浅利慶太

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浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日-)は、東京都出身の演出家実業家である。劇団四季創設者の一人で芸術総監督。劇団の運営・管理に当たる四季株式会社の代表取締役会長もつとめる。2009年4月1日から、再び同社の代表取締役社長の任にある。
慶應義塾高等学校卒業、慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退。特選塾員。慶應義塾評議員

家族[編集]

大叔父は二代目市川左團次。父は小山内薫らと築地小劇場の設立に参画し、三田英児の名で映画俳優として活躍した浅利鶴雄。鶴雄の母浅利たけの妹登美が左団次の妻で、左団次に子がなかったため慶太に左団次を継がせる話もあり、幼い頃は左団次の家にいたこともある[1]。その他、叔父に旧東京田辺製薬元会長の田辺元三郎がいる。

女優との結婚を三度経験。最初の妻は藤野節子、2回目の妻は影万里江。2人とも劇団四季における浅利の同志的存在だった。影は、浅利の実家の墓(谷中霊園内)に眠る。2度目の離婚後は長く独身だったが、2003年、野村玲子を3度目の妻に迎え、現在に至る。

来歴・人物[編集]

1953年、慶應義塾大学東京大学の学生を中心に劇団四季を結成。主に、ジャン・アヌイジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。その後旧東京田辺製薬にて宣伝・広告などのアルバイトをしながら、日本テレビの「ジャングル・ジム」の吹き替えアテレコに劇団として参加した。

また、1958年には、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。だが、後に思想的には保守化する。

1961年、日生劇場製作営業担当取締役に就任。1969年、日本ゼネラルアーツを設立。1966年から1975年まで越路吹雪リサイタル公演を日生劇場において演出した。

政商と褒章・顕彰辞退[編集]

1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、中曽根康弘石原慎太郎などの政治家との関係[2]を背景とした莫大な集金、集客力により、劇団四季を大劇団へと成長させる。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた。中曽根や石原のブレーンとしても知られていたうえ、先述どおり政界との繋がりをおおいに利用して劇団を躍進させたことから、「政商」と批判されたが、後の日本経済新聞の連載など様々な場所でその事を自ら肯定しているばかりか、「国益のため」と正当化している。

このように権力との関わりが密接であるにも関わらず、一切の国家的顕彰を拒否しており、過去に紫綬褒章文化功労者の内示があったときも、辞退している[3]

稽古指導等[編集]

劇団四季内部においては、芸術総監督として君臨。演出、配役、台本作成をほぼ一手に握っており、浅利の後継者がいないのが現状である。

近年[編集]

近年では1985年12月ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争や日中戦争を題材とした「昭和三部作」の上演を行っている。

1993年には大韓民国盧泰愚大統領と会談、盧泰愚は、そのなかで朝日新聞をはじめとする日本の言論機関が慰安婦問題に関連して韓国内の反日感情をいたずらに煽っていることに苦言を呈している(『文藝春秋』平成5年3月号)。

2006年10月、政府の教育再生会議委員に就任。

主な受賞歴[編集]

テレビ出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 小谷野敦谷崎潤一郎堂々たる人生』p.154(中央公論社2006年
  2. ^ ただし、石原は「劇団四季」に自身の脚本を提供したり、日生劇場の運営にも取締として関わるなど政治家になる前から浅利との関係はあった。
  3. ^ 文藝春秋「私のはこう読んだ」