マルティン・ルター

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マルティン・ルター
Martin Luther
教会 聖アウグスチノ修道会
司祭叙階 1506年
個人情報
出生 1483年11月10日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイスレーベン
死去 1546年2月18日 (62歳)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイスレーベン
両親 父:ハンス・ルダー、母:マルガレータ
配偶者 カタリナ・ルター
職業 神学者司祭牧師
出身校 エアフルト大学
署名 {{{signature_alt}}}
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プロテスタント宗教改革
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迫害の歴史
宗教改革の始まり
宗教改革者
各国の宗教改革

マルティン・ルター(Martin Luther、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は宗教改革の創始者。聖アウグスチノ修道会に属するドイツ人神学教授として、ルターは「人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」ことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたらした。キリスト教会の分裂(シスマ)はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で福音主義教会(ルター派教会)とアウクスブルク信仰告白が形成された。

宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。聖書キリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌をつくったことなどが挙げられる。カタリナ・フォン・ボラという元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者牧師結婚という伝統をつくったことでも知られる[1]

生涯と思想[編集]

生い立ち[編集]

マルティン・ルターの父母の肖像画

1483年に鉱山業に従事していた父ハンス・ルダー[2]と母マルガレータの次男としてドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。洗礼を受けた日がトゥールのマルティヌスの祝日であったため、彼にちなんでマルティンと名づけられた。もともと農夫(鉱夫説もあり)から身を起こした父は上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求していた。教育において時に厳格を極めた父の姿は、後のルターが冷酷で厳格な神というイメージを持つ上で強い影響を及ぼすことになる。父の願いに沿う形でマルティンは勉学に取り組んだ。ルターの生後半年ほどで一家はマンスフェルトへと移住していたため、まずはルターはここの教会付属学校に通った。ルターが13歳になると自宅から離れ、マクデブルク、ついでアイゼナハに学び、法律家になるべく1501年エアフルト大学に入った。哲学を学び、成績優秀で父の期待するエリート・コースに乗るかに見えた。マルティンの人生に最初の転機が訪れたのは、ロースクールに入学した1505年のことであった。家を出て大学へ向かったマルティンはエアフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨にあった。落雷の恐怖に、死すら予感したマルティンは「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫んだという。マルティンの両親は修道院に入ることには大反対で、結婚して父の後を継いでくれることを望んでいたが、マルティンは両親の願いを聞き入れるどころか父親の同意すら得ずに大学を離れ、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入った。

修道院生活におけるルターと「神の義」[編集]

聖アウグスチノ修道会時代のルター

ルターは修道生活にもすぐ慣れ、祈りと研究の日々をすごしていた。この修道士時代にルターは聖書を深く読むようになり、ウィリアム・オッカムの思想に触れた。1506年には司祭叙階を受けたが、初ミサを立てる中で、ルターは弱く小さな人間である自分がミサを通じて巨大な神の前に直接立っていることに恐れすら覚えた。当時からルターはどれだけ熱心に修道生活を送り、祈りを捧げても心の平安が得られないと感じていた。長上であり、聴罪司祭であったヨハン・フォン・シュタウピッツの励ましもルターの恐れを取り除くことはできなかった。

エルフルトで教えていたルターだったが、シュタウピッツの勧めもあって、できたばかりであったヴィッテンベルク大学に移って哲学神学の講座を受け持つことになった。彼はここでアリストテレスの手法を適用したスコラ学的なアプローチの限界を感じ、神を理性で捉えることは困難であるという理解に達した。その後、再びエルフルト大学で教えたり、修道会の使命を帯びてローマへ旅行するなどしたが、最終的にヴィッテンベルクに戻り、そこで神学の博士号を取得して、聖書注解の講座を受け持った。

その頃からルターの心を捉えて離さなかったのはパウロの『ローマの信徒への手紙』に出る「神の義」の思想であった。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない。この現実を直視していたルターは苦しみ続けたが、あるとき突如光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をする。そこでルターは人間は善行(協働)でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。これが「塔の体験」と呼ばれるルターの第二の転機であった(「塔の体験」という名前はヴィッテンベルク大学学生寮の塔内の図書室において新しい福音の光が与えられたと、後年述べたことに基づいている)。ここでルターが得た神学的発想は、のちに「信仰義認」と呼ばれることになる。

ルターはこの新しい「光」によって福音と聖書を読み直すことで、ルターは人間の義化に関しての理解と自信を増していった。「正しいものは信仰によって生きる」、かつてあれほどルターを苦しめた「神の義」の解釈を見直したことによって大きな心の慰めを得るようになったのである。

論争・贖宥状問題[編集]

大学で教える傍ら、司祭として信徒の告解を聞いていたルターは、信徒たちもまた罪と義化の苦悩を抱えていることをよく知っていた。そんなルターにとって当時、盛んにドイツ国内で販売が行われていた贖宥状の問題は見過ごすことができないように感じられた(贖宥状がいわゆる「免罪符」ではないことは贖宥状の項を参照のこと)。

ルターは知らなかったが、ヨーロッパ全域の中で特にドイツ国内で大々的に贖宥状の販売が行われたのには理由があった。それは当時のマインツ大司教であったアルブレヒトの野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であったが、初めマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位を持っていた。さらにアルブレヒトは兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。しかし、司教位は本来一人の人間が一つしか持つことしかできないものである。

アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が一枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。

アルブレヒトの思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。義化の問題に悩みぬいたルターにとって、贖宥状によって罪の償いが軽減されるという文句は「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。しかし、そのときルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。煉獄の霊魂が、本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって償いが軽減されるという考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた(テッツェルのものとしてまれに引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを言っているのである)。

この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。1517年10月31日、ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送った[3]これこそが『95ヶ条の論題』である。論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことから、ルターがこれを純粋に神学的な問題として考えていたとされる。

論争・カトリック教会の権威[編集]

ルターが呼びかけた意見交換会は結局行われなかったが、『95ヶ条の論題』はすぐにドイツ語に訳され、国内で広く出回り始めた。既存のカトリック教会の体制への不満がくすぶっていたドイツ国内の空気にルターの論題が火をつけることになった。1518年にはルターは論題を神学的考察の形でまとめなおした『免償についての説教』を発表した。これに対する反論を記したカトリック司祭ウィンピーナは「信仰の問題に関して疑問を投げかけることは、教皇の不謬権への疑問と同じ意味を持つ」という指摘を行った。ここに至って、神学問題の提起を行ったルターがにわかにローマ教皇への挑戦者という意味合いを持たされることになった。ルターの友人であったインゴルシュタット大学の教授ヨハン・エックはルター説はかつて異端と断罪されたヤン・フスの説と似ていると指摘し、ルターを激怒させた。以後、二人は激しい論戦を繰り返すことになる。

レオ10世

マインツ大司教アルブレヒトは、自らの収入の道が一神父によって絶たれてはたまらないとローマに対してルターの問題を報告したが、ローマ教皇庁は大きな問題とは考えず、聖アウグスチノ修道会に対し、ハイデルベルクでの総会でルターを諭して穏便に解決するよう命じた。1518年4月のハイデルベルクでの総会でルターが逆に自説を熱く語った。総会後には教皇レオ10世に対し、自らの意見を書面にして送付した。教皇庁では「プリエリアス」と呼ばれたドミニコ会神学者シルヴェストロ・マッツオィーニがこれを審査したが、教皇権に関する部分についてのみとりあげて解説を加え、教皇の権威を揺るがす危険性があると指摘した。この時点では教皇もドイツ国内で解決できる問題であると考えていたが、ここで一つの政治的配慮が作用した。ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)の庇護を受けることになったが、当時の教皇はハプスブルク家への対抗上、フリードリヒをないがしろにはできなかったのである。

このような空気の中で行われた1518年10月アウクスブルクでの審問は、教皇使節トマス・カイェタヌス枢機卿が免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めたが、ルターは聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められないと主張した。逮捕を恐れたルターはアウクスブルクから逃亡したが、教皇もルターの保護者フリードリヒに配慮し、ルターに対してそれ以上の強い態度に出ることはなかった。ルターは自らの身の潔白を主張し、公会議の開催を求めていた。公会議の決定は教皇を超える権威を持つという公会議主義の思想が色濃く残っていた時代であった(ルターの求めた公会議はやがてトリエント公会議において実現することになる)。

教皇庁では事態を穏便に解決するため、特使カール・フォン・ミルビッツを派遣してルターと会談させているが、結局事態は解決できなかった。教皇庁が秘密裏に交渉を続ける間にも事態は神学問題を超えて論議を呼んでいたため、神学者ヨハン・エックはルターの盟友ルドルフ・カールシュタットに論戦を挑んだ。1519年7月、ライプツィヒでこの討論会が行われることになり、エックとカールシュタットと議論を戦わせた。やがてルター本人も現れ、エックと論戦を行った。この議論の中でルターが公会議の権威をも否定してしまったことで、学問レベルでルター問題を解決しようという試みは失敗に終わった。事態は政治闘争の様相を帯びてきた。

カトリック教会との断絶・破門[編集]

カトリック教会との断絶が決定的となったこのころ、ルターの周囲には賛同者たちが集まり始めた。その中にはフィリップ・メランヒトンマルティン・ブツァートマス・ミュンツァーなどの姿もあった。ルターが1520年にあいついで発表した文書は宗教改革の歴史の中で非常に重要な文書であり、ルターの方向性を確定することになった。それは『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』であった。『ドイツ貴族に与える書』では教会の聖職位階制度を否定し、『教会のバビロニア捕囚』では聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定、『キリスト者の自由』では人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるという彼の持論が聖書を引用しながら主張されている。

レオ10世は回勅『エクスルゲ・ドミネ』(主よ、立ってください)を発布して自説の41か条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒絶。1520年12月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼いた。これを受けて1521年の回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』(ローマ教皇として)によってルターの破門が正式に通告された。

ヴォルムス帝国議会からヴァルトブルク城へ[編集]

ヴァルトブルク城に残るルターの部屋

1521年4月、ルター支持の諸侯たちや民衆の声に押される形で、ルターのヴォルムス帝国議会への召喚が行われた。皇帝カール5世は何よりルター問題からドイツが解体へ至ることを恐れていた。議会において、ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。ルターは第一の質問にはうなずいたものの、第二の質問に関してはしばらくの猶予を願った。熟考したルターは翌日、自説の撤回をあらためて拒絶。「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたとされる。

議会が処分を決定する前にルターはヴォルムスを離れ、その途上で消息を絶ったように見せかけて、フリードリヒの元に逃げ込み、ヴァルトブルク城にかくまわれた。1521年5月25日にカール5世の名前で発布されたヴォルムス勅令はルターをドイツ国内において法律の保護の外に置くこと(帝国追放)を通告し、異端者としてルターの著作の所持を禁止した。

ルターはそこで「ユンカー・イェルク」(騎士ゲオルク)の偽名を用いて一年余りをすごした。ここでの生活は時として精神的な試練であったとルターは言っている。しかしルターはそこで十分に思索と著述に専念することができた。ここで有名な新約聖書のドイツ語訳が行われた。聖書をドイツ語に訳したのはルターが初めてではなかったが、エラスムスのギリシア語テキストをもとにしたこの聖書は、後にドイツ語の発達に大きな影響を与えるほど広く読まれることになる。同時にこの時期に修道生活を否定する論文も著述している。

ルター不在の状況には深刻な弊害が伴うことになった。ヴィッテンベルクではカールシュタットら過激派がリーダーシップをとっていたが、ツヴィッカウから再洗礼派の指導者がやってきたことも重なって、教会の破壊から始まって市内が無法状態の様相を呈するようになった。1522年5月7日、見かねたルターが一年の沈黙を破ってヴィッテンベルクで人々の前に再び姿を現し、数回にわたる説教で過激派を糾弾、暴力を伴う改革を否定し、行き過ぎを警告した。ルターはここで新しい典礼の祭式を定め、説教や著述活動を続けた。

人文主義の大家であるエラスムスとルターの間の関係は、当初どちらも距離を置いたものだった。エラスムスの人文主義研究はルターの説に大きな影響を与えたものの、ルターもエラスムスもどちらもお互いの説が自らと違うところを目指していることを知悉していた。この違いはやがて1524年から1525年にかけての論争として表面化し、この結果人文主義と宗教改革の関係は冷却化することとなった。

聖書には論拠はなかったが、カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた[4]。そのため司祭であったルターも独身生活を続けていたが、徐々にその意義について疑問を持つようになった。ルターは肉体的欲望そのものは罪であり悪いことであると考えていたが、結婚によって肉体的欲望は正当化され罪にならなくなると考えるようになった。また修道者のように神のために結婚しないことをよいものであると認めていたが、その反面、常に肉体的欲望に悩まされるのなら結婚するべきだと思うようになった。結果としてルターは数多くの修道者たちに結婚を斡旋するようになった。自身も1525年6月、41歳の時にカタリーナ・フォン・ボラという15歳年下で26歳の元修道女と結婚し、三男三女(ヨハネス、エリーザベト(生後8か月で死去)、マグダレーナ(13歳で死去)、マルティン、パウル、マルガレーテ)をもうけた。家庭は円満で、一家は以前ルターが暮らしていた修道院の建物に住んでいた。

ドイツ農民戦争[編集]

「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民[5]に希望を与えることになった。そもそも農民が領主に仕えることも聖書に根拠を見出せないというのである。かつてルターの同志であったトマス・ミュンツァーはこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていた[6]。ドイツの農民暴動自体は15世紀後半から頻発していたが、ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判し、二人は互いに攻撃しあうようになった。さらに再洗礼派の過激な教説も農民暴動の火に油を注ぐ結果となった。1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こし、これは隣接地域へ瞬く間に広がっていった。これが1524年から1525年にかけて起こったドイツ農民戦争である。ルターは初めはローマ殲滅戦を煽動していたが、次第に路線をめぐり党派に分裂するなか、ルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになる(この平和な抵抗の路線についてはすでにさかのぼること1520年『ドイツ国民の貴族に与う』で示されていた)。 彼の唱える宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要だった。[7]

ルターの鎮圧支持[8]を受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟を中心として徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たち(?[9])を殺害した。ミュンツァーも捕らえられて処刑された。これにより反乱の主要地域であった南ドイツにおいてはルター派は支持を失い、またルターの説からそもそもこの反乱がおこったこともあって、ドイツ農民戦争時におけるルターの言動は結果として彼の評判を傷つけることになった。ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えるようになった。こうして領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていく。

その後のルター[編集]

ルターはその後、各地のルター派諸侯の間を回りながら領邦教会の成立を進めていった。このころ、信仰教育のためにルターが書いたのが信徒向けの『小教理問答』および教師向けの『大教理問答』であった。同じころ、ルターの改革と国家教会というシステムはドイツを越えて北欧にまで波及するようになっていた。1529年にはカール5世包囲網を作り上げようとしたヘッセン伯フィリップのもくろみによって、ルターとフルドリッヒ・ツヴィングリは合同のための会談を行ったが、聖餐理解に大きな違いがあったため決裂した。

1529年の帝国議会ではカトリック教会の破壊などの行き過ぎを反省し、ルター派支持諸侯たちの立場を認めながら、カトリック教会の立場も保全するという布告が行われた。(一方でアナバプテスト(再洗礼派)とツヴィングリ派は禁止された。)しかし、ザクセン選帝侯を初めとするルター派諸侯はこれに対し抗議を行った。このことからルター派諸侯と諸都市は「プロテスタント(抗議者)」と呼ばれるようになり、やがてルター派の総称となった。

1530年に行われたアウクスブルクの帝国議会でもカール5世はなお、プロテスタント諸侯との和解の道を模索していた。この議会にはルター自身は法的立場によって参加できなかったが、盟友のメランヒトンが参加していた。この議会においてプロテスタント側は共同して『アウクスブルク信仰告白』を皇帝に提出した。これはプロテスタントによる初の信仰宣言であり、大部分がメランヒトンの手によると言われる。内容を見ると教義についてはプロテスタント側の一致を主眼にしたため、妥協的でわざと曖昧にされた部分が多く見られ、ルター自身は物足りないと感じていたと言われている。

ルター訳聖書[編集]

ルター訳聖書(1534年)

ルターは精力的な活動の一方で聖書の翻訳事業も続けており、1534年に念願だったドイツ語旧約聖書も完成し、出版された。ルターは旧約聖書の諸書の選択において、七十人訳聖書(セプトゥアギンタ:ギリシア語旧約聖書)にあってマソラ本(ユダヤ教徒によって編纂されたヘブライ語聖書)にないものを、聖書正典でないと確認して旧約聖書から排除した。

ルターの新約聖書観については二種類の見解がある[10]

ヨハネス・ラインポルトらの立場では、新約聖書でも『ヘブル書』『ヤコブの手紙』、『ユダの手紙』、『ヨハネの黙示録』は自分の義化のアイデアとそぐわないと考えたため正典から排除した。ルターが排除した諸書は新約聖書ではやがて元に戻されたが、旧約聖書の方はルターによって外された諸書はそのままで現代に至っている、とされる。

旧約聖書についてはルターはユダヤ教(ヘブライ語)において正典とされている書をそのままキリスト教における旧約の正典とした。そのうえで、ローマ教会が正典として認め、ユダヤ教徒が外典とした数書(ヘブライ語ではなくギリシャ語をもともとの言語とするヘレニズム時代の書物)を「Apocrypha」として全て翻訳し、但し書きをつけた上で自分の聖書(ドイツ語)に収めている。それらの歴史的な意義を認めたからである。つまりルターは正典とそうでない書の区別を明確にしただけで排除はしていない。これは英国国教会も時を移さず踏襲した判断であり、根拠のないルター個人の決定では決してない。やがてプロテスタント教会で使用する聖書からルターがApocryphaとした書物はおおむね姿を消したが、これは長い世紀の移り行きの結果である。

ルターがこの四つを正典と見なしていなかったとするラインポルトらの見解に対し、ルター伝『我ここに立つ』を書いたベイントンは、ルターはこの四つを正典と見なしていたとする見解を持っている[10]。ルターは新約聖書27巻の正典性は認めていたが、ヤコブ書は福音より律法を主張していると考えていた[10] 。ストンハウスは、聖書のルターが神中心よりもキリスト中心であるとし、ルターの聖書の活用方法を批判的にとらえている[10]岡田稔はルターが宗教改革の尖兵であったために、新約聖書のうち23巻をとくに教理の構築のために活用したと考えている[10]

ルターが聖書の翻訳において、信仰義認の教理から本文解釈を行って訳したことも知られている。

ルター主義[編集]

ルター主義とは、ラテン語で「ソラ・フィデ」といい、「信仰のみ主義」と言われる。聖書は重視するが、カルヴァン主義に比べてより、信仰を重視するものである。

ルターと反ユダヤ思想[編集]

多くの学者がルターのユダヤ人に関する文書について議論している。彼の反ユダヤ的声明は、ナチス政権下のドイツ1933年-45年)で反ユダヤ主義の宣伝材料として使用された。ルターはユダヤ人のキリスト教への改宗を促そうとして、ユダヤ人はイエスと同じ血統であるとした論文「イエス・キリストはユダヤ人生まれであった」(1523年)を書き、ローマ・カトリックの反ユダヤ主義に抗議した。しかしユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに失望したルターは、晩年になってパンフレット『ユダヤ人と彼らの嘘について[11]1543年)を著し[12][13]、後のナチスの反ユダヤ政策に通じる提案を行った[14]。現代のドイツ・ルーテル派(マリア福音姉妹会など)はこれについて悔い改めを表明している。

死去[編集]

上記のような活動に取り組みながら、ルターは終生ヴィッテンベルク大学における聖書講義を続けた。宗教史と思想史、さらには文化史に大きな足跡を残したマルティン・ルターは、1546年2月18日に生まれ故郷のアイスレーベンでこの世を去った。

文化史におけるルターの意義[編集]

ルターが礼拝の場で積極的に賛美歌(コラール)の歌唱を奨励し、自らもリュートを演奏しながら多くのコラールを作詞・作曲したことはよく知られている。彼は『神はわがやぐら』『深き悩みの淵より』など現在の日本でもよく知られているコラールを残したが、合唱曲としての編曲はヴィッテンベルク教会の楽長ヨハン・ヴァルターが多くを手がけたことが分かっている。カトリック教会は古くからラテン語典礼文による複雑な多声合唱を発展させており、これらは音楽的に優れたものではあったが、必ずしも歌詞の聞き取りやすいものではなかった。また専門的な合唱隊が歌唱を担当した。これに対しルターは、礼拝において会衆が彼らの日用語であるドイツ語で、美しいだけでなく単純で歌詞が聞き取りやすいコラールによって神をともに賛美することを重視し、新たな典礼音楽を推進した。ルターの奨励したコラールは、ドイツのプロテスタント教会におけるバロック音楽の発展に大きな影響を及ぼし、コラールを主題としたオルガン曲(前奏曲、幻想曲)、声楽曲(モテットカンタータオラトリオ)など広い分野に及んだ。

またルターは主に聖書翻訳を通じて、近世ドイツ語の規範の確立に大きく寄与した。一方でルターは国際語としてのラテン語の長所を理解しており、神学的著述のみならずラテン語によるミサ曲の作曲も行っている。ルターにとっては公衆に広く理解されるということがもっとも重要であり、ルターのドイツ語重視を単なる民族主義的熱情と理解することはできない。 ルターが民族主義と離れていたことは、民間伝承の英雄ディートリヒや民話などを説教に用いる神父をルターが軽蔑していたことにも表れる。それら大衆のものは文化的ではなく(教会の教養者の多くがそう考えていたように)教会の教えに反する「ロバの話」無教養の産物と断じられた。また、アリストテレスやプラトンを異教者とし、それについて語る神父もまたルターの軽蔑の対象だった。

批判[編集]

ローマ・カトリック側はルターを「異端者」、「好色家」、「犯罪人」と呼んで批判した。ヨハネス・オッホレウス著『マルティン・ルターの行為と著作についての注解』がその代表作の一つである。ドミニコ会のハインリッヒ・デニフレの『原資料によるルターおよび発展初期のルター主義』は、ルターが肉欲的な動機でもって宗教改革を行ったとしている。イエズス会のハルトマン・グリザールの『ルター』は、ルターを「誇大妄想狂の精神異常者」と判断している。[15]

聖職者の独身制を採っていたローマ・カトリックは、ルターら宗教改革者の結婚を非難した[16]1582年ケルン大司教が宗教改革を導入すると発表して解任される事件が起こる。永田諒一はケルン大司教がプロテスタントに改宗したのは、結婚したかったからだとしている[17]

その他[編集]

ルターの生地・没地であるアイスレーベンや、彼が長年神学教授を務め、「95ヶ条の論題」を発表して宗教改革の口火を切ったヴィッテンベルクの町には、いまでもルターの遺構が数多く存在する。これらの建造物群のうち、アイスレーベンのルターの生家やルター晩年の家、ヴィッテンベルクのルター・ホール(ルター住居)、ルターが説教を行っていた町の教会、そして「95ヶ条の論題」が貼られた城付属聖堂は、アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群として、1996年世界遺産に登録された[18]

脚注[編集]

  1. ^ なおプロテスタントでは万人祭司の強調から牧師は聖職者とは呼ばれない)
  2. ^ 徳善義和著『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』(岩波新書、2012年)p.12
  3. ^ 徳善義和著『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』(岩波新書、2012年)p.61
  4. ^ 他方、正教会では妻帯司祭は一般的に存在してきた。
  5. ^ 産業革命以前のヨーロッパの農民とは農奴のこと。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』
  6. ^ 宗教改革者で農民といっしょに命を落としたミンツァーはこう書いている。「休まずどんどんやれ、続けろ、火が燃えているではないか。刀を血で濡らせ。そこにいるあいつらがお前たちを支配しているかぎり、誰もお前たちに神について語ることはできない。なぜならそこにいる彼奴らがお前たちを支配しているからだ。休まず続けるのだ、がんばれ、時がきた、神が先へいく、神に続け」松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)
  7. ^ 松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)
  8. ^ 宣教ビラ『強盗のような、殺人者のような農民の群れに対抗する』の中で「彼らを閉め出し、絞め殺し、そして刺し殺さなければならない、密かに、あるいは公然と」「扇動的な人間ほど、有毒で、有害で、悪魔的なものはいない」と書いている。松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)
  9. ^ 彼らの大半は、一揆が崩壊した後に、領主による裁きによって殺された。ペトラルカ・マイスターの木版彫刻には、捕らえられ、縛られた農民たちが鞭を打たれ、車裂きの刑に処せられ、首を吊られ、くし刺しにされ、首をはねられ、生きたまま火あぶりにされている一方で、支配者たちが毛皮のついたガウンを身にまとい、復習が実行される様子を観覧席から眺めているいる様が描かれている。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』
  10. ^ a b c d e 岡田稔著『岡田稔著作集』いのちのことば社
  11. ^ 翻訳『ユダヤ人と彼らの嘘』歴史修正研究所訳 ISBN 4947737379
  12. ^ 『ユダヤ人迫害史』黒川知文 教文館 ISBN 4764265354
  13. ^ 『教会が犯したユダヤ人迫害』ミカエル・ブラウン著 横山隆訳 ISBN 4872071700
  14. ^ 大澤武男 『ユダヤ人とドイツ』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年、57-59頁。
  15. ^ 古屋安雄著『激動するアメリカ教会-リベラルか福音派か-』ヨルダン社
  16. ^ 中村敏著『著名人クリスチャンの結婚生活』ファミリー・フォーラム・ジャパン
  17. ^ 永田諒一『-カトリックとプロテスタントの社会史-』 講談社現代新書
  18. ^ 小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』p85 小学館<GREEN Mook>1999.10、ISBN 4-09-102051-8

関連項目[編集]

外部リンク[編集]