ネパール王族殺害事件

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事件が発生したカトマンズのナラヤンヒティ王宮

ネパール王族殺害事件(ネパールおうぞくさつがいじけん、英語:Nepalese royal massacre)は、2001年6月1日ネパールの首都カトマンズナラヤンヒティ王宮で発生した事件ディペンドラ王太子(事件直後、危篤状態のまま名目上は国王に即位し死亡)が父・ビレンドラ国王ら多数の王族を殺害したとされる事件である。現場名称を取ったナラヤンヒティ王宮事件とも呼ばれる。

公式発表による事件のあらまし[編集]

国王ビレンドラの末弟・ディレンドラ王子(銃撃されて負傷し、事件の3日後に死亡)の娘婿で、現場に居た国軍のシャヒ大佐の証言を元として、6月14日に政府の調査委員会が国王に提出・発表した[1]

かねてより、ディペンドラ王太子は結婚(希望)相手であったデブヤニ・ラナについて国王や母・アイシュワリャ王妃らに反対されていた。特に王妃はラナ家と敵対関係にある家系の出身であったため、強く反対していたという。6月1日に開かれた王族の晩餐会(毎月一回定例で開催されており、この事件によって初めてその存在が明らかになったという)でこの問題が話し合われ、結婚に反対する国王と王妃は、王太子の王位継承権を剥奪するとまで発言した。部屋に戻った王太子は再び会場に現れると銃を乱射、自身も直後に銃で自殺を図った。この事件により、ビレンドラ国王夫妻、第二王子ニーラージャン、王女シュルティ、王の姉シャンティとシャラダ、シャラダの夫、王弟ディレンドラ、従兄弟ジャヤンティーの9人が射殺された[2]

疑惑[編集]

この事件はあまりにも突発的な上、公式発表および政府のその後の対応においていくつかの不可解な点があるとされる。

  • 王族が全員集合していたのにビレンドラの弟・ギャネンドラだけが欠席していたこと[3]
事件発生当時、ギャネンドラは地方視察の途中で、ポカラの別荘に滞在していた。
  • 出席していた王族の中でもギャネンドラの家族が全員生き残ったこと。
息子のパラス王子は無傷[4]、妻のコマル妃も足を負傷したのみ。シャヒ大佐の証言によれば、パラス王子は女性達を背後にかばって「英雄的働き」をしたという。
  • 周囲を警護していた国軍(入室は許可されていなかったという)が物音に気づかなかったという点。
  • ディペンドラの不自然な自殺の仕方。
銃による自殺でとされるが、弾丸が後部から入っており実行しようとするとかなり無理な体勢をとらなければならない。また、銃弾は右利きだったディペンドラの左側頭部から右側頭部にかけて貫通していた[5]
  • 死亡した王族の葬儀が性急かつ非公開で行われた点。
通常、国家元首や王族が死亡すると外交的にも国内的にも大々的な式典がおこなわれる(昭和天皇大喪の礼など)のが通例だが、本事件後はそういった儀礼が一切なく、また国民にも非公開のうちに事件後数日で行われた。

真相の推測[編集]

事件の真相については、「親派の王弟ギャネンドラがアメリカやインドの後押しを受けて、親派のビレンドラ国王・ディペンドラ王太子らを抹殺した宮廷クーデター」との説がある[6]

ネパール共産党の最高幹部バーブラーム・バッタライは有力紙『カンティプル』で、<新たな"王宮大虐殺事件"を認めるわけにはいかない>との題で論評を出し、この事件の真相に疑問を持つ国民の声を代弁した[7]。王宮大虐殺事件とは、かつてラナ家のジャンガ・バハドゥル・ラナが王宮で主要な重臣を抹殺し王をも凌ぐ権力を手に入れて、一族による宰相位の世襲を実現化した事件であり、バッタライはこの事件と同様に今回の事件もギャネンドラが政権奪取するために行ったクーデターであると示唆した[8]

カゲンドラ・サングラウラもまた、<第二の王宮大虐殺事件―政府の秘密主義に国民は霧に迷った鳥>との題で『カンティプル』に論評を出し、政府に対して真相解明を求めている[9]。また、サングラウラはこの事件に無傷で生き残ったギャネンドラの息子パラスへ疑いの目を向けている[10]

事件については現在に至るまで情報が錯綜しており、例えばアメリカのディスカバリーチャンネルで放送された「Zero Hour」シリーズの「ネパール王室の惨劇」ではディペンドラの自殺方法が上記のように頭の後部ではなく「王子は右利きであるが、銃弾は左から頭を打ちぬいていた」とナレーションされている。

有力紙『デシャンタル』でもディペンドラを検死した医師らの証言をもとに、右利きのディペンドラの左側頭部から右側頭部にかけて銃弾が貫通しており自殺説に疑問が残ること、また事件時に泥酔状態であったとされるディペンドラからはアルコールが検出されなかったことが述べられている[11]。さらには、現場では王太子の使用した自動小銃も含めライフル銃など4種類の銃器が発見されたことから、事件がディペンドラの単独犯行ではなく複数犯行であったのではないかと疑問を投げけている[12]

司法解剖が行われなかったと言う点もあわせ、様々な噂が流れているため、真相の究明は困難である。ただ、佐伯和彦は謀殺の疑惑を覆す証拠もなく、謀殺であったのかなかったのかその真相は五里霧中に隠れているとしつつも、王宮内の長い権力闘争の歴史をたどれば今回の事件は決して特異な例ではなく、特に驚くことでもない、と述べている[13]

事件の結果[編集]

ネパールは国王マヘンドラの治世から専制君主制で、また地方では封建的な制度が残っており、毛沢東派勢力派の共産軍が農村部で王政の転覆と共産革命を目指して内戦を起こしていた。そのような背景のなか、国王ビレンドラがこれまでの専制君主制から立憲君主制の議会民主主義への緩やかな移行を宣言し、1990年には憲法改正が行なわれ、選挙選出による議会制度も導入されていた。ただし、国王の君主大権が非常に強く残っており(例えば大抵の政府機関には「陛下の~」という接頭辞がついており、また国軍は議会や内閣ではなく国王に直属していた。

ビレンドラ国王が民主的な国王として国民に慕われていたなかで、国王夫婦や王太子、他の王族が死亡しただけでなく、その弟ギャネンドラによるクーデターではないのかとの陰謀説も飛び交い、王室そのものの威信が大いに失墜した。事件の不自然さに加え、ギャネンドラの家族が全員無事だった事と彼がビレンドラ国王の民主化に唯一人強硬に反対を唱えていた事がこの陰謀説を有力めいたものにしている[14]

事件当日、ビレンドラが即死していたため、陸軍病院に搬送されていたディペンドラが意識不明のまま王位を継承し、ギャネンドラが摂政となった[15]。4日未明、ディペンドラが死亡し、その日のうちにギャネンドラの王位継承が国家評議会によって認められた[16]。ネパール王国は初代プリトビ・ナラヤン・シャハの創始以来、王位はずっと一貫して父から子へと継承されてきたが、傍系からのギャネンドラの継承は王国の政体に変質を生じさせた[17]

だが、その継承は祝福されものではなく、2人の国王の死に不信感と疑惑を持つ民衆らが首都カトマンズに集結し、ギャネンドラ即位の反対集会が開かれ、死者が出る騒ぎとなったた[18]。また、事件の真相を新国王によるクーデターと訴えたバッタライは反逆罪に問われ、彼の論評を掲載した『カンティプル』の編集長も逮捕された[19]。後日、ネパール政府は人権団体や米国の批判を受けて、編集長を釈放した[20]。ビレンドラによる民主化により、ネパールでは高度な言論の自由が憲法で保障されていたため、このことは国民に衝撃を与えた。

数少ない生存者であるギャネンドラは王位についたものの、いつまでたっても政党間でいがみ合いらちのあかない議会政治に失望し、また毛沢東派勢力の制圧が進まないことを理由に、同年11月26日非常事態宣言を発令して議会を停止し、内閣を側近でかためるなど専制的な政策をとった[21]

だが、只でさえ不人気で人望の無かったギャネンドラは結局、この事で国内外からの強い反発を招き、マオイストによるネパール内戦を激化させたばかりか、2006年4月の大規模な民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)への引き金を引いてしまった。結果、同年5月18日に国王の政治的特権はすべて剥奪され、元首ですらなくなった。

さらに2008年5月28日制憲議会共和制が議決、王制は廃止されギャネンドラは退位することになり、ネパール王国(ゴルカ朝)はその長い歴史に終止符を打った。しかし、ネパールの新政府は議会において主義主張が相容れない状態で政党が乱立している状態で、政情は王政廃止後も依然として不安定であり、この事件が現在のネパール政治に与えた影響は甚大である。

引用[編集]

  1. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.679
  2. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.678
  3. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.678
  4. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.678
  5. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.679
  6. ^ 新潮45』2001年12月号「ネパール国王暗殺の真相と『毛沢東の息子たち
  7. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.680
  8. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、pp.680-681
  9. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.694
  10. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.694
  11. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.679
  12. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.679
  13. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.681
  14. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.680
  15. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.678
  16. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.679
  17. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.681
  18. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.679
  19. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.680
  20. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.680
  21. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.628

参考文献[編集]

  • 佐伯和彦 『世界歴史叢書 ネパール全史』 明石書店、2003年 

関連項目[編集]