永六輔
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永 六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日 - )は、元放送作家で、タレント、作詞家、エッセイストの76歳。本名は永孝雄(えい たかお)。角刈り頭と細長い顔、大らかな表情がトレードマーク。
映画エッセイストの永千絵は長女、元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)の永麻理は次女。
TBSラジオの『永六輔の誰かとどこかで』の中で「血液型はAB」と話した。
- 従兄弟は東映の映画監督で極道の妻たちを撮っている現役監督と2009年1月10日放送のTBSラジオ土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界で発言をした。
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[編集] 略歴
江戸時代に渡来した中国の学僧を先祖に持つ。代々江戸→東京・浅草の浄土真宗の寺の住職を勤めていた永家の息子として生を受ける。東京府東京市→東京都下谷区(現在は台東区)の小学校に通っていたが1944年に学童疎開により長野県北佐久郡南大井村(現在は小諸市)の小学校に転校しそこで終戦を迎える。
1946年長野県立上田中等学校に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中等学校に2年編入で転校。この間同校が学制改革により早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。1952年に早稲田大学第二文学部(夜間)へ入学。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学は1954年に中退。
以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動、佐渡が島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。多方面でのエッセイの著作が多数ある。
1958年には、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。
1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降政治活動から撤退し在野・市井からの発言に徹している。
1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。
アナログ人間であり、ポリシーとしてウェブや電子メール、携帯電話など最先端のものを拒否し続けてきたが、AMラジオが付いた携帯電話端末が出たのを機に、携帯電話を所持するようになった(但し、2008年1月の放送では、「持ってなくても不便ではないから、常には持ってない」と発言している)。
2008年6月、第45回ギャラクシー賞において、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞。
趣味は旅と読書で、特に旅に関しては1年中どこかに出掛けている。
[編集] 楽曲作詞活動
1959年 - 1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に坂本九が唄って大ヒットした上を向いて歩こうがアメリカ合衆国でスキヤキ・ソングとタイトルを変えビルボードのウィークリーチャート(Hot100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てている。しかしラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。
永が作詞家として全盛期を迎えたのは、美輪明宏がヨイトマケの唄を作詞・作曲、自ら歌ってヒットさせ、さらに荒木一郎が空に星があるようにを作詞・作曲、自ら歌ってヒットさせたように、日本のミュージックシーンにシンガーソングライターが登場した時期でもあった。
永は1974年に野坂昭如・小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートをしているが、これは単なる話題づくりで終わっている。
[編集] 信条
[編集] テレビ出演
テレビ番組の出演は、テレビ朝日の「徹子の部屋」、よみうりテレビの「遠くへ行きたい」、NHKの「視点・論点」、山梨放送の旅番組、朝日ニュースターの「痛快!おんな組」、そして不定期にあるドキュメンタリー番組の案内人しかテレビ出演をしないとされている。
かつてTBSテレビ放送40周年記念特別番組の際、タレントが永が行っていたラジオ番組紹介コーナーの進行を無断で遮ったことに憤慨し、生放送であるにも関わらず途中で退場したことがあり、これを境にテレビへの出演に消極的になったとされている(なお他のテレビ番組でも途中退場したことがある)。
全国こども電話相談室に回答者として出演した際、「どうやったらテレビに出られますか?」という質問に対し「出なくてもいい」という趣旨の答えを返し、「もっといろいろなものに興味を持ちなさい」と子供を諭した逸話がある。
永がラジオを主体に活動するようになったのは、元々テレビカメラに取り囲まれるのとドーランを塗って出るのを嫌がっていたのに加え、ちょうどテレビにワイドショーが登場し、その手法に早くから幻滅を覚えてしまったことが原因であるといえよう。しかし、テレビというメディア自体は否定しておらず、後に深夜番組『2×3が六輔』に出演して、自分の存在を確かめさせた(本人談)。また、上記の通り現在は殆どテレビに出ないにもかかわらず旅先で会った人から「いつもテレビで見てます」と声をかけられることはラジオやエッセイなどで度々ネタにしている。
[編集] ラジオ出演
それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが1959年放送開始の昨日の続き(ラジオ関東)にて初めて出演することとなる。この番組は当時としては珍しい台本無しのフリートークで進められる番組で1971年まで続いた 1966年に夢であいましょうが終了すると活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に誰かとどこかでがスタートする。それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外のラジオ局では定時番組での仕事をしたことがない。
朝日放送・中部日本放送・琉球放送で仕事をしたことがあるが、個人的付き合いに留まっている(朝日放送は道上洋三アナウンサーとの、中部日本放送はつボイノリオとの親しい縁から、琉球放送は親交のあった灰谷健次郎が居を構えていた事から)。
[編集] 出演しない放送局
2002年頃、文化放送制作のナイター中継にゲスト出演したことがあるが、これは同局で野球解説をしている豊田泰光がパーソナリティを務めた番組にゲスト出演したのがきっかけである。
1995年頃、ニッポン放送「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」に、ゲスト出演。生放送中に、放送禁止用語を述べ、局関係者を慌てさせた。
その9年後、2004年7月15日のニッポン放送開局50周年特別番組に、録音出演した。「他の局の人から見たニッポン放送」というコーナーの2人のゲストのうちの1人だった(もう1人のゲストは、元・文化放送アナウンサーの吉田照美)。ニッポン放送側からの度重なる出演依頼を断りきれなくなったから、と述べている。これには同コーナーのホスト役を務めた同局アナウンサー・上柳昌彦(当時は『うえやなぎまさひこ』と平仮名表記)が、学生時代からの熱狂的な永のラジオ番組リスナーだったことが大きい。上柳はインタビュー終了後、ぜひ今度は生で…と締めくくったが、永は笑ってごまかした。
関西の放送局への出演は、江戸のお笑いを否定するという意味合いからか、基本的に出演はしていない。とりわけ毎日放送(MBS)が、東京のNETが制作する『大正テレビ寄席』を「ウケない」という理由で打ち切り、自社制作の吉本新喜劇公開録画番組『サモン日曜お笑い劇場』に差し替えた事を批判したが、その後も1990年代以降疎遠となるまで同局への出演は継続していた。最終的に毎日放送とは事実上絶縁状態になり(本人の公式な表明はない)、『誰かとどこかで』をOBCがネットを打ち切った際、MBSがネットを希望するも、かつて1972年に同番組を自社製作番組優先のため打ち切ってOBCへ移行させた経緯から難色を示し、ABCラジオにも空き枠がなかったためか、MBSでスポンサーの桃屋のCMのみ放送している。但し、永が出演したTBSテレビのネットワークセールス扱いの単発番組に関しては、MBSへのネットを拒絶していない。
ただ、読売テレビの『遠くへ行きたい』には、永の趣味である旅番組であるために出演をしていて、かつてはレギュラー出演していた時期もあった。(現在は不定期出演)また、朝日放送に関しても同局でラジオパーソナリティを務める道上洋三と親交があり、道上が永の番組に出演し、永も『おはようパーソナリティ道上洋三です』が東京から放送された際に、ゲスト出演したことがある。この他にも『米朝よもやま噺』にも出演している。
[編集] 評価と批判
生活文化として江戸の文化・風俗を再評価させたり、在野の芸人を世間に紹介したり、絶滅の危機に瀕していた尺貫法を再び世間に認知させたり、日本人の感覚では常識という考えが同じ日本に住むいわゆる在日の人々にしてみれば侮辱であると主張していた事など、大抵の人々が関心を持たない事を取り上げた事で一部の人々の間では評価が高い。
しかしその一方で、保守的風潮を嫌うあまり根拠のない発言(忘年会を「日本人の歴史認識のなさの証明」、七つの子を「朝鮮人の強制連行の歌」など)をして批判を浴びるケースがある。
また自分の信念にこだわった為に差別または犯罪肯定発言と認識されて抗議を受けるケースも多く、「無名の人物、とりわけ己の名前を名乗らず黙々と仕事する職人と日本の文化・礼法を伝承している農民こそが模範である」という考えから、職人・農民以外の業種を"賎業"と見下す発言をして、業界団体から抗議を受けたり、「日本では本来ありえない病気」との考えから糖尿病に罹った人々を中傷した発言をして、患者団体から抗議を受けたり、運動競技全般を軽蔑する発言をしてスポーツ関係者を激怒させたり、近年は自身の実家の寺の宗派浄土真宗の開祖親鸞聖人の教え「悪人正機説」こそが正しいとの考えから暴力団を「社会になくてはならない存在」と発言して暴力団追放運動関係者を激怒させたり等がある。
[編集] 人物像とエピソード
- 物柔らかく高めの声音が今上天皇に似ていて、永自身も今上の即位前から冗談の種にしている。
- 自身担当のラジオ番組では、番組挨拶をせずにオープニングトークに入る事が多い。
- 死刑制度に反対している。
- 若者の街中での非礼な行為に対し怒鳴りつけ、反感を買って危ない目に会う事があると話す。しかし、同世代の人間が同様の事をしている場合は強く出られないとの事[1]。
- 自らを「男のおばさん」と標榜しており、ピーコなどと仲が良い。
- 1948年から淀川長治主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[2]。
- 人生の模範になりえないとの考えから、高校野球を軽蔑している。ただし、1970年頃にはリポーターとして甲子園球場で高校球児にインタビューしていたこともある。[3]。
- 「人が殴ったり蹴ったりしているのを大晦日にやるなんて何考えているのでしょう」と、最近流行の総合格闘技に疑問を呈する趣旨の発言をしている。
- 久米宏が初めてもったレギュラーは永六輔の土曜ワイドであり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている[4]。しかしのちに永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われたため、当時はかなり恨んでいたという。現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みはもっておらず、「大往生」がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演している。[5]
- 久米への上記のような対応を反省してか、1991年に「土曜ワイド」に復帰して以降はぞんざいに扱っても恨まれない性格の著名人に中継レポーターを任せるように気を遣っている。現在は中継レポーターに振付師でタレントのラッキィ池田を起用。オープニングからいじっているが、ラッキィは気にせずレポートし続けている。
- 舞台監督としても活躍していた時代があり、現在でも自らのトークショーや地方講演などではプロの舞台監督を雇わずに自分で進行をしている。ただし、業界で唯一信頼を置いて舞台進行を任せる人物に勇村育世がおり、最近では永自らが構成・演出する舞台にも関わらず、彼女を「舞台演出家」と他の出演者に紹介する程である。「彼女の言う事に僕は逆らった事がない」というのが口癖。 なお、永は同じ演出家でも蜷川幸雄のアンチでもある。
- 清水ミチコの芸能界入りの橋渡しをした。清水が語ったところによると、永がジァンジァンにて主催していた芸人ライブ冗談画報に出演させたのが芸能界入りのきっかけとなったとの事だが、清水をはじめて見た時の感想は「ものまねはプロ級だけど芸人としてはアマチュアだね」である。[6]また、清水は礼儀作法に対していろいろとアドバイスしてくれたと証し「叱ってくれる貴重な存在」と感謝しているとの事である[7]。
- 自身と政治思想・信条が違うとの理由から文化放送とニッポン放送の番組は出演していないが、両社が共同出資し設立したフジテレビの番組には出演していたことがある。しかし徐々に疎遠になり、実子の永麻理がアナウンサーとして入社すると、「公私混同を避けるため」との理由から出演しなくなった。実子がフリーになって以降も出演を再開していない。
- 吉本新喜劇はもちろん、運営元の吉本興業を「江戸笑芸(お笑い)を否定する存在」として敵視している。また吉本のタレントではないが、江戸笑芸を必ず放送するNHKに対し、「民営化しろ!」、「腐ったヤクザな放送局」など、散々文句を言うやしきたかじん(たかじんは単にNHK嫌いであり、永の事を直接批判していない。詳しくはやしきたかじんの項目を参照)に対しても(本人曰く「罵倒までして江戸笑芸を否定する存在」)敵視している。
- ある種の存在を特徴的な形容で言い換えることがある。原子力発電を「危ない発電」など。
- 永は権力者の如き振る舞いを見せる者を徹底的に嫌っていて、たとえ付き合いのある相手でもそういう振舞いを見せれば袂を分かって徹底批判する。代表的な例では青島幸男が東京都知事時代、官僚と対決する公約を破っていると指摘した。野坂昭如を青島が罵倒していたことで、青島批判したケースや、田原総一朗が近年石原慎太郎におもねった発言をしたとの理由で批判している[8]。
- 読みが同じ名前のよしみで、魚のエイが好きであり、旅に行く時は水族館に行くのが好きである。
- 長野県立上田中等学校時代の苦い体験により、上田市に対して憎悪の念を抱いていたという。しかし1996年に同市出身の作家小宮山量平のとりなしにより和解してからは、上田市で行われる小イベントに顔を出している。
- テレビCM出演が浅田飴のみで、しかも13年おきに出演しているため、所ジョージから「僕らから見たら永さんって『浅田飴のおじさん』というイメージしかわかない」と指摘されたというエピソードがある。本人は「13年おきのCM出演は続けます。」と述べている。[9]
- 初めてテレビ出演したのが浅田飴、初めてスポンサーラジオ番組を持ったのが桃屋だが、つながりができた理由は自身の語るところによると「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」だそうである。自身の信念とは正反対の文藝春秋で記事を書くこともあるが、これも「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」書けるとの事。しかし、文芸春秋で書いてることについて「あいつらに人質にとられているようなものですよ」と半ば自嘲気味に語っている。[10]
- 辛淑玉と親しい仲であり、彼女が世界一受けたい授業に講師として出演した際「推薦VTR」で出演していたほどである。また、2007年5月5日に長野県松本市の寺で行った彼女の生前葬では葬儀委員長を務め、無着成恭と共に読経をあげていた。
- 上記の関係と元祖フェミニストの中山千夏との親しい縁から、最近の「反ジェンダーフリー・保守的教育復興運動」には批判的。
- 井上ひさしとの縁と自身の信念から、井上らが構成する護憲組織「九条の会」に参加していたが、永は「九条以外は憲法改正してもいい」という考えをもっているため、最近は距離を置いている。なお井上とは不仲になっておらず親交は続いている。
- 伝統的建築復権運動を進めている。最近の日本建築は建築基準法によりボルトで締めなければならないそうで、ボルトで締めず木材だけで建築した建物が地震で崩れないのになぜそういう建築を認めないのかと憤慨している。また、最近になって伝統的な職人の服装の復権を呼びかけている。
- 近年日本で問題となっている義務教育機関における学校給食費未払い問題を最初に取り上げたといわれる[要出典]。かつては生活苦からやむにやまれず払えないという人がほとんどであったが、最近は意図的に払わないケースも出ていると嘆き、「学校給食はただではありません、ちゃんと払いましょう」と呼びかけたが、テレビのワイドショー番組・報道バラエティ番組が取り上げる様になると、「何ですべて意図的と決め付けるのでしょう」とテレビでの取り上げ方を批判する発言をしていた。永はやむにやまれず払えない人まで強制的に払わせようとしていると見ていて、そういうやり方に憤慨しているとの事。
- 2006年11月19日、日比谷公会堂で開かれた『週刊金曜日』主催の「ちょっと待った!教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」に参加し、「君が代」をアメリカの有名な行進曲「星条旗よ永遠なれ」のメロディーで歌う。また当日、この集会にて皇室コントが演じられ、悠仁親王を「猿のぬいぐるみ」に仕立て、前立腺癌を以前今上天皇が患ったことが笑いのネタにされた。このことについて、週刊新潮の取材に永は「車が渋滞して遅れ、3時半に到着したから、そのコント自体見てもいないし、全然わからない。だから『週刊金曜日』に聞いてほしい」とコメントした。
- 上述のコントのほか、趙博が歌う天皇侮辱ソングを称揚したことがある[11]。その他、「浩宮が赤ちゃんを産んで、その方がまた赤ちゃんを産んで」等と発言した[12]。
- アウンサンスーチーを長年支持していたが今は支持していない。
- 2007年の東京都知事選挙では親交のある中山千夏と共に浅野史郎を支援した。
- 「ご先祖様は大事だが、先祖を奉れと強要する人がいてよろしくない」、「何何をしないと不幸になるという人がいて不快」という発言をラジオ番組ですることが多い。これは細木数子を批判している。
- 反捕鯨運動には一貫して批判的である。シーシェパードなど実力行使を伴う反捕鯨運動をテロリストと批判している[13]。
- 2002年~2007年まで、校長が中山千夏。講師陣が永、矢崎泰久、小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。
- 若い頃、元阪神タイガースの三塁手・三宅秀史をこよなく愛していたことから、今も各チームの彼の背番号と同じ「6」番の選手を応援している。
[編集] 楽曲
- 黒い花びら
- 黄昏のビギン
- 上を向いて歩こう
- 帰ろかな
- 見上げてごらん夜の星を
- 幼ななじみ
- こんにちは赤ちゃん
- 遠くへ行きたい
- ふたりの銀座
- 今夜はヘンな夜
- 夜はひとりぼっち
- 初めての街で
- いい湯だな
- ジェンカ
- 若い季節
- 女ひとり
[編集] 著書
- 大往生 岩波新書
- 二度目の大往生 岩波新書
- 芸人 岩波新書
- 商人 岩波新書
- 職人 岩波新書
- 夫と妻 岩波新書
- 親と子 岩波新書
- 嫁と姑 岩波新書
- 伝言 岩波新書
- もっとしっかり、日本人 NHK出版 NHKライブラリー
- もっともっとしっかり、日本人 NHK出版
- 学校ごっこ NHK出版
- 人はなぜ歌うか 六輔流・日本音楽史 NHK出版
- 昭和 朝日新聞社
- 土曜日に逢いましょう 毎日新聞社
- 想像力と創造力 毎日新聞社
- 想像力と想像力3 ラジオから見えるニッポン 毎日新聞社
- 悪党諸君 幻冬舎
- たかがテレビ、されどテレビ 倫書房
- 永六輔の『えぃっ!』 扶桑社
[編集] テレビ番組
- 現在出演している番組
- 遠くへ行きたい(読売テレビ製作・日本テレビ系)
- 徹子の部屋(テレビ朝日 ※ 最多出演ゲスト)
- 視点・論点(NHK教育テレビジョン)
- スタジオパークからこんにちは(NHK総合テレビジョン ※ 撮ってだし収録の時期に出演)
- 筑紫哲也NEWS23(東京放送 ※ 不定期出演だが近年は出演していない。)
- 山梨放送製作の旅番組(毎年タイトルがかわっている)
- 東海テレビ開局50周年記念 時代の肖像 永六輔ドキュメンタリーの旅(東海テレビ)
- 痛快!おんな組(朝日ニュースター)
- 過去に出演していた番組
[編集] ラジオ番組
- 現在出演している番組
- 土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界(TBSラジオ ※前身の永六輔の土曜ワイド時代から出演)
- つボイノリオの聞けば聞くほど(中部日本放送 ※ 東海地区に、旅に出かけた際に出演)
- おはようパーソナリティ道上洋三です(朝日放送 ※ 番組が、東京で生放送される際の出演が主)
- 永六輔の誰かとどこかで(JRN全国ネット・TBSラジオ製作)
- 過去に出演していた番組
- NHK
- 日曜娯楽版→ユーモア劇場
- TBSラジオ
- パックインミュージック
- 六輔七転八倒
- 全国こども電話相談室
- 朝日放送
- 北陸放送
- 琉球放送
- NHK
[編集] CM出演
- 浅田飴
- 1970年から13年おきに出演。唯一のテレビCM。
- 桃屋
- 永六輔の誰かとどこかで内のラジオ生CMに時折出演。雑誌・新聞広告を手がけている。
[編集] 雑誌連載
[編集] 関連項目
- 脚本家
- テレビ番組一覧
- ラジオ番組
- 浅田飴
- 中村八大
- 野坂昭如
- いずみたく
- 小沢昭一
- 黒柳徹子
- 大橋巨泉
- 小林亜星
- 遠藤泰子
- 久米宏
- 道上洋三
- 大沢悠里
- つボイノリオ
- 小高直子
- 清水ミチコ
- 辛淑玉
- オオタスセリ
- 伊原春樹
- 西岡常一
- 中山千夏
- SMAP×SMAP(関西テレビ制作で、本人公認のパロディをやったことがある。)
- 永七輔
- 松崎菊也
- 西村計雄
[編集] 脚注
- ^ 2006年9月14日放送の誰かとどこかでで自身が「相席の作法」という内容の話をした際に明かした。
- ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)より。
- ^ 誰かとどこかでの相棒遠藤泰子が高校野球の話をしていた際「何であんなのがさわやかなの?」と発言した。
- ^ 久米麗子・久米宏『ミステリアスな結婚』にて
- ^ 自著「たかがテレビ、されどテレビ」から。永によると土曜ワイドがスタートした頃レポーターとして参加していた久米は永からぞんざいに扱われた事を恨んでいたが、愚痴ひとつこぼさず黙々とレポートし続けていたと執筆当時フジテレビのアナウンサーであった次女麻理への手紙というスタイルで明かしていた。
- ^ **「冗談画報」はフジテレビ深夜で放送していた番組であり永の主催ではない(構成:加藤芳一、関口和之)。「ジァンジァンのライブを切っ掛けに、テレビ番組『冗談画報』に出演し、デビューの切っ掛けになった」ではないか? 要確認。**2006年10月20日放送のメントレGで清水が明かしていた。
- ^ メントレGの後番組僕らの音楽の未公開対談集にて明かしていた。
- ^ 雑誌ラジオライフ復刊号のインタビュー
- ^ 永六輔が浅田飴のCMに出演したのは1970年・1983年・1996年である。キャッチフレーズは「咳・こえ・喉に浅田飴」であり1996年版ではでたらめの外国語調でキャッチフレーズを述べている。
- ^ 新潮社でも「江戸風俗・芸能に造詣が深い」との理由から長らく記事を書いていたが、親交のある灰谷健次郎が斎藤十一のやり方に抗議して絶縁した1997年以降疎遠となり、皇室寸劇封印事件で同社の雑誌に批判されてからは完全に絶縁した。
- ^ 2001年TBS系『筑紫哲也 NEWS23』にて
- ^ 2003年8月9日にNHKで放送された「思い出のメロディー」において
- ^ 2008年3月25日TBSラジオ「誰かとどこかで」
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