永六輔
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えい ろくすけ
永 六輔 |
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| 生誕 | 1933年4月10日(78歳) |
| 出身校 | 早稲田大学第二文学部 中退 |
| 職業 | 放送作家、タレント |
| 文学 |
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| 各国の文学 記事総覧 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
永 六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日 - )は、日本の元放送作家で、タレント、作詞家、エッセイストである。本名、永孝雄(えい たかお)。
映画エッセイストの永千絵は長女、元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)の永麻理は次女。藤本義一とは遠戚である。
目次 |
[編集] 略歴
1933年(昭和8年)、代々「最尊寺」(東京・浅草)の住職を勤めていた永家の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日外国人17代目と自称[2]。父や祖父は永という姓を中国語読みで「ヨン」と名乗っていた[2]。このため戦時中は「チャンコロ」「シナポコペン」と呼ばれ、いじめを受けた[2]。東京・下谷区(現在の台東区)の小学校に通っていた1944年(昭和19年)、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村(現在の小諸市)の小学校に転校し、そこで終戦を迎えた。
1946年に長野県立上田中学校に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。
この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[3]。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学第二文学部史学科を1954年に中退。
以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動[4]、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。
1958年には、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。
1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。
1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。
1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。
2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永、矢崎泰久、小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。
2008年6月、第45回ギャラクシー賞において、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞。
趣味は旅と読書で、特に旅に関しては1年中どこかに出掛けている。スポーツではラグビーが好きである。
音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである[5]。
2010年11月3日、第7回アジアがんフォーラムにて、前立腺癌の闘病中であることを公表。また、乳癌患者の支援者である事も公表。 またパーキンソン病も患っていることも表明した。外出中に転倒して肋骨を骨折した事もあり、それらの影響もあって呂律が回らないことが続き一時は引退も考えたと語る事もあったが、最近は症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになってきている。2011年10月20日、永六輔に近いおすぎはパーキンソン病でなくバセドウ氏病だとラジオで語っている。
2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いている。2012年1月17日に退院。リハビリは継続して行っている。
[編集] 楽曲作詞活動
中村八大からの依頼がきっかけで作詞活動を始める[6]。1959年 - 1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に坂本九が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国でスキヤキ・ソングとタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てている。しかしラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。
永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。
作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる[7]。また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたくの2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている[8]。それとともに、シンガーソングライターの出現により「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということもあげられるが、それはシンガーソングライターを否定するものではなく、きたやまおさむとは『土曜ワイド』にたびたびゲストとして招いたり、逆にNHK-FMの『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』に永がゲスト出演する(2010年12月10日・17日など)という仲である。
永は1974年に野坂昭如・小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートをしているが、これは単なる話題づくりで終わっている。
[編集] テレビ出演
テレビ番組の出演は、テレビ朝日の『徹子の部屋』、よみうりテレビの『遠くへ行きたい』、NHKの『視点・論点』、山梨放送の旅番組、朝日ニュースターの『痛快!おんな組』、そして不定期にあるドキュメンタリー番組の案内人しかテレビ出演をしないとされている(他にNHKの特別番組においてVTR出演することもある)。
かつてTBSテレビ放送40周年記念特別番組の際、タレントが永が行っていたラジオ番組紹介コーナーの進行を無断で遮ったことに憤慨し、生放送であるにもかかわらず途中で退場したことがあり、これを境にテレビへの出演に消極的になったとされている(なお他のテレビ番組でも途中退場したことがある)。
『全国こども電話相談室』に回答者として出演した際、「どうやったらテレビに出られますか?」という質問に対し「出なくてもいい」という趣旨の答えを返し、「もっといろいろなものに興味を持ちなさい」と子供を諭した逸話がある。
永がラジオを主体に活動するようになったのは、元々テレビカメラに取り囲まれるのとドーランを塗って出るのを嫌がっていたのに加え、ちょうどテレビにワイドショーが登場し、その手法に早くから幻滅を覚えてしまったことが原因であるといえよう。しかし、テレビというメディア自体は否定しておらず、後に深夜番組『2×3が六輔』に出演して、自分の存在を確かめさせた(本人談)。また、上記の通り現在は殆どテレビに出ないにもかかわらず旅先で会った人から「いつもテレビで見てます」と声をかけられることはラジオやエッセイなどで度々ネタにしている。
[編集] ラジオ出演
それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが1959年放送開始の『昨日の続き』(ラジオ関東)にて初めて出演することとなる。この番組は当時としては珍しい台本無しのフリートークで進められる番組で、番組そのものは1971年まで続いた(ただし永六輔は途中で降りた)。1966年に『夢であいましょう』が終了すると活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『誰かとどこかで』がスタートする。それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外の首都圏のラジオ局では最近は定時番組(レギュラー)での仕事をしていない。ちなみに、自身担当のラジオ番組では、番組挨拶をせずにオープニングトークに入る事が多い。
朝日放送・中部日本放送・琉球放送で仕事をしたことがあるが、個人的付き合いに留まっている(朝日放送はアナウンサーの道上洋三との、中部日本放送はつボイノリオとの親しい縁から、琉球放送は親交のあった灰谷健次郎が居を構えていた事から)。また、この他にも永六輔を尊敬しているパーソナリティは多い。
TBSラジオでかつて放送されていた『土曜ワイド』は久米宏が初めてレギュラーを受け持った番組であり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている[9]。しかしのちに永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われたため、当時はかなり恨んでいたという[10]。現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みはもっておらず、「大往生」がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演しているほか、2010年1月2日には『久米宏 ラジオなんですけど』にゲスト出演している。
[編集] 映画出演
- 男はつらいよ 寅次郎純情詩集(1976年12月25日公開)-根津神社の警官
- 理由(2004年12月18日公開 アスミック・エース)-喫茶店のマスター
[編集] その他の活動
舞台監督としても活躍していた時代があり、現在でも自らのトークショーや地方講演などではプロの舞台監督を雇わずに自分で進行をしている。ただし、業界で唯一信頼を置いて舞台進行を任せる人物に勇村育世がおり、最近では永自らが構成・演出する舞台であるにもかかわらず、彼女を「舞台演出家」と他の出演者に紹介する程である。「彼女の言う事に僕は逆らった事がない」というのが口癖。 なお、永は同じ演出家でも蜷川幸雄のアンチでもある。
初めてテレビ出演したのが浅田飴、初めてスポンサーラジオ番組を持ったのが桃屋だが、つながりができた理由は自身の語るところによると「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」だそうである。自身の信念とは正反対の文藝春秋で記事を書くこともあるが、これも「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」書けるとの事。しかし、文藝春秋で書いていることについて「あいつらに人質にとられているようなものですよ」と半ば自嘲気味に語っている。[11]
物柔らかく高めの声音が今上天皇に似ていて、永自身も今上の即位前から冗談の種にしている。NHKラジオ第一『話芸・笑芸・当たり芸』において「我は高田文夫を深く認識いたします」とのセリフでものまねを披露したこともあった。その一方、永のものまねをした者もいる( →永七輔)。自らを「男のおばさん」と標榜しており、ピーコなどと仲が良い。
「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)を主催する形で、天皇と日本の民族衣装である着物に対する敬意を持つことを表明している。
2006年11月19日、日比谷公会堂で開かれた『週刊金曜日』主催の「ちょっと待った!教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」に参加し、「君が代」をアメリカの有名な行進曲「星条旗よ永遠なれ」のメロディーで歌う。また当日、この集会にて皇室コントが演じられ、悠仁親王を「猿のぬいぐるみ」に仕立て、前立腺癌を以前今上天皇が患ったことが笑いのネタにされた。このことについて、週刊新潮の取材に永は「車が渋滞して遅れ、3時半に到着したから、そのコント自体見てもいないし、全然わからない。だから『週刊金曜日』に聞いてほしい」とコメントした。このコントのほか、趙博が歌う天皇侮辱ソングを称揚したことがある[12]。その他、「浩宮が赤ちゃんを産んで、その方がまた赤ちゃんを産んで」等と発言した[13]。
特別な名前が付けられていなかった三重県伊勢市の郷土うどんに「伊勢うどん」と名付けた[14]。
[編集] 信条
- アナログ人間であり、ポリシーとしてウェブ(インターネット)や電子メール、携帯電話など最先端のものを拒否し続けてきたが、AMラジオが付いた携帯電話端末が出たのを機に、携帯電話を所持するようになった(但し、電子メール機能は利用したことがないほか、2008年1月の放送では、「持ってなくても不便ではないから、常には持ってない」と発言している)。
- 伝統的建築復権運動を進めている。最近の日本建築は建築基準法によりボルトで締めなければならないそうで、ボルトで締めず木材だけで建築した建物が地震で崩れないのになぜそういう建築を認めないのかと憤慨している。また、最近になって伝統的な職人の服装の復権を呼びかけている。
- かつては自動車を運転していたこともあったが、「人をひきたくない」と思うようになり、運転しなくなった[15]。
- 近年日本で問題となっている義務教育機関における学校給食費未払い問題を最初に取り上げたといわれる[要出典]。かつては生活苦からやむにやまれず払えないという人がほとんどであったが、最近は意図的に払わないケースも出ていると嘆き、「学校給食はただではありません、ちゃんと払いましょう」と呼びかけたが、テレビのワイドショー番組・報道バラエティ番組が取り上げる様になると、「何ですべて意図的と決め付けるのでしょう」とテレビでの取り上げ方を批判する発言をしていた。永はやむにやまれず払えない人まで強制的に払わせようとしていると見ていて、そういうやり方に憤慨しているとのこと。
- 永は権力者の如き振る舞いを見せる者を徹底的に嫌っていて、たとえ付き合いのある相手でもそういう振舞いを見せれば袂を分かって徹底批判する。代表的な例では青島幸男が東京都知事時代、官僚と対決する公約を破っていると指摘した。野坂昭如を青島が罵倒していたことで、青島批判したケースや、田原総一朗が近年石原慎太郎におもねった発言をしたとの理由で批判している[16]。
- 井上ひさしとの縁と自身の信念から、井上らが構成する護憲組織「九条の会」に参加している[17]が、永は「九条以外は憲法改正してもいい」という考えをもっているため、最近は距離を置いている。なお井上とは不仲にならず親交は続いていた。
- 死刑制度に反対している。
- 「ご先祖様は大事だが、先祖を奉れと強要する人がいてよろしくない」、「何何をしないと不幸になるという人がいて不快」という発言をラジオ番組ですることが多い(「これは細木数子を批判している」という人も居る[誰?])。
- 吉本新喜劇はもちろん、運営元の吉本興業を「江戸笑芸(お笑い)を否定する存在」として敵視している。このことから、吉本の元会長の林正之助は、永を苦手としていた(これは、林と暴力団との黒い交際も関係している)。他にもオール巨人のスパルタ教育に関しても批判している。ただし桂三枝はかつて鞄持ちしていた[19]。また吉本のタレントではないが、江戸笑芸を必ず放送するNHKに対し、「民営化しろ!」、「腐ったヤクザな放送局」など、散々文句を言うやしきたかじん(たかじんは単にNHK嫌いであり、永の事を直接批判していない。詳しくはやしきたかじんの項目を参照)に対しても(本人曰く「罵倒までして江戸笑芸を否定する存在」)敵視している。しかし、上方文化そのものを批判しているわけではなく、かつては新宿駅西口地下広場で桂ざこばと反戦フォーク集会ならぬ反戦噺会を開いていたことがある。また、豊竹咲大夫のように『土曜ワイド』に時々ゲスト出演する人もいる。
- 辛淑玉と親しい仲であり、彼女が『世界一受けたい授業』に講師として出演した際「推薦VTR」で出演していたほどである。また、2007年5月5日に長野県松本市の寺で行った彼女の生前葬では葬儀委員長を務め、無着成恭と共に読経した。この関係と元祖フェミニストの中山千夏との親しい縁から、最近の「反ジェンダーフリー・保守的教育復興運動」には批判的で、2007年の東京都知事選挙では親交のある中山千夏と共に浅野史郎を支援した。
[編集] 出演しない放送局
[編集] 文化放送とニッポン放送
文化放送とニッポン放送には自身と政治思想・信条が違うとの理由から長らく出演していなかったという説がある[20][要出典]が、両社が共同出資し設立したフジテレビの番組には出演していたことがある。しかし徐々に疎遠になり、実子の永麻理がアナウンサーとして入社すると、「公私混同を避けるため」との理由から出演しなくなったが、実子がフリーになって長く経った2011年10月23日・30日放送の『ボクらの時代』に出演した。
もっとも1982年(昭和57年)6月12日、文化放送などで放送されていたさだまさしのセイ!ヤングに出演したことがある[21]。また、2002年頃、文化放送制作のナイター中継にゲスト出演したことがあるが、これは同局で野球解説をしている豊田泰光がパーソナリティを務めた番組にゲスト出演したのがきっかけである。
1994年(平成6年)8月25日、ニッポン放送『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』にゲスト出演[22](TBSラジオの『土曜ワイド』でも高田文夫の年賀状が読み上げられたことがある)。生放送中に、放送禁止用語を述べ、局関係者を慌てさせた。ちなみに、高田文夫は若い頃に永六輔の『パック・イン・ミュージック』を熱心に聴いていたそうである[23]。
その10年後、2004年(平成16年)7月15日のニッポン放送開局50周年特別番組に録音出演した。「他の局の人から見たニッポン放送」というコーナーの2人のゲストのうちの1人だった(もう1人のゲストは、元・文化放送アナウンサーの吉田照美)。ニッポン放送側からの度重なる出演依頼を断りきれなくなったから、と述べている。これには同コーナーのホスト役を務めた同局アナウンサー・上柳昌彦が、学生時代からの永のラジオ番組リスナーだったことが大きい。その後、2011年(平成23年)4月22日にもニッポン放送に出演した。
その他にリスナーとして、『欽ちゃんのドンといってみよう!』に投稿していたこともある[24]。
[編集] 読売テレビと朝日放送
読売テレビの『遠くへ行きたい』には、永の趣味である旅番組であるために出演をしていて、番組開始時はレギュラー出演していたが、その後は不定期出演になった。さらに、1980年代後半には国鉄分割民営化に反対する新聞の意見広告に出たため、スポンサー(さらには分割民営化を推進した政府)との関係で出演しなかった時期もある。ただし、現在は出演回数は少なくなっているものの再び出演するようになっており、番組制作会社であるテレビマンユニオンとの関係も基本的には良好である。
また、朝日放送に関しても同局でラジオパーソナリティを務める道上洋三と親交があり、道上が永の番組に出演し、永も『おはようパーソナリティ道上洋三です』が東京から放送された際に、ゲスト出演したことがある。この他にも『米朝よもやま噺』にも出演している。
[編集] 毎日放送
1963年(昭和38年)10月改編で、MBSテレビはNETからネット受けしていた江戸笑芸番組『大正テレビ寄席』を打ち切って自社が企画段階から関わった吉本新喜劇の中継番組『サモン日曜お笑い劇場』に差し替えた(大正テレビ寄席打ち切り事件)。
詳細は「大正テレビ寄席#関西圏での扱い」および「よしもと新喜劇#レギュラー番組化 - 全国ネット」を参照
「吉本新喜劇#創立」も参照
この時の理由は、「関西では江戸笑芸が受け入れられにくく、テレビ寄席の視聴率が低迷するのは予想できたことだった」(MBS社長高橋信三のコメント)というものだったが、永は「吉本興業とMBSが結託して江戸笑芸を否定しようとしている」と猛反発し、両社に対する攻撃を開始した。
詳細は「毎日放送#江戸笑芸番組に対する扱い」および「高橋信三#MBS社長」を参照
その後、MBSが東京12チャンネル向けに制作した『芸能わらいえて』では永が司会に就任、『選抜高校野球中継』のレポーターも務めるなど関係が極度に悪化することは避けられたが、1980年代に入ると両者の関係は徐々に縮小し、永はMBS制作番組に出演しなくなっていった。『誰かとどこかで』ではネットスポンサーのCMだけがMBSに流れるようになった。
詳細は「永六輔の誰かとどこかで#過去に放送していた局」および「大阪放送#JRN・RFとのネット」を参照
2011年9月6日、MBS、中部日本放送(CBC)、TBSは共同で開局60周年記念番組『御三家ラジオ』を制作、つボイノリオ、浜村淳とともに久しぶりとなるMBSラジオへの出演を果たす。しかし、この番組はあくまでもTBSが主導したものであり、これによって永とMBSの関係が直ちに完全修復した訳ではなかった。
[編集] スポーツ等への嫌悪感
若者の街中での非礼な行為に対し怒鳴りつけ、反感を買って危ない目に会う事があると話す。しかし、同世代の人間が同様の事をしている場合は強く出られないとの事[25]。人生の模範になりえないとの考えから、高校野球を軽蔑している。ただし、1970年頃にはリポーターとして甲子園球場で高校球児にインタビューしていたこともある。[26]。「人が殴ったり蹴ったりしているのを大晦日にやるなんて何考えているのでしょう」と、最近流行の総合格闘技に疑問を呈する趣旨の発言をしている。
ただし、若い頃、元阪神タイガースの三塁手・三宅秀史をこよなく愛していたことから、今も各チームの彼の背番号と同じ「16」番の選手を応援している。[要出典]
[編集] 評価と批判
生活文化として江戸の文化・風俗を再評価させたり、在野の芸人を世間に紹介したり、絶滅の危機に瀕していた尺貫法を再び世間に認知させたり、日本人の感覚では常識という考えが同じ日本に住むいわゆる在日の人々にしてみれば侮辱であると主張していた事など、大抵の人々が関心を持たない事を取り上げた事で高齢者を中心として評価が高い。
しかしその一方で、保守的風潮を嫌うあまり、明らかに歴史的事実に反する発言(「七つの子」を「朝鮮人が炭鉱に強制連行され働かされ真っ黒だったのでカラスと呼ばれていた様子を童謡にした歌だと作詞家の弟子から聞いた」、「靖国神社は女性は祀られない男だけの神社」、など)をして批判を浴びるケースがある。
自分の信念にこだわった為に、差別または犯罪肯定発言と認識されて抗議を受けるケースも多く、「無名の人物、とりわけ己の名前を名乗らず黙々と仕事する職人と日本の文化・礼法を伝承している農民こそが模範である」という考えから、職人・農民以外の業種を"賎業"と見下す発言をして、業界団体から抗議を受けたり、「日本では本来ありえない病気」との考えから糖尿病に罹った人々を中傷した発言をして、患者団体から抗議を受けたり、運動競技全般を軽蔑する発言をしてスポーツ関係者を激怒させたり、近年は自身の実家の寺の宗派浄土真宗の開祖親鸞聖人の教え「悪人正機説」こそが正しいとの考えから暴力団を「社会になくてはならない存在」と発言して暴力団追放運動関係者を激怒させたり等がある。
毎日新聞記者高畑昭男によれば、Who are you ?捏造報道の1年後、この事件を真実のこととして語ったことがあるという。
[編集] 主な楽曲の一覧
作詞を手がけた主な楽曲。いくつかの曲には永自身が歌った盤もある[27]。
- 黒い花びら (作曲:中村八大、歌:水原弘 他)
- 黄昏のビギン (作曲:中村八大、歌:水原弘 他)
- 上を向いて歩こう (作曲:中村八大、歌:坂本九 他)
- 帰ろかな (作曲:中村八大、歌:北島三郎 他)
- 見上げてごらん夜の星を (作曲:いずみたく、歌:坂本九 他)
- おさななじみ (作曲:中村八大、歌:デューク・エイセス)
- いい湯だな (作曲:いずみたく、歌:デューク・エイセス 他)
- 女ひとり (作曲:いずみたく、歌:デューク・エイセス 他)
- 筑波山麓合唱団(作曲:いずみたく、歌:デューク・エイセス)
- こんにちは赤ちゃん (作曲:中村八大、歌:梓みちよ 他)
- 遠くへ行きたい (作曲:中村八大、歌:ジェリー藤尾 他)
- 二人の銀座 (歌: 和泉雅子・山内賢 他)
- ザ・ベンチャーズの "GINZA LIGHTS"が原曲。
- 今夜はヘンな夜 (作曲:もりばやしみほ、歌:もりばやしみほ + ハイポジ)
- 夜はひとりぼっち (作曲:もりばやしみほ、歌:もりばやしみほ + ハイポジ)
- 故郷のように (作曲:中村八大、歌:西田佐知子)
- 初めての街で (作曲:中村八大、歌:西田佐知子) - 菊正宗酒造のコマーシャルソング
- 万葉集(作曲:中村八大、歌:植木等)
- レット・キス (ジェンカ) (作曲:ラウノ・レティネン、歌:坂本九)
- フィンランドの楽曲 "Letkiss" (または"Jenkka") が原曲。
- 若い季節 (作曲:櫻井順、歌:ザ・ピーナッツ)
- 明日咲くつぼみに (1997年、作曲:久米大作、歌:三波春夫)
[編集] 主な著書の一覧
- 昭和 僕の芸能私史 (朝日新聞社、1999年)
- さよなら芸能界 (朝日新聞社〈朝日文庫〉、2001年)
- 大往生 (岩波書店〈岩波新書〉、1994年3月22日、ISBN 4-00-430329-X)
- 二度目の大往生 (岩波書店〈岩波新書〉、1995年10月20日 ISBN 4-00-430410-5)
- 職人 (岩波書店〈岩波新書〉、1996年10月21日、ISBN 4-00-430464-4)
- 芸人 (岩波書店〈岩波新書〉、1997年10月20日、ISBN 4-00-430528-4)
- 商人 (岩波書店〈岩波新書〉、1998年4月20日、ISBN 4-00-430557-8 ※表記は『商 (あきんど) 人』)
- 夫と妻 (岩波書店〈岩波新書〉)
- 親と子 (岩波書店〈岩波新書〉、2000年1月20日、ISBN 4-00-430655-8)
- 嫁と姑 (岩波書店〈岩波新書〉、2001年)
- 伝言 (岩波書店〈岩波新書〉、2004年)
- 悪党諸君 (青林工芸舎、1999年 / 幻冬舎〈幻冬舎文庫〉、2002年)
- 真紅の琥珀 (講談社、1991年 ※小説)
- 無名人名語録 (講談社、1987年 / 〈講談社文庫〉、1990年)
- 六・八・九の九 坂本九ものがたり (中央公論新社)
- 学校ごっこ (NHK出版、1997年11月25日 ISBN 4-14-080329-0)
- 一人ぼっちの二人 (中央公論新社)
- もっとしっかり、日本人 (NHK出版〈NHKライブラリー〉 / ヴィレッジブックス、2007年)
- もっともっとしっかり、日本人 (NHK出版)
- あなたの「いのち」をいただきます (ヴィレッジブックス、2007年)
- 人はなぜ歌うか 六輔流・日本音楽史 (NHK出版)
- 永六輔の『えぃっ!』 (扶桑社)
- 土曜日に逢いましょう (毎日新聞社)
- 想像力と創造力 (毎日新聞社)
- 想像力と想像力3 ラジオから見えるニッポン (毎日新聞社)
- たかがテレビ、されどテレビ (倫書房、1997年11月10日 ISBN 4-947711-05-1)
- 東京新聞の連載から、1987年5月21日 - 1997年10月3日までの掲載分を収録。
- 明るい話は深く、重い話は軽く (光文社〈知恵の森文庫〉、2003年)
- 庭説法ー歌えばお経 話せば法話ー (本願寺出版社、2007年)
[編集] 共著の一覧
- 街=父と子 (著:永六輔・永忠順、毎日新聞社 / 角川書店〈角川文庫〉)
- 旅=父と子 (著:永六輔・永忠順、毎日新聞社 / 角川書店〈角川文庫〉)
- 女=父と子 (著:永六輔・永忠順、毎日新聞社、1970年11月28日 / 角川書店〈角川文庫〉)
- よってたかって目の勉強 (著:永六輔・ピーコ、扶桑社、1990年)
- 人生万歳 (著:永六輔・瀬戸内寂聴、岩波書店、1998年 / 新潮社〈新潮文庫〉、2003年)
- 日本人対朝鮮人 (著:永六輔・辛淑玉、光文社、1999年)
- 上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史 (著:永六輔・矢崎泰久、飛鳥新社、2006年)
[編集] テレビ番組の一覧
- 主な出演番組(不定期主演を含む)
- 遠くへ行きたい(読売テレビ制作・日本テレビ系)
- 徹子の部屋(テレビ朝日 ※ 最多出演ゲスト)
- 視点・論点(NHK教育テレビジョン)
- スタジオパークからこんにちは(NHK総合テレビジョン ※ 撮ってだし収録の時期に出演)
- 山梨放送制作の旅番組(毎年タイトルがかわっている)
- 東海テレビ開局50周年記念 時代の肖像 永六輔ドキュメンタリーの旅(東海テレビ)
- 痛快!おんな組(朝日ニュースター)
- 過去に出演していた番組
- NHK
- 午後のおしゃべり
- 夢であいましょう
- スポットライト
- テレビファソラシド
- 夢でワイドショー 永六輔の芸能ジャーナル(※衛星放送番組)
- 日本テレビ
- TBSテレビ
- 筑紫哲也 NEWS23( ※ 不定期出演)
- 連続ドラマ ヨイショ (※ 主人公の渥美清にインタビューするラジオ番組の司会者として、遠藤泰子とともにゲスト出演。)
- フジテレビ
- テレビ朝日(NETテレビ時代も含む)
- 桂小金治アフタヌーンショー (※ 司会の桂小金治と喧嘩して降板、テレビから遠ざかる原因となったとされる)
- 題名のない音楽会 (※ 黛敏郎死去後、後任が決まるまでの「代打」として司会を務めた[28])
- 毎日放送
- ウィークエンドショー(※ 大正テレビ寄席打ち切りに抗議する前に出演)
- 芸能わらいえて(※ 上記の出来事の後の番組。関東地区では東京12チャンネルで放送)
- 選抜高等学校野球大会(※ 客席リポーター。年度によりNETテレビ・東京12チャンネル・TBSテレビで放送)
- 琉球放送
- BS朝日
- うたの旅人(声のみ)
- NHK
[編集] ラジオ番組の一覧
- 主な出演番組
- 土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界(TBSラジオ ※前身の永六輔の土曜ワイド時代から出演)
- つボイノリオの聞けば聞くほど(中部日本放送 ※ 東海地区に、旅に出かけた際に出演)
- おはようパーソナリティ道上洋三です(朝日放送 ※ 番組が、東京で生放送される際の出演が主)
- 永六輔の誰かとどこかで(JRN全国ネット・TBSラジオ制作)
- 過去に出演していた番組
- NHK
- TBSラジオ
- パックインミュージック
- 六輔七転八倒
- 全国こども電話相談室
- ラジオ関東(現:ラジオ日本)
- 朝日放送
- 北陸放送
- 琉球放送
[編集] CM出演の一覧
- 浅田飴
- 桃屋
- 『永六輔の誰かとどこかで』内のラジオCMに時折出演(現在はCM部分はほとんど遠藤泰子に任せている)。雑誌・新聞広告を手がけている。
[編集] 雑誌・新聞連載の一覧
- 現在連載中の雑誌・新聞
- 過去連載していた雑誌
- サライ(江戸小物に関する連載企画を持っていた)
[編集] 脚注
- ^ TBSラジオの『永六輔の誰かとどこかで』の中で話した。
- ^ a b c 永六輔さんとワンコリアを語る。
- ^ 佐藤有一 『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)より。
- ^ 永六輔 『職人』 岩波書店〈岩波新書〉、157-168頁。
- ^ 『誰かとどこかで』2010年11月11日放送分
- ^ 永六輔 『大往生』 岩波書店〈岩波新書〉、1994年、122頁 (1992年の『話の特集』8月号からの再録)
- ^ 『放送80年 それはラジオからはじまった』NHKサービスセンター
- ^ 永六輔 『大往生』 岩波書店〈岩波新書〉、1994年、120頁 (『話の特集』1992年8月号の再録) ・ 124頁 (毎日新聞1992年6月16日の再録)
- ^ 久米麗子・久米宏『ミステリアスな結婚』にて
- ^ 永六輔 「テレビマンだった父より」『東京新聞』1987年5月21日 (『たかがテレビ されどテレビ』 倫書房、1997年、60-62頁 所収)が、愚痴ひとつこぼさず黙々とレポートし続けていたと、執筆当時フジテレビのアナウンサーであった次女麻理への手紙というスタイルで明かしていた。
- ^ 新潮社でも「江戸風俗・芸能に造詣が深い」との理由から長らく記事を書いていたが、親交のある灰谷健次郎が斎藤十一のやり方に抗議して絶縁した1997年以降疎遠となり、皇室寸劇封印事件で同社の雑誌に批判されてからは完全に絶縁した。
- ^ 2001年TBS系『筑紫哲也 NEWS23』にて
- ^ 2003年8月9日にNHKで放送された『思い出のメロディー』において
- ^ "伊勢うどん 永六輔さんが命名"中日新聞2011年1月1日朝刊5部三紀版7ページ
- ^ 『土曜ワイドラジオTOKYO』2010年11月20日放送分。
- ^ 雑誌『ラジオライフ』復刊号のインタビュー
- ^ 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』 TBSラジオ、2009年10月3日。
- ^ 『誰かとどこかで』 TBSラジオ、2008年3月25日。また、『土曜ワイド』内の『TBSラジオショッピング』では、普段はあまり口をはさむことはないが、鯨の缶詰が商品である時には積極的に発言する。
- ^ 久しぶりの
- ^ ただし、文化放送ホームページの「番組史」によれば、1960年に「永六輔の僕でよかったら」が放送されている。
- ^ 『さだまさしラジオ・ヴァラエティ CD全16巻』(ユーキャン制作・発売)にも収録されている。
- ^ 『高田文夫のラジオビバリー昼ズ そんなこんなで20年』白夜書房、P31。
- ^ 『ラジオDEパンチ』VOL02、白夜書房、p6。
- ^ 「土曜ワイド」2011年6月4日放送分。
- ^ 2006年9月14日放送の『誰かとどこかで』で自身が「相席の作法」という内容の話をした際に明かした[出典無効]。
- ^ 『誰かとどこかで』の相棒遠藤泰子が高校野球の話をしていた際「何であんなのがさわやかなの?」と発言した。
- ^ アルバム『六輔 その世界』(EMIミュージック、2002年)他。
- ^ 永六輔 『たかがテレビ されどテレビ』 倫書房、1997年、241-246頁。
- ^ 永六輔 「十三年ぶりに出演したテレビCF」『東京新聞』1996年10月4日(『たかがテレビ されどテレビ』 1997年、72頁 所収)。
- ^ 永六輔が浅田飴のCMに出演したのは1970年・1983年・1996年である。キャッチフレーズは「咳・こえ・喉に浅田飴」であり1996年版ではでたらめの外国語調でキャッチフレーズを述べている。
[編集] 関連項目
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