ガイウス・マリウス
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| ガイウス・マリウス (Gaius Marius) |
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|---|---|
| 紀元前157年 – 紀元前86年1月13日 | |
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| 生誕地 | アルピヌム(現:アルピーノ) |
| 死没地 | ローマ |
| 所属組織 | 共和政ローマ |
| 軍歴 | 紀元前134年 – 紀元前86年 |
| 指揮 | 執政官(コンスル) |
| 戦闘 | ユグルタ戦争 キンブリ・テウトニ戦争 同盟市戦争 |
| 賞罰 | 凱旋式:3回 |
ガイウス・マリウス(ラテン語:Gaius Marius、紀元前157年 - 紀元前86年1月13日)は、共和政ローマ末期の軍人、政治家。ユリウス・カエサルの叔父にあたる。平民出身の軍人として功を成し、民衆派の英雄として異例とも言える計7回の執政官選出を果たした。ローマにおいて元来、民衆の義務とされていた兵役(市民兵制)の改革を志願兵制度に切り替えるなど大胆な軍制改革を行い、ポエニ戦争で没落していた無産階級の住民を雇用する事で職業軍人としての兵士から軍を構成した。
彼の民衆派の指導者としての地位、及び新生ローマ軍はローマを帝政へと導く遠因の一つとなる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 初期の業績
紀元前157年、ラティウム地方の都市アルピヌム(現:アルピーノ)に生まれた。ガイウス・グラックスとほぼ同年代で、マルクス・トゥッリウス・キケロとは同郷者である。この地域の住民はラテン系の都市が存在した事からラテン市民権が与えられていたが、ローマ市民権に格上げされたのは紀元前188年になってからという新興地域であった。マリウスは多くのローマ人が持っているような『個人名+氏族名+家族名』の3つでなく『個人名+家族名』の2つの名しか持たなかったことから平民、もしくは後年に騎士階級(エクイテス)に相当する身分の出身であったと考えられている。
紀元前134年、平民にとって唯一最大の出世手段である兵役に就いたマリウスは、小スキピオが総司令官を務めるヌマンティア戦争に従軍する。ここでマリウスは優れた働きを見せ、小スキピオに賞賛されたと伝えられている。政治的な野心を抱いていた彼は軍人としての功績を元に政界へ進出し、軍団幕僚(トリブヌス・ミリトゥム)に選出される。しかし更なる栄達を望んで挑んだ故郷アルピヌムでの官職には落選してしまう。その後、どうにか財務官(クァエストル)に選出されるが、この時代の彼の働きはよく分かっていない。
紀元前119年、当時ローマで最も有力な門閥であり、父祖からのパトロヌス(支援者)でもあったカエキリウス一門のメテルス家から協力を得たマリウスは護民官に選出され、護民官経験者として元老院議員の地位を得た。この任期中、彼は自らの子飼いの政治家となる事を望んでいたメテルス家の汚職を糾弾し、両者は一時的に敵対する関係下に陥った(後に復縁したが、遺恨は残ったと言われている)。この行為で彼は自らの政治的姿勢が民衆派に立つものである事を示すと共に、民衆からの好感を得た。
紀元前115年、法務官(プラエトル)に当選し、翌年には前法務官権限(プロプラエトル)を持ってルシタニア統治のため軍を指揮するが、ここでの活動は小規模であった為、紀元前113年、早々にルシタニアから帰国する。紀元前110年頃にカエサル家の子女ユリア(ユリウス・カエサルの伯母)と結婚、一子(小マリウス)をもうけた。カエサル家は由緒正しい名家ではあったが、当時は没落していた為に政略結婚の様な意味は持たなかったと思われる。
紀元前109年に同盟国ヌミディア王国の王子ユグルタの反乱によってユグルタ戦争が勃発する。マリウスもメテルス家出身のローマ軍最高司令官カエキリウス・メテッルスの副将として参戦、翌年ムトゥルの戦いでローマはユグルタ軍を破るが、戦争が長期化し始めた事に苛立ったマリウスは紀元前108年末に単身ローマに戻り、ユグルタ戦争の早期終結の公約を掲げて執政官に立候補した。民会はマリウスを執政官に選出し、更迭されたメテルスに代わり遠征軍の総指揮官に任命された。
[編集] 軍制改革
詳細はマリウスの軍制改革を参照
マリウスは執政官として諸々の軍制改革を実現した。まず、司令官の使える軍団の数の上限が2個軍団という制度を廃止し、遠征兵力に伸縮性を与えた。そして、資産の多寡によって兵役の義務を負わせる制度をやめ、ローマ市民と同盟諸都市からの志願兵から編成する事とした。この中にはローマ市民権を持たない人も当然に含まれており、兵士のなかでのローマ市民権の有無による待遇の違いを無くした。
この改革の意味は当時のローマの社会状況のなかで理解される。当時の共和政ローマはローマ市民による農業を中心とした社会が崩壊しつつあった。地中海世界に覇をとなえた共和政ローマは、奴隷の大量流入により大規模プランテーションが始まり、自作農の多くが失業者となっていた。そのため兵役の義務を負う事ができるだけの資産を持ったローマ市民が激減したのである。結果として資産のより少ない者にまで兵役対象を拡大する事にならざるを得ず、新たに兵役対象とされた中小自作農は働き手を兵役に取られる事になり、ますます没落していった。兵役対象者には一定の手当が与えられていたものの、一家の重要な働き手を失った自作農に対する損失補填としては、十分なものではなかった。その対策のために護民官として改革を志したグラックス兄弟は、元老院によって批判された末に紀元前133年と紀元前121年に相次いで暗殺され、改革のための法律である「農地法」は骨抜きになっていた。グラックス兄弟に続く者もいたが、貴族などの既得権益を代表する元老院の反対で改革は一向に進まなかった。
そのような中でマリウスは、単純ではあるが大胆な軍政改革を行う。今まで一定の資産を持ったローマ市民(自作農以上)を対象に兵役を課していたのを、自由志願制度に変えたのである。結果としてローマに流入した失業者が大量に兵役志願する事となった。一家の働き手を失った自作農への損失補填としては十分では無い兵役対象者への手当も、失業者にとっては有り難い収入源となる。失業者は喜んで兵士に志願し、自作農は兵役から解放される。失業者救済と中小自作農救済、一石二鳥の効果のある改革であった。
この改革は軍事面でも大きな影響を与えた。それまで生業をもつ市民の軍隊であったローマ軍には出来なかった長期の作戦行動が可能になった。それまでのローマ兵士は原則として1年ごとに任期を解かれ、自らの生業に戻っていた。よって長期戦の場合は軍隊の入れ替えが原則であった。マリウスの編成した軍はもともとが失業者なので、1年での交代の必要がなくなった。自弁とされていた武器も国家が支給するようになった為に均一性を獲得し、並行して確立された徹底的な訓練指導も合わせて、ローマ軍は今まで以上に高い錬度を持つ様になった。司令官の軍団数の上限がなくなったこと、また兵士が失業状態を救ってくれたことを司令官に感謝する傾向があったので、司令官と兵士の関係が緊密化し、軍団兵が司令官のクリエンテスとなるようになっていった。また兵役から解放された中小自作農も、マリウスのクリエンテスとなった。
また同盟諸都市との関係も変化を見せることになる。当時のローマは後年の共和制末期や帝政期とは異なり、建国以来の都市国家制度から脱却出来ていなかった。ケルト系やイベリア系などに属する属州の異民族を属州民として差を付けるのはともかくとしても、同じラテン民族に属するイタリアの人々ですら「ローマ市に住む住民」(ローマ市民)と「ローマ市以外のイタリア人」(同盟市民)と差を付けていた。実際、ローマ市民権を持つものが中心となる改革前のローマ軍では、戦争ではローマ市民の貢献が大きいことが前提であった。同盟諸都市も軍の供出などの義務を負っていたが、最も犠牲の出る中核部隊をローマ市民の軍団が受け持っていた。この時点でのローマは広大な土地を支配していながらそれらをイタリア都市国家の連合体と属州の集まりとして扱っていたのであり、このような側面は完全なローマ市民権を持たない同盟諸都市にとっては応分の負担であるという理屈で通っていた。
しかしマリウスの改革の結果、軍団における「ローマ市民」と「同盟市民」は同等の犠牲を払うことになり、ローマ市民権保持者に一種の特権があると不満感じる同盟市民が多くなっていった。イタリア半島の古くからの同盟諸都市の住民をいつまでも「半外国人」に留め置くかどうかは農地改革と同様に長年の政治課題であり、その問題のバランスを大きく崩すし、後の同盟市戦争と呼ばれる同盟諸都市の反乱とその結果としての全イタリア人への市民権付与に繋がっていく。
[編集] 戦争の勝利と政治的敗北
マリウスの軍制改革の結果生まれた新生ローマ軍はユグルタ戦争に勝利する。これはもちろん軍事的な勝利をともなったが、決定的であったのは外交戦であり、それを担当したのはマリウスの副官を務めたルキウス・コルネリウス・スッラであった。スッラはマリウスの軍事的勝利を背景にユグルタを支援し続けたマウレタニア王国の懐柔に成功し、ユグルタを姦計を以って捕らえさせ引き渡させた。
紀元前105年末、民会はまだアフリカにいるマリウスを紀元前104年担当の執政官に選出する。この異例の自体は、アルプス山脈の北からゲルマニア人の南下が伝えられていた為であった。紀元前104年1月、この年は蛮族達は目立った南下を示さず、ローマに戻ったマリウスはユグルタ戦争の凱旋式を挙行する。翌年、紀元前103年から紀元前101年に再び南下を開始した蛮族に対し、マリウスは自らが育て上げたローマ軍を率いて対峙した。1万を越す騎兵隊を中核としたゲルマニア人との戦い(キンブリ・テウトニ戦争)は、寡兵であったマリウス側の大勝利に終わり、一説には敵軍の死者は10万人を超したとも言われている。この歴史的勝利でマリウスは蛮族の脅威からローマを救い、元老院から建国者ロムルスに次ぐ「第三の人」と激賛された。
戦争に勝利し、英雄としての名声を欲しいままにしていたマリウスには、戦争の終わりと共に役目を終えた兵士たちの求める福祉と就業を用意してやるという難題が待っていた。紀元前100年、執政官に選出されたマリウスは護民官ルキウス・アプレイウス・サトゥルニヌス と組んで、元軍団兵士への土地の分配などの施策を実行する。元老院は財源不足を理由に反対の空気が大きかったが、このときマリウスは民衆派の英雄として平民から絶大な支持を得ていたので、元老院はこれに逆らえず渋々ながら施策を認めた。しかし、サトゥルニヌスがマリウスの権威を盾に護民官続選を狙って対立候補を暗殺するなど横暴を極めると、元老院は「元老院最終勧告」(事実上の非常事態宣言)を可決し、マリウスにサトゥルニヌスの処分を命じた。軍事的才能には恵まれていたものの、政治的な能力を欠いていたマリウスは民衆派側に立って元老院と敵対するでもなく、かといって毅然と元老院に従うでもなく、サトゥルニヌスを捕らえながら特に何もせず、反サトゥルニヌス派によってサトゥルニヌスが殺害されるのを傍観するという中途半端な行動をとった。その結果、マリウスは民衆の支持を完全に失い、また元老院からの信頼も損ねてしまった。
[編集] 同盟市戦争
上記の失策でマリウスは事実上の引退に追い込まれたが、ローマはマリウスの残した軍制改革の結果、思わぬ戦争に引きずり込まれていく。マリウスの軍制改革によってローマ市民は兵役から解放されたが、イタリアの同盟諸都市の市民は未だ兵役が義務づけられているという、不公平が生じたのである。またローマ連合加盟諸都市に対するローマの優越も、前述の通りローマの市民兵が最も犠牲の出る中核部隊を受け持つという代償によって成り立っていたのであるが、今や志願兵となったローマの兵は、同盟諸都市の兵よりも過酷な任務に就く事は無くなっていた。
これら兵役に対する不公平以外にも、さまざまな不平等に耐えていたイタリアの同盟諸都市は、ローマの軍政改革をきっかけとして、完全なローマ市民権を求めるようになった。護民官マルクス・リウィウス・ドルススのローマ市民権拡大の提案に、ドルススの暗殺で答えたローマに対して、イタリアの同盟諸都市が大規模な反乱を起こす(同盟市戦争)。紀元前91年から紀元前88年まで続くこの戦争で指導的な役割を示したのはかつての部下であるスッラであったが、マリウスもまた将軍として参加した。既に晩年を迎えつつあったマリウスは、かつての様に自ら前線で剣を振るって兵を鼓舞する事は出来なかったが、反乱軍の兵士の中にはマリウスと共に戦った者達も大勢含まれており、指揮を取る老将軍の姿を見ただけで武器を捨てて逃げ出す事もあったという。ともあれローマは戦術的な勝利と「ユリウス市民権法」による市民権の拡大を認めることによって、この激しい戦争を終結させた。ローマ連合(イタリア都市国家の連合体)は解体されローマ連合加盟諸都市はローマの地方自治体となり、全イタリア人がローマ市民となった。ローマはイタリア中部の都市国家から、イタリア人全体を統合する地域国家に発展したのである。
[編集] スッラとの抗争
小アジアのポントス王国のミトリダテス6世は、同盟市戦争が長期化すると見込んで兵を起こし、ギリシャ諸都市にローマへの反乱を促した(第一次ミトリダテス戦争)。これに対してスッラは執政官に当選し、元老院によってミトリダテス討伐軍司令官に指名された。しかし、マリウスは護民官スルピキウスと組んで、この指揮権を自分のものとした。スルピキウスは「ユリウス市民権法」によって拡大された新しいローマ市民権保有者の権利を確実なものにする「スルピキウス法」の成立を目指しており、マリウスと組むことでこれを成立させた。しかし、この法律の成立をめぐりローマは流血の事態となる。スッラは混乱したローマを何とか抜け出し、小アジアへ向かう予定の軍団をローマに向けた。ローマはスッラの手に落ち、スルピキウスは殺害され、マリウスはローマを逃れた。スッラはマリウスなど「民衆派」を国賊とし、「スルピキウス法」を無効とした。
スッラは新しく執政官に当選したルキウス・コルネリウス・キンナらに後事を託し、ギリシャと小アジアの反乱制圧のために遠征する。ここでキンナはスッラを裏切り、マリウスなど「民衆派」の復権と「スルピキウス法」の復活を目指す。もう1人の執政官であるオクタウィウスが拒否権を発動して失敗に終わるが、マリウスが兵を率いてローマに戻り、ローマはマリウスとキンナの手に落ちる。マリウスはスッラ派のみならず、スッラの提案したマリウスを国賊とする法律に反対しなかった多くの人を殺害した。その数は元老院議員だけで50人、エクィテス(騎士階級)で1,000人であったとされる。
その後、民会はマリウスとキンナを執政官に選出する。マリウスにとっては7回目の執政官就任であった。しかし、執政官就任から13日目の紀元前86年1月13日、マリウスは死亡する。70歳であった。
[編集] マリウス死後
キンナは、マリウス死後の空席の執政官を自派のフラックスによって埋め、事実上の独裁を始める。ギリシャと小アジアへ遠征中であったスッラは、本国が自分の反対派で占められた状況の中で遠征を成功させ、オリエントに平和をもたらした。紀元前83年に遠征軍を率いてイタリアに戻り、キンナの軍に勝利してローマに入る。その後、多数の元老院議員を含む「民衆派」の指導者を殺害し、無期限の独裁官として元老院の権限を強化する国政改革を断行することになる(ただし国政改革のあと、スッラは独裁官を自ら辞任する)。この国政改革によって実現した体制はスッラ体制と呼ばれる。スッラの復古的な改革を支持し従来通りの寡頭制的政治形態を望む元老院多数派を「閥族派(オプティマテス)」と呼ぶ。この「閥族派」と自らの政治課題の実現のために民衆の力を利用しようとする「民衆派(ポプラレス)」の対立の中で、共和政ローマは帝政ローマへと変貌していくことになる。
[編集] マリウスの重要性
ガイウス・マリウスが共和政ローマにおいて重要であるのは、共和政ローマの崩壊へとつながる数多くの要因が、彼の行ったことの多くと関連するからである。彼は「新人」と呼ばれる、先祖に元老院議員を持たない、従来の共和政ローマの指導者層の外からやってきた指導者であった。それまでのローマ軍兵士の前提条件であった、土地所有階級のローマ市民から徴兵するという制度を変更し、志願制を採用して、土地を持たない無産階級の兵士を募った。この改革のもたらした結果は、ローマ軍がその軍を編成した将軍の私兵になっていくというものだったとされる。それが、その後の共和政ローマ内部の政争やガイウス・ユリウス・カエサルのような人物を誕生させ、帝政ローマへと変貌していく大きな要因となったとされる。
またマリウスは、ユリウス氏族カエサル家の女性と結婚した事から血統として甥となるユリウス・カエサルの政治姿勢にも少なからず影響を与えた。もっともユリウス氏族は長い伝統を誇る一族ではあったが、それほど有力な一族ではなかったので、マリウス個人の政治的な立場にはあまり影響はなかった。


