マルクス・トゥッリウス・キケロ

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マルクス・トゥッリウス・キケロ
Marcus Tullius Cicero
Cicero - Musei Capitolini.JPG
マルクス・トゥッリウス・キケロ胸像
誕生 紀元前106年1月3日
アルピヌム
死没 紀元前43年12月7日(満63歳没)
フォルミア
職業 政治家哲学者
国籍 共和政ローマ
代表作 『国家論』『法律』『義務について』他
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マルクス・トゥッリウス・キケロラテン語: Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日 - 紀元前43年12月7日)は、共和政ローマ期の政治家文筆家哲学者である。

生涯[編集]

順風満帆な出発[編集]

祖先に顕職者を持たない「新人」でアルピヌムの出身であった。キケロは若い頃、友人に無名の家名(キケロ家)を避けた方が良いとアドバイスを受けたものの、「私自身の手でスキピオ家やカトゥルス家より有名にしてみせる」と語ったという。

弁論家ポセイドニオスに師事。紀元前81年に弁護士としての活動を始めたものの、当時ローマの終身独裁官であったルキウス・コルネリウス・スッラの威勢に刃向かうような弁護を引き受け勝訴した為、アテナイへと一時期逃れて、弟クィントゥスと共にアカデメイアを訪れた。キケロにとって終生の友人となるティトゥス・ポンポニウス・アッティクスがアテナイに居を構えていたことから、この頃に出会った可能性もある。

『カティリナ(右端)を追及するキケロ(左側手前)』、"Cicerone denuncia Catilina"、イタリア人画家チェーザレ・マッカリ英語版による1888年の作

スッラの死後は再びローマへ戻り、紀元前76年クァエストル(財務官)に就任、シキリア属州リリュバエウム行政区を担当する。紀元前70年アエディリス(按察官)在任時に、シキリア総督ガイウス・ウェッレスラテン語版イタリア語版英語版によるシキリアでの苛斂誅求を断罪。このときの弁論を加筆修正したものが『ウェッレス弾劾演説英語版』として現存し、その当時の属州政治の内実を知るための貴重な資料となっている。この裁判で当時名声を博していたクィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス英語版を相手に勝利したことから一躍名声を上げ、紀元前66年プラエトル(法務官)を経験した後、紀元前63年執政官に就任。執政官在任中に起きたルキウス・セルギウス・カティリナ一派による国家転覆未遂事件においてマルクス・ポルキウス・カトらの助力を得て首謀者を死刑とする英断を下し元老院から「祖国の父」(pater patriae) の称号を得る。

また、紀元前75年のシキリア属州への赴任時期に、アルキメデスの墓を発見している。

追放と政治的苦境[編集]

しかし、ローマ市民は市民による裁判を受けなければ死刑に処されることはないというローマの法に反したこの決断は越権行為という批判がなされ、紀元前58年護民官に就任したプブリウス・クロディウス・プルケルの訴追によりローマからの逃亡を余儀なくされる。

翌年にはキケロ召還決議が可決しローマに凱旋帰国する。その後はグナエウス・ポンペイウスガイウス・ユリウス・カエサルマルクス・リキニウス・クラッススによる第一回三頭政治に反対した。一方でクロディウスがパトリキ出身でありながら護民官に就任したことは違法であり、クロディウスが護民官時期に行った施策は無効である旨を表明したところ、カトはこれに激しく反発した為、カトとの仲が冷却化した。

紀元前51年から49年まで政情不安に陥っている小アジアキリキア総督を拝命し、同地で内乱の処理に当たる。紀元前49年から始まったカエサル派とポンペイウスらの元老院派による内戦では当初中立を保ったが、カエサルがヒスパニアで苦境に陥っていたことからポンペイウス側に身を投じた。元老院派は日和見的なキケロの対応を白眼視して重要な任務を与えなかった為、キケロは愛想の無い顔で歩き回っては元老院派陣営の空気を冷やすような冗談を提供した。

紀元前48年8月、元老院派がファルサルスの戦いで敗北すると、キケロはマルクス・テレンティウス・ウァロらと共に元老院派を離脱したが、離脱に際しても無責任で身勝手な対応に終始した為、カトの制止が無ければ、小ポンペイウスに殺害される所であった。後にカエサルにより許されたが、以降は政治から離れて学問に専念し、アッティクスの協力も得て数々の著作を世に送り出した。紀元前46年4月にウティカでカトが自害したが、キケロはカトの生き様を誉め讃えた『カト』を発刊した。同時期にカエサルも『反カト』を発刊したが、共に現存していない。

他の元老院議員達とは違い、独裁者に変貌していくカエサルや共和政ローマの崩壊を目の当たりにして不安を覚えていたことは『アッティクス宛書簡集』等から読み取ることが出来る。

アントニウスとの対決と暗殺[編集]

紀元前44年3月15日にカエサルが暗殺された際、キケロは直接には関らなかったものの暗殺者を支持しており、数日後にブルトゥス等の暗殺者との会談を行っている。カエサル暗殺後にカエサルの後継者に座ろうとするマルクス・アントニウスに対抗するために当時は一平民だったオクタウィアヌスを政界に召喚し彼の人気を後ろ盾に『フィリッピカ』と題する数次にわたるアントニウス弾劾演説を行う。

しかし、アントニウスとオクタウィアヌスの間に第二回三頭政治が成立したことにより失脚。オクタウィアヌスがキケロを亡き者にしたいアントニウスの要求に屈して、プロスクリプティオ‎によりキケロを名簿に公示した為、キケロはローマから逃げざるを得なかった。キケロはブルトゥスらが勢力を持っていたマケドニア属州へと向かったものの、紀元前43年12月7日、アントニウスの放った刺客により殺害された。このときキケロの首だけでなく右手も切取られて、ローマのフォルムに晒されることとなった。

アクティウムの海戦に敗れたアントニウスが自死した紀元前30年にキケロの息子マルクス(小キケロ)はローマの執政官であったが、小キケロは在任中にアントニウスの一切の名誉を取り消し、アントニウス家の者は今後「マルクス」の名を使うことを禁ずることを可決した。

キケロの政治構想と後世の評価[編集]

1560年発刊の『義務について』

キケロはカエサルと並ぶラテン語散文の名手であり、その完成者といわれる。彼の著作は多岐にわたり、演説や書簡でも知られている。彼の文学者としての評価および政治思想家としての評価は定まっており、今日でも注目を浴び続けている。しかし、政治家としてはいくつかの欠点があり、その政治行動と業績については評価が分かれる。

キケロはカエサルとは異なり、共和政の範囲内でローマ社会の改革を企てており、『国家論』『法律』『義務について』の中で、第一人者(プリンケプス)の指導により元老院と平民との融和を図った。更にローマ法についてもギリシア哲学を基に今までの事例中心だったローマ法を体系的に再編成する等の作業を通じ、共和政の中身を改革することを政治課題としていた。しかし、それが皮肉にもアウグストゥスによる元首政の構想に引き継がれる事となった。

キケロには多くの弁論、演説が現存する。なかでも反乱謀議のかどでカティリナを弾劾した元老院演説『カティリナ弾劾演説』は有名である。その他『国家論』『法律』『友情について』『老年について』『神々の本性について』『予言について』などがある。家族・友人に送った書簡も数多い。その思想は当時ローマで主流だったストア哲学にローマの伝統的価値観を取り込んだ折衷的なものとして知られる。たとえば『義務について』ではストアの義務論を、賢人にのみ可能な善の実践としての義務と一般人にも可能な日常好ましいことの実践としての義務 (officium) の履行に換骨奪胎している。

更にキケロの思想を巡る歴史はそのままヨーロッパの思想史を説明することにもなるくらい後世のヨーロッパに影響を与えた。14世紀イタリア人文主義、とりわけフランチェスコ・ペトラルカが賞揚して以来その文体はラテン文学の規範とされ、14世紀イタリアルネサンスは『アッティクス宛書簡集』に見られる作品と作者の内面のズレを発見したペトラルカを以て開始されたと言っていい。そして、キケロはルネサンスやフランス啓蒙主義、更にはフランス革命に至るまで、知識人たちにおける必読文献とされ、ニッコロ・マキャヴェッリフーゴー・グローティウスシャルル・ド・モンテスキューヴォルテールの思想にも大きな影響を与え、キケロを以て共和主義民主主義の象徴とする動きが連綿と続いた。

しかしキケロに対する関心は19世紀以降低下をはじめ、「大革命」のシンボルとしてキケロを重視していたフランスに対抗する形で、特にドイツにおいてニーブールヘーゲル等による組織的批判が始まり、19世紀後半の熱烈なカエサル支持者であったモムゼンによってその批判は頂点を迎える。

現在でもキケロに関する研究は地道に進められている。日本語訳は近年まで、岩波文庫などで数冊訳された位だったが、1999年に、岩波書店から『選集』が出され、併せて日本人による研究書が刊行されている。新訳が岩波文庫でも刊行された

プルタルコスの伝記ではデモステネスと比較され、キケロ自身もアントニウス弾劾の演説にデモステネスのピリッポス2世を弾劾したものと同じ『フィリッピカ(ピリッピカ)』と名付けた。

『アルキメデスの墓を発見したキケロと行政官』、"Cicero and the magistrates discovering the tomb of Archimedes."、アメリカ人画家ベンジャミン・ウエストによる1797年の作

著作[編集]

  • 弁論家について』(De oratore)(紀元前55年)全3巻
  • 国家論』(De re publica)(紀元前54年紀元前51年)全巻の3分の1が現存
  • 法律』(De legibus)(紀元前52年紀元前51年
  • ストア派のパラドックス』(Paradoxa Stoicorum)(紀元前46年
  • 慰め』(Consolatio)(紀元前45年
  • ホルテンシウス』(Hortensius)(同上)散逸
  • カトゥルス』(Catulus)(同上)散逸
  • 善と悪の究極について』(De finibus bonorum et malorum)(同上)全5巻 - Lorem ipsumの原典
  • アカデミカ』(Academici libri)(同上)全2巻うち第1巻の4分の1及び第2巻が現存
  • トゥクルム荘対談集』(Tusculanae disputationes)(同上)全5巻
  • 神々の本性について』(De natura deorum)(同上)全3巻
  • 予言について』(De divinatione)(紀元前44年)全2巻
  • 大カトー・老年について』(Cato major de senecutute)(同上)
  • 宿命について』(De fato)(同上)未完
  • ラエリウスまたは友情について』(Laelius de amicitia)(同上)
  • 栄光について』(De gloria)(同上)散逸
  • 義務について』(De officiis)(同上)全3巻

日本語訳[編集]

  • キケロー選集』(全16巻) 岩波書店 1999-2002年 
  • 『キケロー書簡集』 岩波文庫 2006-以下(訳書)も上記が元版
  • 『キケロー弁論集』 岩波文庫  2005年
  • 『弁論家について』 岩波文庫上下  2005年
  • 『友情について』 岩波文庫 2004年

参考文献[編集]

  • 村川堅太郎編訳(訳者代表)、『プルタルコス 英雄伝〈下〉』 新版ちくま学芸文庫
  • ピエール・グリマル高田康成訳 『キケロ』 白水社〈文庫クセジュ〉、1994年
  • 高田康成 『キケロ ヨーロッパの知的伝統』 岩波新書、1999年
  • アントニー・エヴァリット、高田康成訳 『キケロ もうひとつのローマ史』 白水社、2006年
  • クリスチャン・ハビヒト、長谷川博隆訳 『政治家キケロ』 岩波書店、1997年
  • 角田幸彦 『キケロー 新書 人と思想』 清水書院、2001年
    • 『キケロー伝の試み キケローとその時代』 北樹出版、2006年
    • 『キケローにおける哲学と政治 ローマ精神史の中点』 北樹出版、2006年
    • 『体系的哲学者キケローの世界 ローマ哲学の真の創設』 文化書房博文社、2008年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]