ナヴォイ劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ナヴォイ劇場
Theatre Alisher Navoi.JPG
情報
通称 Navoi Opera
正式名称 Alisher Navoi Opera and Ballet Theatre
完成 1947年
所在地 ウズベキスタンの旗 タシュケント, ウズベキスタン通
位置 北緯41度18分33秒 東経69度16分18秒 / 北緯41.30917度 東経69.27167度 / 41.30917; 69.27167座標: 北緯41度18分33秒 東経69度16分18秒 / 北緯41.30917度 東経69.27167度 / 41.30917; 69.27167
1スム札に描かれるナヴォイ劇場

ナヴォイ劇場(ナヴォイげきじょう)は、タシュケントにあるオペラバレエのための劇場である。正式名称は、アリシェル・ナヴォイオペラ劇場(Alisher Navoi Opera and Ballet Theatre)。アリシェル・ナヴァーイーは、ウズベキスタンの伝説的な英雄で、文学、伝承でも度々取り上げられる人物[1]第二次世界大戦ソ連の捕虜となった日本人が建設に携わったたことで知られる。

概要[編集]

ナヴォイ劇場はアレクセイ・シュチューセフが設計して1939~1942、1944~1947年に建設され、1947年11月にアリシェル・ナヴァーイー生誕500周年を記念して初公開されている。劇場の収容観客数は1400人で、舞台の広さは540平方メートルである。 [2]

第二次世界大戦で、ソ連の捕虜になった日本人に強制労働として、劇場の建設が課せられた。長時間の労働に加え、食事には腐ったものが出てくるなど劣悪な環境であった。実際に作業に関わった500人のうち、79人もの日本人が亡くなっている。しかし、強制労働にもかかわらず『日本に必ず帰って、もう一度桜を見よう』の合言葉のもと、妥協のない姿勢で建設に携わり、3年かかるであろうこの建設を僅か2年で完成。細部の彫刻にまでこだわるなど完璧な出来であった[3]

なお、サマルカンド国立外国語大学で教授を務めた胡口靖夫は、ナヴォイ劇場の建設に従事した日本人の「私らが昭和20年11月上旬ころに着いたときにはもう建物はほとんどでけていました。これは間違いありません」という証言などから、「日本人捕虜が建設に参加した時には、基礎はもちろん建物本体はほとんどできていた。日本人捕虜が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の『仕上げ』であった」と結論付けており、「勤勉に働いた日本人が基礎からレンガを積み上げて“建設”した」とされるのは「伝説」だとして、それが検証なしに広められていることを批判している[4]

1966年4月26日のタシュケント地震では、78,000棟の建物が倒壊したにもかかわらず、ナヴォイ劇場は無傷であり、[5]市民達の避難場所としても機能した。

エピソード[編集]

  • 建設時、懸命に作業する日本人に対して地元子どもから食べ物の差し入れが行われたが、彼らに対して木のおもちゃをお返しするなど劣悪な環境でも礼儀を忘れなかった。
  • 1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置した。その際の指示は「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」というものであった。プレートには、「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と日本語で書かれている[6]

交通アクセス[編集]

市の中心部に位置する。アミール・ティムールの像があるアミール・ティムール広場より南西に徒歩約5分。

脚注[編集]

  1. ^ ウズベキスタンの州の一つであるナヴァーイー州の名前の由来でもある。ナヴォイはナヴァーイーのロシア語名。
  2. ^ Alisher Navoi Opera and Ballet Theater (英語)
  3. ^ ソ連における日本人捕虜の生活体験を記錄する会編『捕虜体験記』第五巻 中央アジア編 1996年 p.193
  4. ^ シルクロード日誌5《文化遺産としての「ナボイ劇場」建設の“真実”》その1
  5. ^ 赤井克己『おかやま雑学ノート』吉備人出版 2000年 p.118-121
  6. ^ ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場 Alisher Navoi Opera Theatre uzb.jp

参考図書[編集]

  • 竹田恒泰『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』PHP研究所 2010年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]