灰谷健次郎

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灰谷健次郎(はいたに けんじろう、1934年昭和9年〉10月31日 - 2006年平成18年〉11月23日)は、日本児童文学作家

経歴[編集]

兵庫県神戸市の貧しい家庭に生まれ、働きながら定時制高校商業科を卒業。大阪学芸大学(現・大阪教育大学)学芸学部卒業後、小学校教師を務める傍ら児童詩誌『きりん』の編集に携わる。なお、教師時代の教え子に歌手もんたよしのりがいる。

1962年(昭和37年)、小説『笑いの影』を部落解放同盟から差別小説とされて糾弾を受ける(後述)。その後、1967年(昭和42年)に長兄の自殺、1968年(昭和43年)には実母の死去という事件が重なり、自分が教師であることの意味を見失い、1971年(昭和46年)に、17年間勤めた小学校教師を退職し、沖縄アジア各地を放浪。1974年(昭和49年)『兎の眼』で児童文壇にデビューする。「兎の眼」はミリオンセラーとなった。 その後「太陽の子」も50万部を超えている。

2006年(平成18年)11月23日食道がんのため静岡県内の病院で死去。72歳没。

「笑いの影」事件[編集]

灰谷は、『新潮1962年12月号に短編小説「笑いの影」を発表した[1]。この作品は、被差別部落出身の中学生による暴力・性的逸脱・強姦・殺人・犬殺し・犬肉食などを扱った内容であり、1961年八尾市立八尾中学校で起きた、被差別部落出身生徒たちによる大規模な校内暴力事件(八尾中学校事件)に基づいている[2]

小説の粗筋は、こうである。タモツ、サブロウ、テルコたちはいずれも被差別部落出身の中学3年生である。恵まれない家庭に育った彼らは教師に反感を持ち、校舎の窓ガラスを叩き割る、犬の死体を職員室に投げ込むなどの非行を繰り返している。またタモツはテルコと不純異性交遊を行い、学校の運動場の隅で性行為に耽って「お前らはケダモノみたいな奴や」と教師から非難される。彼らはまた、赤犬を殴り殺して肉を食らうこともある。

やがて一般生徒の間では、彼ら問題児の授業妨害で勉強ができないことへの不満が募り、女生徒19名による集団的な登校拒否が発生する。そこで生徒と教師による話し合いが持たれたが、部落出身生徒が「オレらなんで部落やいうて差別されんならんのや」と激怒した結果、一度は教師側が謝罪して収まるが、再び問題児たちが職員室に殴り込みをかけ、事態は紛糾する。

そんな中、部落に同情的な学級委員の梅原良子が問題児たちに非を諭し、彼らを自宅に招いて反省会を開こうとする。サブロウたちは冷笑するが、ただ一人タモツだけは梅原邸を訪れ、良子に恋心を抱く。するとサブロウがタモツを裏切り者となじり、二人の間で反目が始まる。また、タモツと肉体関係にあったテルコも良子に嫉妬の念を抱く。

やがて良子が先頭に立って校長たちと交渉し、校舎の補修や暖房の設置などの要求を認めさせる。生徒たちは喜ぶ。

しかしそんな中、良子がテルコに誘われて校舎の屋上に連れ出され、サブロウに強姦される事件が発生する。逆上したタモツはサブロウに飛びかかるが、反撃を受けてナイフで刺された上、屋上から蹴り落とされて死亡する。この事件を機に19名の生徒が検挙され、8名が少年院に送られる。

この作品における部落出身生徒の

そうかい。オレたちはケダモノかい。だったらお前らもその気でいな。ケダモノはケダモノでも猛獣だっているってことも忘れるなよ。どうせオレたちは差別教育を受けて、ドカチン(土方)か、アンパン(日雇)になるんだ。センコにおべんちゃらをして泣きついて、せいぜい町工場に就職させてもらうんじゃわりにあう話やない。暴れるだけ暴れてよオ、したいことをして出ていってやる。

などの台詞が部落解放同盟から問題視され、灰谷は八尾市で糾弾を受けるに至った[1]。 灰谷は後年自らこの事件を「「笑いの影」の差別性の一つは、少年非行を通して権力の姿を浮き彫りにするという図式を装いながら、その実やたらと暴力的な行動と、やたら猟奇的な行動を、卑俗な興味の中で描こうとした点にあるといえる。いわれもない差別の中に生きている人たちの実態が何一つなく、恣意的にしかも偏見に満ちて描かれた世界だった。」、「これはたんなる差別事件ではない。(*灰谷がそれまでの人生で)人を踏みつけて生きてきたその象徴的な現われの一つである。」と振り返っている。灰谷はその後『兎の眼』執筆まで十年以上、「文学とは反吐のように振り向きたくないもの」として、筆を折ることになる。[3]

『兎の眼』事件[編集]

しかしその後、灰谷は『兎の眼』(1974年、理論社。1984年、新潮文庫)でも糾弾を受けることとなる。問題となった表現は、登場人物「鉄ツン」の愛犬キチが野犬狩りに遭ったのを子供たちの知恵で奪い返すくだりにおける

落ちつけ鉄ツン。おまえひとりで犬とりのところへいったって、どうするんや。相手は小谷先生とちゃうねんぞ。かみついたって泣いてくれる相手とちゃうねんぞ。お前の方がぶんなぐられて、キチといっしょにと殺場行きじゃ。

という台詞であった[4]

この表現は「屠場は怖い」という差別意識を利用したものとして糾弾を受け、新潮文庫版では途中の増刷版から削除されている[4]

主な著作[編集]

加害少年写真公開に抗議[編集]

1997年(平成9年)、神戸連続児童殺傷事件が起きると、新潮社の写真週刊誌「フォーカス」は、少年法に違反し、当時中学3年生であった加害少年の写真を公開した。これに対し灰谷は、「一出版社が、ひとつの出来事をとらえて、法の枠を越えていると判断する権利も権限もあるはずがない」であるとして、「フォーカス」関連記事への抗議のため執筆拒否を宣言する。同時に灰谷は自身の代表作である大河小説『天の瞳』(後に角川書店より再刊行)を含む全ての著作版権を新潮社から引き揚げ、斎藤十一と絶縁した。

主な政治運動[編集]

辻元清美狭山事件無期懲役となった服役囚などの支援活動をしていた。社民党の議員らと交友が深く、しばしば選挙協力を行ったり、ピースボートに加わったりと積極的な政治活動を行った。

脚注[編集]

  1. ^ a b 黒古一夫『灰谷健次郎 その「文学」と「優しさ」の陥穽』(河出書房新社2004年
  2. ^ 玉田勝郎『優しさまとめて花いちもんめ』(有希プロダクション、1984年)
  3. ^ 灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』pp.117-8、p.169(新潮文庫、1981年)
  4. ^ a b 江上茂『差別用語を見直す』p.107