抑留 地獄の記録 - 負けてたまるかの奮闘記』(2011年、岐阜新聞社ISBN 9784877971663※品切れ
  • 内村剛介『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』(1967年、講談社 / 講談社文芸文庫ISBN 4061982605※品切れ
  • 宇野宗佑『ダモイ・トウキョウ』(1982年、シベリア抑留叢書)※品切れ
  • 蝦名熊夫著・蝦名賢造編纂『シベリア捕虜収容所 四年間の断想 死の家の記録』(1989年、西田書店)※品切れ
  • 大塚茂『ダモイの道は遠かった』(1995年、国書刊行会ISBN 9784336037282※品切れ
  • 小川護『私のシベリヤ物語 - 捕虜生活三年間の青春』(2011年、光人社NF文庫) ISBN 4769827121
  • 川越史郎『ロシア国籍日本人の記録 - シベリア抑留からソ連邦崩壊後まで』(1994年、中公新書ISBN 4121011732※品切れ
  • 川島一芳『シベリア抑留の軌跡 - 私にとっての戦争』(2000年、文芸社) ISBN 9784835501543
  • 川堀耕平『カラガンダ第八分所 - 中央アジア抑留記』(2008年、溪水社ISBN 9784863270190※品切れ
  • 草地貞吾『地獄遍路』(1958年、日刊労働通信社シベリヤ叢書)※品切れ
  • 後藤治夫『シベリア抑留記 - 奥三河の山里から』(2005年、春風社) ISBN 9784861100543
  • 後藤敏雄『シベリア、ウクライナ私の捕虜記』(1985年、国書刊行会) ISBN 9784336022516
  • 斎藤邦雄『シベリヤ抑留兵よもやま物語 - 極寒凍土を生きぬいた日本兵』(1987年、光人社NF文庫) ISBN 9784769825067
  • 坂間文子『雪原にひとり囚われて - シベリア抑留10年の記録』(1975年、講談社)※品切れ
  • 佐藤千一『シベリアさすらいの記 一抑留兵の体験記』(1993年、日本図書刊行会) ISBN 978-4773317688※品切れ
  • 佐藤友治『朝が来て知る捕虜の命 - シベリア抑留生活千余日』(2002年、文芸社) ISBN 9784835543055
  • 佐野巌『シベリア抑留1000日 - ある日系二世の体験記』(1999年、彩流社ISBN 9784882025955
  • 信田守夫『シベリア捕虜紀行』(2006年、文芸社) ISBN 9784286011295※品切れ
  • 新宮富士郎『大陸の孤島 - シベリア抑留記』(2008年、文芸社) ISBN 9784286041711※品切れ
  • 杉本四郎『シベリア抑留の思い出記』(2011年、文芸社) ISBN 9784286100517※品切れ
  • 鈴木祥蔵『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春 - 一学徒兵五十五年目の回想』(1999年、明石書店
  • 鈴木良男『遥か青春シベリア』(1995年、共和印刷企画センター)※品切れ
  • 宗前鉄男『北斗の下で - 私のシベリア物語』(2010年、東京図書出版会ISBN 9784862233981
  • 高木啓太郎『シベリア抑留記 お陽さんぽつんと赤かった』(1983年、サン文庫)※品切れ
  • 高杉一郎『極光のかげに - シベリア俘虜記』(1950年、岩波文庫ISBN 4003318315
  • 竹田正直『酷寒シベリヤ抑留記 - 黒パン三五〇グラムの青春』(2001年、光人社NF文庫) ISBN 9784769823063
  • 棚橋嘉信『東京ダモイ - 日本に帰る』(1997年、日本図書刊行会) ISBN 9784890391844
  • 中村信一『ウラジオストック物語 - シベリア抑留体験記』(2004年、新風舎ISBN 9784797442854※品切れ
  • 西尾康人『凍土の詩 - シベリア抑留八年、爪で書いた記録』(1995年、早稲田出版) ISBN 9784898271636※品切れ
  • 西本諦了『命めぐまれ、今を生きる - シベリア・ウクライナ抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835533100※品切れ
  • 新田直人『シベリアの歌 - 続シベリア抑留体験記』(1987年、シベリア抑留者友の会) ISBN 9784897500225※品切れ
  • 萩原金八『俘虜記 - シベリアの詩』(2004年、文芸社) ISBN 9784835570037
  • 古川和夫『試練の八年間 - シベリア抑留』(2008年、文芸社) ISBN 9784286039954
  • 穂苅甲子男『シベリア俘虜記 - 兵士の過酷なる抑留体験』(2009年、光人社NF文庫) ISBN 9784769826200
  • 松井功『青春を埋めた初年兵の抑留記』(1995年、近代文芸社) ISBN 9784773347623
  • 三浦庸『シベリヤ抑留記 - 一農民兵士の収容所記録』(1984年、ちくま文庫ISBN 978-4480024824※品切れ
  • 皆川太郎『ダモイ - シベリアからの帰還』(2006年、光陽出版社) ISBN 9784876624201
  • 村山常雄『シベリアに逝きし人々を刻す ソ連抑留中死亡者名簿』(2007年、プロスパー企画) ISBN 9784861800214※品切れ
  • 村山常雄『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、七つ森書館ISBN 9784822809966
  • 森野勝五郎著・森野忠編纂『遺稿 我が抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835535661
  • 森本良夫『シベリア俘虜記 - 死と絶望からの帰還』(2001年、春秋社ISBN 9784393436202※品切れ
  • 山下静夫『画文集 シベリア抑留1450日・記憶のフィルムを再現する』(2007年、デジプロ) ISBN 9784490206135
  • 山本喜代四『シベリヤ抑留記 - 21世紀を拓く青少年たちへの伝言』(1999年、元就出版社) ISBN 9784906631445
  • 勇崎作衛『画文集 キャンバスに蘇るシベリアの命』(2010年、創美社ISBN 9784420310444
  • 渡邉雅彬『ダモイの虹』(2004年、新風舎 / 2009年、文芸社) ISBN 9784286072555
第三者によるノンフィクション
小説
絵本
戯曲
漫画
歌曲
映画
テレビドラマ

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院議員鈴木宗男君提出エリツィン前ロシア大統領の逝去に関する質問に対する答弁書”. 衆議院 (2007年5月11日). 2011年8月7日閲覧。
  2. ^ 村井淳 2010, pp. 118.
  3. ^ 村井淳 2010, pp. 121.
  4. ^ 白井久也 1994, pp. 37.
  5. ^ 戸松建二 2009, pp. 182.
  6. ^ ライナー・ホフマン山手治之 (2005年). “戦争被害者に対する補償――1949年以降のドイツの実行と現在の展開――”. 立命館法学. 2012年4月8日閲覧。、299p
  7. ^ 村井淳 2010, pp. 130.
  8. ^ 村井淳 2010, pp. 132.
  9. ^ 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集 (PDF) (日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)p.24 「ヤルタ協定」
  10. ^ 白井久也 1994, pp. 34-35.
  11. ^ 戸松建二 2009, pp. 132.
  12. ^ 白井久也 1994, pp. 35.
  13. ^ 白井久也 1994, pp. 36.
  14. ^ 戸松建二 2009, pp. 176.
  15. ^ V.A.アルハンゲリスキーの著作およびマッカーサー元帥の統計より
  16. ^ シベリア抑留、露に76万人分の資料 軍事公文書館でカード発見[リンク切れ]産経新聞2009年7月24日
  17. ^ 当初から10万名は死亡したと言われ、グラスノスチ後に発見された資料によると40万人とも言われる。
  18. ^ 稲垣武『悪魔祓いの戦後史―進歩的文化人の言論と責任』文藝春秋〈文春文庫〉
  19. ^ 『ロシア国籍日本人の記録 シベリア抑留からソ連崩壊まで』(中央公論社 中公新書)
  20. ^ 米軍のプロパガンダ映画に「赤化されてしまった人々」として登場する
  21. ^ 斎藤貴男の父親は帰国者の一人で、自民党都議の後援会員であったが、それでも死ぬまで監視対象とされ、斎藤も就職差別を受けたという(「訴えにあたって」)。
  22. ^ “シベリア抑留死:没後66年 遺骨、兵庫の遺族の元に”. 毎日新聞. (2012年2月2日). http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120202k0000e040111000c.html 2012年2月8日閲覧。 
  23. ^ 「旧ソ連邦抑留中死亡者名簿」に係る未提供資料の提供を求めるためのロシア政府への情報提供について”. 厚生労働省 (2009年3月6日). 2009年7月27日閲覧。
  24. ^ 白井久也 1994, pp. 40-41.
  25. ^ シベリア抑留国賠訴訟:抑留者の賠償請求を棄却--京都地裁[リンク切れ] 毎日新聞2009年10月29日
  26. ^ シベリア特措法:超党派で今月国会提出へ 元抑留者の悲願に光毎日jp 2010年5月20日
  27. ^ 特措法、全会一致で提出シベリア抑留で給付金 京都新聞2010年5月20日

参考文献[編集]

  • 村井淳「ソ連における強制労働と建設 : 囚人と捕虜は、どのように労働利用されたか」、『研究論集』第91巻、関西外国語大学、2010年、 117-135頁、 NAID 110007531511
  • 戸松建二「第二次大戦後における日本兵シベリア抑留問題 : 収容所における「民主化政策」をめぐって」、『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第10巻、愛知県立大学、2009年、 171-206頁、 NAID 110007326001
  • 白井久也「国際法から見た日本人捕虜のシベリア抑留」、『ロシア・東欧学会年報』第23巻、東海大学平和戦略国際研究所、1994年、 33-42頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]