君主制廃止論
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君主制廃止論(くんしゅせいはいしろん)とは、君主制を廃止し、共和制等、新たな政治体制に移行すべきとの考えのことである。
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[編集] 君主制廃止や反発への動き
反君主制運動の高まりの要件を世界的に見ると、ネパールのように政情不安な場合、反政府勢力や共産主義を含む勢力が勢いを増している場合、君主制の歴史が浅いなどの理由により国民が君主制を重視していない場合、君主自体が大いに批判要素を含む場合、王室がおこす不祥事が相次いでいる場合等が挙げられる。また、平等意識や人権意識が浸透した先進国では、君主が世襲であることが時代錯誤であり、王室が基本的人権が不十分である環境に置かれていることも批判要素になっている。
[編集] 日本
詳細は天皇制廃止論を参照
[編集] オーストラリア
イギリス連邦の一員であるオーストラリアでは、オーストラリアの国王でもあるイギリス女王の統治による立憲君主制から共和制への移行の是非を問う国民投票が実施されたものの、結果は現状維持が多数だった。なお、オーストラリアの共和制移行はイギリス王室の廃止にはつながらない(イギリス連邦傘下であり、国王に相当するのは総督。なお、君主制廃止は連邦からの独立を必ずしも意味しない。)。
[編集] イギリス
2007年に行われた世論調査によれば75%の国民が王室存続を支持しており、王室への強い愛着がうかがえる[1]。しかし一方で、王族は民間人と乖離した生活や、頻繁にマスコミに取り上げられプライバシーの無い状態などの「人権侵害」から解放すべきだという人道的見地から王制廃止論を主張する者もいる。2007年、ヘンリー・マウントバッテン=ウィンザーのイラク派兵が取りやめになったことに対し戦死者の遺族が不満を表し、王制への批判も出ている(但し、2008年2月には、アフガニスタンに出兵していたことが判明。現在は、イギリス本国に帰国している)。仮に王制が廃止された場合、ドメイン名にもなっている United Kingdom (連合王国)の略語のUKがUR(United Republic=連合共和国)に変わることも考えられる(en:Republicanism in the United Kingdom「イギリスにおける共和主義」に詳細あり)。
[編集] ベルギー
ベルギーでは近年王制廃止論が唱えられ、主にフランデレン人の右翼によって行われている。
[編集] 君主制が廃止された国
[編集] イタリア
第二次世界大戦後の1946年に、サヴォイア王家がムッソリーニ独裁を許した責任を問われ、ほんのわずかの差であったが、国民投票で王政廃止が決まり、ウンベルト2世はポルトガルへ亡命した。その後、イタリア共和国憲法でサヴォイア王家直系男子のイタリア再入国禁止が決まり、2002年の憲法改正を経て、2003年までウンベルト2世の息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアは、イタリアへ帰国することができなかった。
[編集] ギリシャ
かつてギリシャ軍事政権期には政情が不安定であったが、1973年に王制が廃止されて国王コンスタンティノス2世が亡命してからは政情が安定している。国王が亡命中の1973年、王制廃止の是非を問う国民投票が行われた結果、共和制派が多数を占めた。
[編集] イラク
イラクはハーシム家の王制であったがバアス党のクーデターによって王族が虐殺され、王制が廃止となった。
[編集] イラン
イランは1978年にイラン革命が起こりパフラヴィー朝が廃され、イスラム共和制になった。
[編集] エジプト
エジプトではガマール・アブドゥン=ナーセルら青年将校によるクーデターが起こり、王制が廃止となった。
[編集] アフガニスタン
アフガニスタン国王ザーヒル・シャーが外病気療養のためローマに滞在中に軍部のクーデターが起こり、王制が廃止となった。1996年、ターリバーンがカリフを元首とする君主制を目指し「アフガニスタン・イスラム首長国」と国名を変更したが、2002年にターリバーン政権崩壊、2004年に正式に共和制を取り戻した。
[編集] リビア
リビア国王イドリース1世が病気療養でトルコに滞在中にカッザーフィーと同志の将校たちによるクーデターが起こり、王制が廃止となった。
[編集] モルディブ
モルディブは1965年、イギリスの植民地から独立し、1968年、国民投票によりスルタン制を廃止し共和制に移行した。
[編集] エチオピア
エチオピアでは1973年、政情不安から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月、軍部によって逮捕・廃位させられた。軍部は翌年帝政を廃止し、社会主義国家建設を宣言して戒厳令を敷き、1987年には労働者党一党独裁のエチオピア人民民主共和国を樹立した。
[編集] ネパール
ネパールでは2001年に王族殺害事件が起こり、新たに国王に就任したギャネンドラ国王は議会を解散し、自分に忠誠を誓う者のみを主要閣僚に任命し、専制政治を行った。そのため、ネパールの主要各政党は国王に反発し、各地で抗議行動を行ったほか、ネパール共産党毛沢東主義派(中国政府は一切の関わりはないと否定している)が各地でテロを行うなど、政情が混乱した。このため、ギャネンドラ国王は議会の復活と新憲法制定を約束し、事態を収拾させた。
2008年5月28日、ネパール制憲議会が招集され、連邦共和制に移行することを宣言し、王制が廃止されることになった。
[編集] 君主制支持の動き
[編集] タイ
タイ王国では政治家同士の対立によって流血騒動が起きたとき、プミポン国王の鶴の一声によって騒動が一気に鎮静化したため、タイ国民の国王に対する信頼は以前にも増して高まっており、タイでは王制廃止はほとんど唱えられていない。ただし、タイで王政廃止の主張が展開されない理由として、タイでは王制廃止を目指す共産主義政党が最近まで非合法政党とされていたことや、不敬罪規定により王室批判は事実上不可能であることも指摘されている。2007年3月には、YouTubeに投稿された、プミポン国王の顔への落書き映像が“不敬である”として、政府が削除要請を拒否したYouTubeへの接続を遮断した[2]。
[編集] リヒテンシュタイン
リヒテンシュタイン公国はヨーロッパ最後の絶対君主制国家と言われているが、ナチズムの台頭を君主大権の発動によって封じ、その結果中立を保つことができたためであるとされている。
[編集] 君主制が復活した国
[編集] カンボジア
カンボジア内戦が激しく、そのため政情が極めて不安定になったため、国民を統合する象徴として、ノロドム・シハヌーク(いわゆるシハヌーク(シアヌーク)殿下)の人気が高く、シハヌークを国王とするため、新たに立憲君主制国家としてスタートした。
[編集] スペイン
独裁政治を行っていたスペイン総統フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデの死後、フアン・カルロス1世が国王の座に就任したが、カルロス1世は国内の民主化を進め、1978年に立憲君主制国家に移行させた。立憲君主制が、民主主義の側面を打ち出しているケースの一例。ただ、共和制を目指すカタルーニャ共和党も存在する。
[編集] 君主制と共和制との関連
君主制と共和制では後者の方がより民主的である。しかし君主制にも憲法を立て君主権を制限した立憲君主制と絶対君主制との違いがあり、前者では不敬罪などが存在せず国民の合意によって君主制が支持されている場合充分民主的運営がなされうる。共和制は一般に最も民主的と思われているが、ジャコバン派統治下のフランス・旧ソ連・中華人民共和国・北朝鮮・フセイン政権下のイラクなど共和国においても独裁的な政治が行われる例が多くある。また、共和制自体に対する理念が国民にとって十分な理解が得られているかいないかによって運用が成功するか失敗するかが決まり、実際このような理解の欠如からドイツのヒトラーの様に独裁を生んだ事例がある。
[編集] 君主制の廃止に繋がった革命
[編集] 脚注
- ^ 次期国王にウィリアム王子を=王室には愛着-英世論調査 時事通信、2007年12月29日閲覧.
- ^ アサヒコム記事

