プブリウス・クロディウス・プルケル

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プブリウス・クローディウス・プルケルラテン語: Publius Clodius Pulcher, 紀元前92年 - 紀元前52年1月18日)は、共和政ローマ期の政治家ティトゥス・アンニウス・ミロマルクス・トゥッリウス・キケロとの確執で知られる。父アッピウス・クラウディウス・プルケル執政官を務め、母バレアリカはカエキリウス・メテッルス家出身で、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスは母方の曾祖父に当たる。

第三次ミトリダテス戦争では同族のルキウス・リキニウス・ルクッルスの許で従軍、ルキウス・セルギウス・カティリナ一派による国家転覆の陰謀の際はキケロの護衛役を務めた。

紀元前62年、男子禁制のボナ・デアの祭りが最高神祇官ガイウス・ユリウス・カエサルの家で行なわれた際、クローディウスはカエサルの妻であったポンペイアと情交を結ぼうとしてカエサルの家に侵入した。しかしすぐに見つかり「神への冒瀆」として告発された。このときカエサルはクローディウスを庇い、以降クローディウスはカエサルの支持者となっていく。一方、この裁判でクローディウスのアリバイを虚偽と証言したキケロに対しては敵意を持ちつづけることとなった。

翌年に財務官に就任、紀元前58年護民官に立候補、パトリキ系の貴族クラウディウス氏族の出身ながらプレブスに移りクローディウスと名を変え、護民官に就任した。背後に元老院派と対抗するためのカエサルとマルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウス第一回三頭政治の後押しがあった。護民官としてカティリナ事件の際にローマ市民を裁判なしで処刑にしたキケロを糾弾し、キケロ追放の決議を導いた。また、マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスキプロス併合のため派遣したり、民衆に無料で食料配給する法律を通したりするなど民衆派として活動、元老院派と対立していった。

カエサルが権力への野望を示しポンペイウスら元老院派と対立するようになると、ローマでカエサルのために働くクローディウスに対抗して元老院派はミロを護民官としてより過激な政策で民衆を味方につけようとした。このクローディウスとミロはそれぞれ自身の支持者を使いしばしば抗争を起こし、紀元前52年、ミロの一団と衝突したクローディウスはミロによって殺害された。

三頭政治はクラッススのパルティア遠征の失敗による戦死とポンペイウスに嫁いだカエサルの娘ユリアの急死で崩壊していて、クローディウスの殺害でカエサルと元老院派と手を組んだポンペイウスとの対立は決定的となり、紀元前49年ローマ内戦が勃発することになる。

参考文献[編集]