辛淑玉
辛淑玉(シン スゴ、신숙옥、女性、1959年1月16日- )とは、東京都生まれの在日韓国人3世。実業家、評論家、カリフォルニア大学サンディエゴ校客員研究員[1]。
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[編集] 概要
自ら設立した人材育成コンサルタント会社・香科舎(こうがしゃ)の代表と人材育成技術研究所の所長を務める。マイノリティやフェミニストの立場からの、民族差別撤廃・多文化共生などを追求するなど、人権問題についての著作や発言は多数。
人事院や自治体のほか、民間企業などで管理職研修、評価プログラム開発、人材能力育成プログラム開発、人材育成環境開発、公開講座、人権に関わる研修・講演にも呼ばれることが多い。研修や講演は年間百数十回以上に及ぶこともあった。
現在は中山千夏と共同で市民団体おんな組いのちを創設、反ミソジニー・マッチョ思想の運動を展開。
[編集] 生い立ち
東京都渋谷区生まれ。祖父と父は日本統治下の朝鮮で生まれ、1910年に渡日した。祖父は労働者として働き、父は弁護士を目指して中央大学法科へ入学し卒業した。母は日本で生まれ育った朝鮮人だった。
4歳の頃、それまで一緒に遊んでいた友だちが幼稚園に入園、「幼稚園に行きたい」と父にねだったが、幼稚園と交渉した結果、朝鮮人の子どもは入園できないことを知った。この体験は、自分が朝鮮人であることを強く自覚する契機となったという[2]。日本の敗戦後、弁護士を目指していた父は、外国人扱いされる[3]ことになった。終戦後は裕福な家庭ではなかったという。
日本の小学校に入学後、朝鮮総聯活動家の「朝鮮学校は、貧しい人にはちゃんと昼食を支給します」の言葉を信じ、朝鮮学校に転校した[4]。転校直後は半日本人を意味する蔑称であえる「パンチョッパリ」と呼ばれ、「総括」と呼ばれる反省会の場で「思想が悪い」と「自己批判」させられることもあった[5]。また、ジーパンを穿いていたというだけで活動家から暴行された。ヘルニアを患っているのはこれが原因である[6]。 収入を得るため、小学校2年のときから内職をし、小学校4年からはヤクルト販売の仕事に従事した。その後成人してから、ヤクルト販売の女性を見かけるたびにヤクルト販売での苦労を思い出し、ヤクルト1本を買い求めては心の中で「ガンバレ」と念じることが習い性という[7]。
中学生の頃、美容室のヘアモデルで収入を得たのをきっかけに、ヘアショーにも出るようになった[8]。中学2年のころ、朝鮮学校で夏の遠足「革命キャンプ」のお金が払えなかった。そのことで朝鮮籍の教師に責められたことに対して反論したため、数人の教師から殴られた。その後に家出し親戚の家に逃亡してたが、すぐに連れ戻された。父は手を尽して転校先を探し、日本人が通う杉並区立泉南中学校に転校した[9]。
中学卒業後、都立第一商業高等学校に入学した。新宿の焼肉料理店「名月館」などさまざまなアルバイトの収入で2つの予備校、代々木ゼミナールと代々木学院に通った[10]。また高校在学中には就職に向けて、商業英語、珠算、簿記、カナタイプなどさまざまな資格検定を取得。高校卒業後は各種のアルバイトに勤しむ。17歳で銀座のモデルクラブに所属した。翌年映画のエキストラ出演で知りあった 「DJ 」に音楽の仕事を紹介してもらい、しばらくモデルと兼業した[11]。
20歳の時博報堂で契約社員(特別宣伝班)。家族のため、夜間はアルバイトを続けた。勤務中の4年間でおよそ1600回司会を務めた[12]のち、1983年頃に退社、フリーランスの広告業者として独立。この頃、本名(辛淑玉)を名乗ることを決意[13]。
1985年、台東区三ノ輪に女性社員1人を雇って人材育成会社・香科舎を設立した。TBS系テレビ番組「サンデーモーニング」やその他の番組にゲストやコメンテーターとして出演し、知名度が上がった。
[編集] 名前とアイデンティティ
韓国籍だが、“在日朝鮮人”あるいは〝在日コリアン”を自称している。本名である「辛淑玉」のほか、通名として「新山」を用いた新山節子(にいやませつこ)があり、「せっちゃん」の愛称で呼ばれて育つ。またモデル時代に、源氏名として辛節子を名乗ったこともある。東京生まれの東京育ちでサバサバした性格と語り口であり、彼女曰く「チャキチャキの江戸っ子」であるとも語っている。
在日コリアンの立場から日本社会全体へ、またフェミニストの立場から日本人男性への一見過激な糾弾を行うことが多く、その過激で時にはあまり上品でない主張から反発を買うこともときにはある。一方、日本人女性の中にはその過激さから熱心な支持者も少なくない。
1987年に帰化を申請をしたが、「辛淑玉」の名義はそのまま使いたいと申し出たところ、担当審査官から「もっと日本人らしい名前にしろ」と言われ却下されたという。“当用漢字にも含まれているしそのまま読み仮名抜きで”と申し出や日本語読みならよいかという譲歩にも、改名しないのは「あなたには、よき日本人になろうという意思が感じられない」と担当者から拒絶されたと主張している[14]。 平成15年7月30日 於愛知淑徳大学 講演テーマ「もう一度人権を考える」では、「チョー・ヨンピルさんも植民地時代に付けられた日本の名前持っているわけ」と発言し、第二次世界大戦後の韓国生まれのチョー・ヨンピルが通名を持っているとの主張を展開した。
[編集] 社会的活動
親交のある永六輔の手引きで2000年から『週刊金曜日』編集委員を務めたことがある。しかし、同性愛者を扱った記事における「オカマ」という言葉がホモフォビア表現だとして一部のスタッフと対立した。それが直接の原因となり、2001年に編集委員を辞任している[15]。
石原慎太郎東京都知事をたびたび批判している。特に2000年4月9日に、石原が陸上自衛隊練馬駐屯地の創隊記念式典での挨拶の中で、「今日(こんにち)の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」といういわゆる「三国人発言」を行った際には、どのような文脈で「三国人」という言葉を用いようとも、この発言は在日コリアンに対する侮辱であり、人種差別であると激しく批判した。この主張のもと石原慎太郎を辞任させるための「石原やめろネットワーク」をはじめとした活動を行っている。
その一環として、2003年4月5日、落合恵子、佐高信と連名で『プレ東京都知事選挙』と題するネット投票サイトを開設した[16]。『プレ東京都知事選挙』サイトには石原ら各候補者のプロフィールが書かれていたが、石原についてはきわめて批判的なものだった。このサイトが2ちゃんねるなどで広められたことなどから『祭り』となった。
フェミニズム系の新聞『ふぇみん』2000年4月25日号の編集後記で、「戦争になったら韓国と日本のどちらにつくんだと聞く人がいるけど、戦争が起きたら、在日は真っ先に殺されますよ」と述べた。
ワイドショー番組を嫌っている。テレビ番組で「私はワイドショーが嫌いです」と発言したことがある[17]。辛はワイドショー番組を「人のプライバシーを覗き見する下品な番組」と軽蔑する発言をしていた。ワイドショー番組への皮肉をこめて永とNHK衛星放送の「わいどしょう番組」をプロデュースし出演していた[18]。永は「こういう人がワイドショーの司会をやればテレビもよくなるよ」と発言するほど高く評価している。
韓国の儒教文化を「封建的」だと批判している。しかしながら父に対しては「未だに敬語でしか話し掛けられない」と矛盾した葛藤をみせている。
外国人参政権には賛成の立場をとっている。NHK「真剣10代しゃべり場」2000年7月8日放送回に出演した際、日本の国籍を持たない人も日本の参政権を得られるようにすべきだと発言した。
2001年3月5日から3月9日まで国連人種差別撤廃委員会に参加し、その委員会の集まりにおいて、石原慎太郎を批判するだけにはとどまらず、在日コリアンが日本人によってさまざまな人種差別に遭い被害を受けたと主張した。またその委員会の集まりにおいて、日本の法律が人種差別的に作られていて、日本政府が人種差別をしている世界に向けて主張した。その委員会において、日本人は在日コリアン(主に子どもや児童・生徒)に対して暴力を振るう、人種差別的な人たちであると考える人に賛同するロビイストが多くなったため、国連人種差別撤廃委員会は日本を批判する勧告を出した。
2003年、反差別・反ファシズム闘争が評価され、多田謡子反権力人権賞を受賞する。また、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が推進する「戦争と女性の人権博物館」日本建設委員会の呼びかけ人となる。[14]
2008年3月18日、恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟(会長:鳩山由紀夫)に招かれて講演。日本では血のつながりが重視されるあまり在日韓国・朝鮮人を差別、排除する傾向があり、在日コリアンに日本への所属意識が生まれないと述べた。[19]
2009年11月18日、日本軍慰安婦問題の立法解決を求める緊急120万人署名の賛同人になる[15]。
[編集] 生前葬
2007年5月5日に長野県松本市の神宮寺にて生前葬を行なった。生前葬を行った理由は、保守論客、死刑を強硬に主張する犯罪被害者・遺族と、肩入れして死刑反対運動を「弾圧」する一部メディア、石原慎太郎批判に本腰を入れない日本人などへの「怒りをぶっつける」ことだという。生前葬で辛は『千の風になって』をもじって「私は迷惑な千の強風になる!!!!」と宣言した。
[編集] 批判
前田日明(元在日韓国人、1984年に帰化)は、「名前を出して悪いんだけど、辛淑玉さんなんか見てると、情けなくなってくる。差別されたとか、日本は加害者だとか言うだけで、それだけ叫び続けて一生を送るのかなと思うと、とてもおれは共感できない。」と批判した[20]。
鄭大均は、金嬉老事件における辛の発言を引き合いに出して「メディアに登場する在日のなかで、姜尚中と辛淑玉ほど違和感を覚える人間はいない。辛淑玉に関して言えばその歯に衣着せぬ語り口はいいのだが、思いつきやデタラメが多すぎるのではないか。」「在日コリアンの被害者性という現実的であるかもしれないが非現実的であるかもしれない状況に、自己を憑依してものを語る傾向がある。」「辛淑玉の一見奔放な語り口が、驚くほど古風な被害者的立場や対抗主義的立場との見事な整合性を維持している。」と批判した[21]。
[編集] 発言
北朝鮮による拉致について
- 「仮に北が日本人を拉致したとしても日本人は批判できるだろうか。戦争中、膨大な数の朝鮮人を国家の名の下に拉致した歴史的な事実がある。いまなぜ日本に多くの朝鮮人がいるか考えてみてほしい。自国の歴史を忘れた発言が多すぎる」[22]
- 「北が日本人女性を拉致したというのはウソだと思う。工作員教育係なら在日同胞を使えばすむからだ」[23]
- 「日本人が北朝鮮による拉致事件に政治的に飛びついたのは、長年、国家と一体となった加害者として糾弾されてきたことに疲れたからだと私は見ています。初めて堂々と「被害者になれる」チャンスがめぐってきたのがあの拉致事件でした」[24]
天皇制について
- 「最近、あちこちで文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』と言ってやる。だけど、アイツ働かないからな(笑い)」[25]
- 北朝鮮の金父子による世襲体制を日本の皇室になぞらえ[26]、天皇制が差別的制度であり、日本国憲法第1章を廃止すべきと主張している。一方で、テレビ番組において、今上天皇・皇后の阪神大震災被災者に対する慰問の姿勢を高く評価して、コミュニケーションやプレゼンテーションの模範だとしたこともある。
在日朝鮮人について
- 「(在日)朝鮮人は、しぐさで分かります」[27]
- 「NHKの紅白歌合戦が始まると、親戚の叔父たちが私を呼んでくれる。その時だけは台所の仕事から解放されて、テレビを見ることができた。『おい、セツ子(辛淑玉の日本名)、見てみろ見てみろ。こいつは朝鮮人だぞ、こいつは朝鮮人、こいつの家はパチンコ屋、こいつの家は焼肉屋、こいつは総連系で、こいつは民団で、こいつは山口の××出身で済州島なんだ、こいつの弟は算数が5点で、その嫁さんは・・・・』と、延々と『在日のワイドショー』が続く。当時、私にとっての紅白歌合戦は、年に一度の『チョウセンジン』の数を数えるイベントであり、一度も日本人の数を下回ったことがない」[28] (韓国人や在日コリアンが、日本の著名人を根拠なく在日コリアンやコリアン系の同胞であると主張する在日認定と思われる)
詳細は「在日認定」を参照
- 「われわれマイノリティーは今、なんの保護もない「奴隷」なんですよ」[29]
- 「不法滞在と言うのは凶悪犯罪ではない。信号無視程度の人」[30]
- 「凶悪犯の検挙人数は、東京都全体で978人で、来日外国人は109人と全体の11.2%。九割近くは日本人の犯罪だ」[31]
その他の発言
- 「自衛官は普通の仕事に就けなかった人たちなので、治安維持をまかせると危険」[32]
- 「戦後も日本は戦争をし続けた。朝鮮戦争、ベトナム戦争……。アメリカの公共事業である戦争に加担し、甘い汁をずっと吸ってきた。もっと甘い汁を吸うために憲法9条を改正する。憲法は2000万の民の血の代償として日本人の手に渡った。この憲法を破棄することはアジアへの宣戦布告だと思います」[33]
[編集] 著書
- 1995年5月 『韓国・北朝鮮・在日コリアン社会がわかる本』ハローケイエンターテインメント、 のちワニ文庫(増訂): 1998年8月
- 1996年3月 『言わせていただきます。』ハローケイエンターテインメント
- 1998年9月 『女が会社で』マガジンハウス
- 1998年10月 『不愉快な男たち! 私がアタマにきた68のホントの話』講談社
- 1999年9月 『40秒で面接官の心をつかむ法』中経出版
- 2000年2月 『在日コリアンの胸のうち 日本人にも韓国人にもわからない』光文社、ISBN 433400671X
- 2000年6月 『強きを助け、弱きをくじく男たち!』講談社+α文庫
- 2002年5月 『愛と憎しみの韓国語』文春新書
- 2003年5月 『鬼哭啾啾 「楽園」に帰還した私の家族』解放出版社
- 2003年7月 『辛淑玉のアングル』草土文化
- 2003年12月 『辛淑玉の激辛レストラン 上野千鶴子・佐高信・安部譲二・辛淑玉の4兄妹対談』生活情報センター
- 2004年5月 『怒りの方法』岩波新書
- 2004年12月 『となりのピカソ ピカソたちのメッセージ』(写真・武田直)愛媛新聞社
- 2006年3月 『せっちゃんのごちそう』日本放送出版協会
- 2007年6月 『悪あがきのすすめ』岩波新書
- 2007年7月 『怒らない人』角川oneテーマ21
- その手に乗ってはいけない! ちいさいなかま社 ひとなる書房 (発売) 2008.8
- 2010年『辛淑玉的現代にっぽん考 たんこぶ事始』1-2、七つ森書館
[編集] 共著・監修
- 1999年5月 『日本人対朝鮮人 決裂か、和解か?』(永六輔共著)光文社
- 1999年11月 『こんな日本大嫌い! 辛淑玉対鈴木邦男』青谷舎
- 2001年9月 『女に選ばれる男たち 男社会を変える』(安積遊歩共著)太郎次郎社
- 2002年1月 『ジェンダー・フリーは止まらない! フェミ・バッシングを超えて』(上野千鶴子共著)松香堂書店
- 2005年12月 『クイズウルトラ人権100問』(人材育成技術研究所編、監修)解放出版社
- 2006年4月 『ケンカの作法 批判しなければ、日本は滅ぶ』佐高信共著、角川書店
- いじめるな! 弱い者いじめ社会ニッポン 香山リカ共著 角川oneテーマ21、2008
- 政治を語る言葉 札幌時計台レッスン 山口二郎編著 中島岳志,香山リカ,佐藤優共著 七つ森書館 2008.7
- 2009年6月 『差別と日本人』(野中広務共著) 角川oneテーマ21
[編集] 脚注
- ^ シューレ大学 on the Web 2007/7(2007/07/06(Fri) PM07:21「辛淑玉さんアメリカ報告」)
- ^ 辛淑玉『せっちゃんのごちそう』NHK出版、p.63
- ^ 「在日朝鮮人に韓国々籍」「韓国政府は十日の閣議で在日朝鮮人に韓国国籍の国籍を与え、その人権および財産に保護を与えることに決定した」昭和二十六年十月十一日 朝日新聞
- ^ 前出『せっちゃんのごちそう』、p.59 ただし、実際には昼食の支給はなかった。
- ^ 前出『せっちゃんのごちそう』、p.80
- ^ 朝日新聞の土曜版beの青面
- ^ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.95,96
- ^ 前出『せっちゃんのごちそう』pp.117,118
- ^ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.113 - 114
- ^ 前出『せっちゃんのごちそう』pp.122,123
- ^ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.130,135
- ^ 在日韓国青年会 会報「アンニョン」第4号インタビュー: 「今、在日青年に“熱い”メッセージを」(1991年)
- ^ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.154 - 155
- ^ 『在日コリアンの胸のうち 日本人にも韓国人にもわからない』光文社、2000年
- ^ 『週刊金曜日』の紙面に掲載された、発端から辞任に至る経緯と関連文献
- シリーズ個に生きる(5)「愛欲と反逆に燃えたぎる」(第367号2001年6月15日。写真・内田豊治 文・及川健二。この記事が発端、掲載された記事タイトルは「差別語」とされるオカマを冠していたが、このバックナンバーの目次から問題の語句「伝説のオカマは」は削除されている)[1]、
- 「金曜日から」(第370号2001年7月6日。この件についての執筆: 辛淑玉、渡辺妙子、本多勝一。本多編集委員との意見の相違が表面化)[2]、
- 「金曜日から」(第371号2001年7月13日。この件についての執筆者・渡辺妙子が「辛淑玉・本多勝一両編集委員の対立」と明記している)[3]、
- 投書「辛氏の方法は味方の中に敵をつくる」「あまりにも無神経なタイトル使用」「辛編集委員に一言」「編集部の見解は読者を試しているのか」「辛淑玉さんの『勇み足』発言は残念」「もっといろいろなゲイの考え方を載せるべきでは」「『反差別』の方法論が各人で異なるのは当然」(第372号2001年7月20日)[4]、
- 投書「辛氏の言葉は最大級の警告」(第374号2001年8月3日。投書)[5]、
- 小特集・本誌6月15日号「シリーズ個に生きる(5)」から考える: 「私たちが声をあげたわけ」(第376号2001年8月24日。執筆: 伊藤悟、簗瀬竜太)「検証 私たちの議論の日々」(執筆: 編集部)「セクシュアリティの基礎知識」(執筆: 伊藤悟、簗瀬竜太)[6]、
- 「金曜日から」(第376号8月24日。この件についての執筆: 黒川宣之)[7]、
- 投書「『編集会議の場に外部の人が』に疑問」「看過できない編集部の責任」「辛淑玉さんの議論はアンフェアでは?」(第377号2001年8月31日)[8]、
- 「金曜日から」(第378号2001年9月7日。この件についての執筆: 土井伸一郎)[9]、
- 「金曜日から」(第380号2001年9月21日。この件について辛淑玉が同年8月24日付けで編集委員辞任届けを出し、辞任に至った報告を黒川宣之が執筆している)[10]、
- 「『伝説のオカマ』は差別か」(ポット出版版元日記2001年10月17日。執筆: 沢辺均)[11]
- 小特集・「性と人権」私はこう考える: 「誰が誰を恥じるのか?」(第387号2001年11月9日。執筆: 平野広朗[12])
「私が伝えたかったこと 『個に生きる(5)』の筆者から」(執筆: 及川健二)「当事者としての言葉とメディアの権力性の両立について」(執筆:志田陽子)[13] - 文献1: 『「オカマ」は差別か 『週刊金曜日』の「差別表現」事件 反差別論の再構築へ』ポット出版、2002年2月、ISBN 4939015408
- 文献2: 東郷健(著)、及川健二(構成・文)『常識を越えて オカマの道、七〇年』ポット出版、2002年6月、ISBN 4939015440
- シリーズ個に生きる(5)「愛欲と反逆に燃えたぎる」(第367号2001年6月15日。写真・内田豊治 文・及川健二。この記事が発端、掲載された記事タイトルは「差別語」とされるオカマを冠していたが、このバックナンバーの目次から問題の語句「伝説のオカマは」は削除されている)[1]、
- ^ http://web.archive.org/web/20030406093442/http://164.46.104.197/cgi-bin/vote/kiyoki.cgi
- ^ 永六輔著書『たかがテレビ、されどテレビ』
- ^ 夢でワイドショー 永六輔の芸能ジャーナル
- ^ 東京生まれの在日コリアン3世 辛淑玉さんの講演
- ^ 「別冊正論Extra.02」扶桑社、2006年、p.255
- ^ 「在日・強制連行の神話」文春新書、p.193
- ^ 『朝日ジャーナル』1988年2月26日号 また在日韓国・朝鮮人も参照
- ^ 『朝日ジャーナル』1988年2月26日号 この発言は未だ撤回されていない
- ^ 東京新聞2009年9月20日
- ^ 某「憲法集会」にて 「正論」2003年1月号、81ページ かつての今上天皇の言葉によるものだと思われる。詳細は百済の項目を参照
- ^ 『月刊オルタ』2002年12月号
- ^ 2002年11月9日、日本ジャーナリスト会議北海道支部での講演から
- ^ DAYS JAPAN2004年11月号『千代子として生きて』10頁
- ^ 東京新聞2005年3月6日
- ^ 朝日新聞2000年4月23日
- ^ 出典同上
- ^ 文化放送「梶原しげるの本気でDONDON」2000年3月
- ^ 2005年12月8日、横浜市内で開かれた憲法・教育基本法改悪反対の集会、またライタイハンも参照
[編集] 関連項目
- 松井やより (辛淑玉は女性人権活動奨励賞(やより賞)の選考委員を務める)
- 百万人署名運動
- 在日朝鮮人の帰還事業
- 宮崎学 - 宮崎の熱心なファンであり、辛は宮崎に「宮崎学の妹分」と称されている。
- 反日
- 朝鮮半島を中国とみなす記述