カティリナ弾劾演説
カティリナ弾劾演説(Catiline Orations)は、紀元前63年にルキウス・コルネリウス・スッラの副官であったルキウス・セルギウス・カティリナのクーデター計画に対しマルクス・トゥッリウス・キケロが告発、首謀者であるカティリナに対する弾劾演説である。ローマ最高の弁護士として名声の高かったキケロの演説の中でも、特に名演説として知られている。
演説は、全部で4つの演説で構成され、一貫してカティリナ及びその一派の陰謀に対する糾弾とローマ市外への追放を含め厳罰をもってあたることを主張した。
- 第1演説:元老院議会での演説(紀元前63年11月8日)
- 第2演説:市民集会[1]での演説(紀元前63年11月9日)
- 第3演説:市民集会での演説(紀元前63年12月3日)
- 第4演説:元老院議会での演説(紀元前63年12月5日)
目次 |
[編集] 背景
[編集] 当時の政治状況
クーデターの首謀者カティリナはパトリキ(貴族階級)出身で、前82年の政変ではスッラの副官として行動し、政務官職を歴任、前68年には法務官まで昇進した。さらに執政官の地位を求め選挙出馬への意欲をみせるも、前66年、前65年の選挙には、属州総督時代の不正を告発されて立候補を断念。翌前64年の選挙にようやく立候補の資格が認められるも、2名の執政官ポストに対して7名が立候補する乱戦となり、さらにキケロを含む政敵からの妨害工作(ネガティブキャンペーン)も重なり落選した。
翌前63年に再び立候補し、今度は貧困層(急進派)を取り込むべく「借金の棒引き」を公約に選挙戦を臨むも、貧困層の債権者であり、もう一方の当事者側である多くの有力元老院議員[2]を含む富裕層からの反感を買い、さらにキケロを中心とするネガティブ・キャンペーンにより落選。逆に保守派の支持によりキケロが執政官に再選された。これら一連の選挙活動の結果、カティリナは執政官職への就任を果たせず、彼の元には膨大な借金のみが残ることとなった。
政治的にも経済的にも追い込まれたカティリナにとって、もはや選挙による合法的な手段は残されておらず、政権獲得のために残された道は、非合法(武力)によるクーデター以外に方法がない状況に追い込まれてしまう。その後、さらにキケロの暗殺を含むカティリナのクーデター計画に関する密告により、当時の執政官であったキケロは対策を協議するために元老院議会を召集する。
ところが、意外なことに渦中の当事者であるカティリナも当議場へやってきて、クーデター計画を否定し、身の潔白を証明するためにキケロや元老院の前に現れたのである。予想しえない展開に元老院議会の出席者らはしばし困惑するも、キケロは議会内で第1演説を行い、カティリナへの厳然とした態度を表明する。
[編集] 第1演説(前63年11月8日 元老院議会の議場にて)
議場でキケロは第1演説を行い、カティリナを糾弾するとともに、カティリナのクーデター計画は、さまざまな証言や言致からもはや明白な事実であるとして、カティリナに対して即刻ローマ市から立ち退くことを要求した。[3]
このキケロからのカティリナ追放要求に対して議場からは特に反論の声もなく、カティリナはローマ市外へと落ち延び、さらに自身の支持母体であり、叛乱勢力のいるエトルリア方面へと落ち延びてゆくこととなる。
[編集] 第2演説(前63年11月9日 市民の集う中央広場にて)
カティリナのクーデター計画と元老院議会での次第を広く市民へ知らせることを目的として、キケロはローマの中心にある中央広場にて第2演説を行った。キケロは演説の中で、カティリナに対するローマ市からの追放を宣言する。その上でキケロは、ローマ市内には未だカティリナのような叛乱を起こしうる(潜在的な)勢力が居座っているとして、これらの勢力を6つのタイプに分類した上で、未だローマ市内にもクーデーターや叛乱を起こしうる勢力があり、潜在的な危険は去っていないとして、市民に注意喚起を求めた。
その後、12月3日の元老院議会にて、ローマ市内に居住するカティリナ一派による陰謀の事実が判明し、首謀者が逮捕されるという出来事があった。キケロはこの事実をもってローマ市内におけるクーデターが未然に防がれたとして、再び市民の前に現れ、事態の経過について報告を行った(第3演説)。
[編集] 第3演説(前63年12月3日 市民の集う中央広場にて)
キケロはローマ市内で発生したクーデター未遂に係る事態の経過について報告した。冒頭キケロは、"ローマ市民諸君。今日、国家は救済された。”と述べ、今回のクーデターを未然に防いだことに対する自らの功績を示した。
ところが、演説の翌日にローマ市内で陰謀を企てた罪で逮捕され別々の場所に監禁中であった首謀者5名を奪還を企てる動きが発生した。キケロは首謀者らの処断を早急に行う必要性を説き、彼自身は首謀者の死刑が相当であると考えていた。しかしながら、当時の次期法務官であったカエサルが、ローマ市民への死刑判決はローマ市民で構成される「民会」(裁判)でのみ決定され、元老院議会や執政官にはその権利を行使する権限がないこと、むしろ首謀者らを終身刑に処するのが厳しい処断であるとして、首謀者に対する死刑に反対し、彼の見解が元老院議会の賛同を集めたことから、キケロは元老院議院にて死刑の妥当性について説明することとなった(第4演説)。
[編集] 第4演説(前63年12月5日 元老院議会の議場にて)
キケロは演説において、今回の(クーデター首謀者に対する)処断が差し迫った事態であるとの認識を示した上で、次期執政官デキムス・シラヌスの死刑提案とカエサルの示した対案(終身刑)とを比較し、ローマの国益のためには死刑が相当であること、国家に対して反逆を企て、国家の敵となった首謀者たちは、もはや「ローマ市民」たりえず、今回の場合にはローマ市民の死刑に対する法的権限は民会のみという原理原則は当てはまらないとの認識を示した上で、死刑こそが最善の選択である、と結論付けた。
この後、死刑を主張するキケロの意見を支持する次席護民官の小カトーの提案が採択され、即日首謀者らに絞首刑が執行された。
[編集] その後
弾劾演説のあった翌年の前62年1月、カティリナは叛乱軍を率いて武力によるクーデターを企図するも、あえなく鎮圧され、3,000名の兵士とともに玉砕した。
一方、今回の件で主導的役割を果たし、声高に業績を主張したキケロ自身も、今回のクーデター首謀者らに対する死刑判断がいささか強権的であり、市民の生命に係る判決は、民会の法的権限において実施されるという原理原則に反するとの批判を受け、自らもローマを追われ、国外へ亡命することを余儀なくされることとなった。