デジデリウス・エラスムス

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デジデリウス・エラスムス
エラスムス画像
『1523年のエラスムス』(ハンス・ホルバイン作)
別名 ロッテルダムのエラスムス
生誕 1466年10月27日
死没 1536年7月12日(満69歳没)
バーゼル
時代 ルネッサンス
研究分野 キリスト教哲学、ルネッサンス人文主義
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デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年10月27日 - 1536年7月12日)は、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。ラテン語名には出身地をつける当時の慣習から「ロッテルダムのエラスムス」とも呼ばれる。なお、名前の「エラスムス」は洗礼名でカトリック教会聖人フォルミアのエラスムス(Erasmus of Formiae)からとられているが、「デジデリウス」は1496年から自分自身で使い始めた名前である。

主な著作に『痴愚神礼賛』(Moriae encomium)、『エンキリディオン』(キリスト教戦士の手引き、Enchiridion militis Christiani)、『平和の訴え』などがあり、著作の中では一貫して「キリスト者の一致と平和」をテーマとした。また、エラスムスの『校訂版 新約聖書』(新約聖書のラテン語・ギリシア語対訳、Novum Instrumentum)は広く読まれ、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の原版になった。エラスムスの思想は宗教改革運動と対抗宗教改革運動の双方に大きな影響を与えた。『ユートピア』を著したトマス・モアとの親交や自由意志に関するマルティン・ルターとの論争でも知られる。

宗教改革の時代を生きたエラスムスは「カトリック教会を批判した人文主義者」と表現されることが多いが、実際にはローマ教皇庁を含めカトリック教会内に知己が多く、生涯を通してカトリック教会に対して忠実であり、カトリック教会の諸問題を批判しながらも中道を標榜してプロテスタント側に投じることはなかった。

エラスムスは1536年にバーゼルで逝去し、もともとカトリック教会のバーゼル司教座聖堂だった教会に埋葬された。

生涯と思想[編集]

生い立ちから青年期まで[編集]

1460年代の後半(1466年と1467年の二説がある)の10月27日、エラスムスは司祭であった父ロゲル・ゲラルド(Roger Gerard)と医師の娘で未亡人だったという母マルガレーテとの間に、私生児としてロッテルダム近郊のハウダで生まれた。[1]エラスムスにはピーテルという名の兄がいた。1483年に両親が伝染病によって相次いで世を去ると、親族の相談によって兄弟はスヘルトーヘンボスの寄宿学校へと送られた。寄宿舎は共同生活兄弟団の経営するものであったため、若きエラスムスは「デヴォツィオ・モデルナ」(Devotio Moderna:新しき信心)の精神の影響を受けた。

1487年、再び親族の意思に従ってデルフトに近いステインにあった聖アウグスチノ修道会の修道院に入った。このころからエラスムスはラテン語の古典に親しみ、イタリアに行きたいという望みをもつようになった。古典の素晴らしさを強調する著作『反蛮族論』はこの時代に書き始められた。このころエラスムスはキケロクィンテリアヌスといったローマ古典の大家やアウグスティヌスヒエロニムスのような教父たちの著作の研究に励んでいた。また、文体についてはロレンツォ・ヴァラルドルフ・アグリコーラから影響を受けていた。

エラスムスは修道会司祭として生きていくことが本意ではなく、修道会を離れる機会を狙っていた。彼は1492年に司祭叙階を受けると、卓抜したラテン語能力を認められてカンブレー(Cambray)の司教秘書に抜擢され、合法的に修道会を離れることができた。[2] 1495年にはカンブレー司教の許しを得、神学博士号の取得を目指してパリ大学へ入学し、モンテーギュ学寮に入った。(モンテーギュ学寮では後にジャン・カルヴァンイグナティウス・ロヨラも学んでいる。)1496年から「デジデリウス」という名を用いるようになり、『古典名句集』(Collectanea Adagiorum)の執筆を始めた。同書はギリシア・ローマの古典などから格言を集めながら、それらがキリスト教の知恵と一体的なものであることを示そうとしたものであった。

人文主義者としての名声[編集]

貧しかったエラスムスは学資を得るため、勉学のかたわら外国人学生の家庭教師を始めた。これが縁となって1499年にイングランドへ赴く機会を得、同地の上流社会に多くの知己を得た。その中にはエラスムスと同年齢ながら彼が師とあおぐことになる人文主義者ジョン・コレット(John Colet)、終生の友となった政治家トマス・モア、若きヘンリー王子(後のヘンリー8世)などがいた。ジョン・コレットは当時オックスフォード大学で教鞭をとっており、エラスムスは彼の聖書研究の方法論(当時の主流であったスコラ学的アプローチでなく、サン・ヴィクトル学派の流れを汲んでいた)に影響されている。ジョン・コレットはエラスムスのギリシア語の知識が不十分であるとし、さらに研鑽を続けるようすすめた。この頃からエラスムスの関心がギリシア・ローマの古典から、聖書と教父などのキリスト教的著作へと移っていく。1500年『古典名句集』の初版が、1504年には一般信徒向けの信心書である『エンキリディオン』 があいついで出版され、エラスムスは著作家としての名声を高めていった。さらに同年、ルーヴァンでロレンツォ・ヴァラの手による『新約聖書註解』の写本を見出したことは彼の人生の方向を決める出来事となった。[3]

1506年には念願のイタリア行きを果たし、訪れたトリノ大学で神学博士号を授与された。その後イギリスに向かうためアルプスを越えたが、その道中で『痴愚神礼賛』の構想を得たという。[4]これは古典をモチーフにしながら、エラスムスの風刺とユーモアの精神が遺憾なく発揮された作品となった。1509年以降、エラスムスは ケンブリッジ大学で教壇に立ち、イングランドの学会での名誉あるポストにつくよう何度か申し出がなされたが、自由な立場で研究を続けたかったエラスムスはそれを断った。

1514年イギリスを離れてスイスのバーゼルに到着したエラスムスは書店店主ヨハン・フローベン(Johan Froben)と知り合う。フローベンとエラスムスは意気投合し、以後のエラスムスの著作はフローベンの書店から出版されることになる。1516年に出版された『校訂版 新約聖書』(Novum Instrumentum) と9巻からなる『ヒエロニムス著作集』は学識者の間で高く評価され、人文主義者としてのエラスムスの評価を決定付けることになった。

1516年版のエラスムス校訂の新約聖書テキスト

『校訂版 新約聖書』の出版ではギリシア語テキストの出版の重要性および革新性が強調されることが多い。すなわち、「人文主義者エラスムスの手によって、西欧で初めて学術的に校訂されたギリシア語新約聖書が世に出た」というような言い方である。このような表現は、古典研究者であったエラスムスが当時のカトリック教会言語、学術言語であるラテン語を軽視し、新約聖書のオリジナル言語であるギリシア語を重視してその出版に力を注いだというような印象を与える。

だが、実際のエラスムスはこの聖書の出版においては、むしろ優れたラテン語新約聖書を世に出そうとラテン語版の校訂に力点を置いていた。実際、エラスムスの出版したギリシア語テキストは正文批判のレベルからすれば稚拙なものであった[5]。その理由はエラスムスが手にいれたギリシア語新約聖書がフィレンツェ公会議(バーゼル公会議)に参加した東ローマ帝国の聖職者によって西欧にもたらされたもの(ビザンチン写本)であり、テキストとしてはせいぜい12世紀にさかのぼるのがやっとのものであった(ヴルガータと呼ばれた当時のラテン語定本は古代のギリシア語版から翻訳されており、その痕跡を随所に残していた)。さらにエラスムスは『ヨハネの黙示録』の完全なギリシア語版を入手できなかったため、その一部を手元のラテン語版を見て自分でギリシア語に翻訳した。つまりエラスムスにとって『校訂版 新約聖書』に添付したギリシア語テキストの重要性はその程度のものだったのである。これに反して彼はラテン語テキストの校訂および新約聖書の注釈書の執筆には相当に力を入れている。[6]

エラスムスの思いと裏腹に、自信を持ってまとめたラテン語テキストより稚拙なギリシア語テキストのほうが広く受け入れられ、1521年にルターがドイツ語訳聖書を著したときに、1519年の第二版を底本として用いたこともよく知られている。[7]

このころのエラスムスが学者として高い評価を受けていたことは、1516年にブルゴーニュ公シャルル(後のカール5世)の名誉参議官に任命されていることからもうかがえる。また、当時のスペインの摂政ヒメネス・デ・シスネロスは自ら進めていた多言語対訳聖書(『王の聖書』、Complutensian Polyglot)の校訂のアドバイザーとしてエラスムスを招聘している。若き貴公子シャルルのためにエラスムスは『キリスト教君主教育』(Institutio pricipis Christiani) を著している。以後もアントウェルペンバーゼルルーヴァンなどをまわりながら研究・執筆活動を続けた。[8]

ルターとエラスムス[編集]

1517年に若き聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターが発表した『95ヶ条の論題』は本人の予想も超えるほどの大きな反響を呼び起こした。ルターが自分を尊敬し、自分の著作に影響されていたことを知ったエラスムスは当初、ルターとその「聖書中心主義」思想に対して好意的な態度をとっていた。このころ、ルターはエラスムスからの励ましを受けて感激している。エラスムスはルターが不当に断罪されることがないよう手を尽くしながらも、ルターに対して党派を作ったり、教会の分裂を引き起こさないよう自重を求めた。[9]

しかし、ルター自身の活発な活動により、事態は過激化・複雑化し、当時のドイツ情勢とからんで政治問題化していった。このような状態はエラスムスの想定を超えたものであり、徐々にルターとエラスムスの思想の違いが明らかになっていった。エラスムスはあくまでキリスト者の一致が最優先事項と考えており、教会の分裂を望んでいなかったのである。[10]結果的にエラスムスはルターに反対する立場の人たちとルターを支持する立場の人たちの両方から疎まれるという難しい立場に立つことになった。[11]

ヘンリー8世のアイデアとトマス・モアの書簡に触発され、エラスムスはカトリック教会内で古代から議論が続けられてきた自由意志の問題についての著作『自由意志論』(De lebero Arbitrio, 1524年)を執筆した。自由意志の問題はルター思想の骨子であったため、ルターはこれを看過できず、対抗する形で『奴隷意志論』(De servo Arbitrio) を発表。エラスムスはさらにそれに対する『反論』(Hyperaspistes, 1526年)を著しているが、結局これを最後にエラスムスは泥沼化したルター問題から手を引いた。

ロッテルダム大学にあるエラスムスの像

晩年とその評価[編集]

キリスト者の一致と平和を重んじたエラスムスにはキリスト教徒が分裂していくことは容認できなかった。しかし、プロテスタント運動の進展の中で反ルターと目されたエラスムスへの批判も高まり、エラスムスは1521年にルーヴァン大学を去り、バーゼルへ移った。のちにバーゼルで宗教改革が進展するとそれに耐えられずフライブルクへ移った。1535年になって再びバーゼルに戻ったが、翌年1536年7月12日に同地で死去した。死去に先立ってエラスムスは自らの遺産を市にゆだね、その利子を貧しい人々のために用いることを願った。

『痴愚神礼賛』はエラスムスの意図を離れて、反カトリック教会的書物として各国で利用されたため、のちにカトリック教会の禁書目録に加えられることになった。

「キリストの哲学」(Philosophia Christi)という言葉にあらわされるエラスムスの思想は、知識重視と衒学趣味に走っていた当時の神学に警鐘を鳴らし、聖書を本来の姿に近づけ、聖書を学んでキリストを知ることを最大の目標とするものであった。ここにはエラスムスが受けた「デヴォツィオ・モデルナ」の教育の影響を見て取ることができる。低地諸国で栄え、共同生活兄弟団などの活動に結実していたこの思想運動は信心書の傑作『キリストにならう』(トマス・ア・ケンピス著)によってよくあらわされているが、まさに「キリストにならう」ことをエラスムスも目指していたのである。また、当時の聖職者と信徒の間の格差が広がりすぎていた現実についても、エラスムスは聖職者と信徒が共に聖書に親しむことで解決できると考えていた。[12]

日本とのかかわり[編集]

エラスムス像(日本の重要文化財)、リーフデ号の船尾飾りであった。

1600年、今の大分県に漂着したオランダ船リーフデ号の旧名はエラスムス号であった。同船は、徳川家康の外交顧問として有名なウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶揚子。現在の東京都中央区八重洲の地名は彼にちなむ)が乗っていたことで有名である。同船の船尾には、エラスムスの木像が付けられていた。細かな経緯は不明だが、船の旧名と関係していることは類推できる。なおこの像は、栃木県佐野市の龍江院という寺が所蔵し、貨狄尊者(かてきそんじゃ)(「貨狄像」「貨狄観音」とも)の名でまつられていた(東京都台東区上野公園の東京国立博物館に寄託中)。

参考文献[編集]

主な著作[編集]

  • 『格言集』(Collectanea Adogiorum) 1500年:当初収録された格言は約800編だったが、後に格言の数を拡大して"Adagiorum Chiliades"(「千の格言」)と改題され、最終的には4,658の格言が収められた。
  • 『エンキリディオン』(キリスト教戦士の手引き、Enchiridion militis Christiani)1504年
  • 痴愚神礼讃』(Moriae encomium)1511年
  • 『校訂版 新約聖書』(Novum Instrumentum)1516年
  • 『キリスト教君主教育論』(Institutio pricipis Christiani)1516年
  • 『平和の訴え』(Querela pacis)1517年
  • 『対話集』(Collequiia)1518-33年
  • 自由意志論』(De lebero Arbitrio)1524年
  • 『ルターへの反論』(Hyperaspistes)1526年 : ルター『奴隷意志論』への反論

著作の日本語訳[編集]

  • 山内宣訳、『評論「自由意志」』、聖文舎、1977年(『自由意志論』の翻訳)
  • 渡辺一夫訳、『痴愚神礼讃』、岩波文庫、1954年、ISBN 4003361210
  • 大出晁訳、『痴愚礼讃 附マルティヌス・ドルピウス宛書簡』、慶應義塾大学出版会、2004年、ISBN 476641098x
  • 渡辺一夫・二宮敬訳、『改訂版 痴愚神礼讃』(中公クラシックス)、中央公論新社、2006年
  • 箕輪三郎訳、『平和の訴え』、岩波文庫、1961年、ISBN 4003361229
  • 『世界の名著17 エラスムス/トマス・モア』、中央公論社、1969年(「痴愚神礼賛」と「対話集」を含む)
  • 二宮敬編、『人類の知的遺産23 エラスムス』、講談社、1984年(『学習計画』、『パラクレシス』、『戦争は体験しない者にこそ快し』含む)
  • 金子晴勇・木ノ脇悦郎・片山英男訳、『宗教改革著作集2 エラスムス』、教文館、1989年、ISBN 4764231026(『エンキリディオン』、『ヴォルツ宛の手紙』、『新約聖書序文』、『キリスト者君主の教育』含む)

参考書籍[編集]

  • 斉藤美州、『エラスムス』(センチュリーブックス 人と思想62)、清水書院、1981年
  • ヨハン・ホイジンガ著、宮崎信彦訳、『エラスムス 宗教改革の時代』、筑摩書房、1965年/筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2001年、ISBN 4480086277
  • シュテファン・ツヴァイク著、内垣啓一訳、『エラスムスの勝利と悲劇』(ツヴァイク全集13/ツヴァイク伝記文学コレクション6)、みすず書房、1965年
  • ローランド・ベイントン著、出村彰訳、『エラスムス』、日本基督教団出版局、1971年

脚注[編集]

  1. ^ 斉藤美洲、『エラスムス』(人と思想62)、清水書院、1981年、p29
  2. ^ 斉藤、p29
  3. ^ 斉藤、p60
  4. ^ 斉藤、p72
  5. ^ 聖書学者の前田護郎は著書『新約聖書概説』(1956年)で「学童の作とあざけられるほど粗雑」とまで言っている。斉藤、p98
  6. ^ 加藤隆、『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』、大修館書店、1999年、pp102-106
  7. ^ 加藤、p104
  8. ^ 斉藤、p89
  9. ^ 斉藤、p119
  10. ^ ヘルマン・テュヒレ、『キリスト教史5 信仰分裂の時代』、平凡社ライブラリー、1997年、p85
  11. ^ 斉藤、p153
  12. ^ テュヒレ、pp81-82

関連項目[編集]

外部リンク[編集]