独裁官

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独裁官(どくさいかん、dictator、ディクタトル)は、共和政ローマの公職。あらゆる領域に及ぶ強大な権限を有する政務官であり、国家の非常事態に1人だけ任命された。独裁者の語源。

概略[編集]

ローマにおける行政の長は、毎年2人任命される執政官であった。しかし、外敵の侵入や疫病の流行、政治的混乱など、国家の非常事態が発生した場合、権力が分散されているのは非効率的である。そこでローマは、そういった場合にはただ1人に強大な権限を与えて事態に対処させることとした。これが独裁官が誕生した理由である。ただし、任命された者が無制限に権力を行使しないように、その任期は短期間(通常6ヶ月)とされていた。独裁官は、ローマの元老院が非常事態と認定した時、元老院の要請によって執政官が指名した。

通常時の全ての公職者は独裁官の下に置かれ、独裁官の決定は護民官拒否権によっても覆せないものとされた。さらに補佐役として騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)を独断で任命することができた。また、当然インペリウム(国軍の統帥権)が与えられた。戦場においては、主力である歩兵を独裁官自身が指揮するのに対して、騎兵長官は騎兵の指揮を担当した。

歴史[編集]

ローマは建国以来、勢力拡大のための戦争を繰り返しており、国王を排除して共和政が開始されてからもその国家方針に変更はなかった。対外戦争を統一指揮で遂行するため、独裁官がたびたび必要とされた。初めての独裁官が任命されたのは紀元前501年であり、この時ローマはサビニ族の脅威にさらされていた。しかし、ローマの地中海における覇権が確立したポエニ戦争以降は、独裁官が必要とされるほどの危機的状況は訪れなかった。

しかしながらローマの支配地域が拡大するにつれて、富者と平民の貧富の差が拡大してきた。グラックス兄弟護民官の立場で平民の側に立った改革を行おうとするが、元老院(貴族)側の反発によって失敗する。ティベリウス・グラックスは志半ばにして反対派に殺されてしまい、後を継いで改革を行おうとしたガイウス・グラックスは国家の敵とされてしまい、逃げ場所を失い自殺する。それ以来ローマでは閥族派と民衆派が対立し、共和政は危機を迎える。

紀元前81年、民衆派を壊滅させローマを支配下に置いた閥族派のルキウス・コルネリウス・スッラが無期限の独裁官となった。このような終身の独裁官の職は、それまでの6ヶ月間の独裁官とは異なった性格のものとして扱われている。しかしスッラは様々な方法を使って元老院を強化すると、あっさりと辞任する。あくまで元老院体制を堅持し君主制の芽を摘むのがスッラの目的であり、そのためやむを得ず独裁者となったのであり、目的達成の際は自ら独裁官の座を降りるのが必然であった。

しかしながら、その後スッラとは全く反対の立場であるガイウス・ユリウス・カエサルもまた、スッラを模倣し終身独裁官となり、共和政を破壊しローマは帝政樹立へと大きく踏み出した。その後カエサルは暗殺され内戦が勃発したものの最終的にはカエサル派が勝利を収めた。最後に同じカエサル派でもライバル関係にあったアントニウスを下したアウグストゥスにより、実質上共和政は終焉を迎えた。

カエサルの暗殺後、時の執政官マルクス・アントニウスによって元老院で廃止の動議が出され廃止された。また全権を掌握したアウグストゥスに対して元老院からスッラやカエサルのような意味で独裁官の職が与えられようとしたがアウグストゥスはこれを拒否し、ローマの歴史からこの職は消えた。アウグストゥスは建前上は独裁官のような職には就かなかったものの、実際には古代ローマの独裁者として君臨し、自らの血統者にその地位を継承させた。帝政ローマの始まりである。

著名な独裁官[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 歴史家リウィウスによる説。もっともリウィウスも「諸説ある中でもっとも古い記述によるもの」としている(リウィウス 『ローマ建国以来の歴史』岩谷智訳、京都大学学術出版会、2008年、160頁)

外部リンク[編集]