ケントゥリオ

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帝政初期のケントゥリオン(西暦70年頃)の再演
Roman Military banner.svg
古代ローマ軍
紀元前753年西暦476年
制度史
陸軍
(兵種と役職正規軍アウクシリア将軍の一覧)
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(艦船提督の一覧)
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国境防衛
(城壁ハドリアヌスの長城アントニヌスの長城)

ケントゥリオ: centuriō、ケントゥリオー)とは、古代ローマ軍の基幹戦闘単位であるケントゥリア(百人隊)の指揮官。日本語では一般に「百人隊長」と訳される。

兵の指揮統制をはじめ非戦闘時における隊の管理など、軍の中核を担う極めて重要な役割を果たし「ローマ軍団の背骨」と称えられた。このため、ケントゥリオは市民社会からも大きな敬意をもって遇される名誉ある地位であった。

権限と責任[編集]

定員100名のケントゥリアを指揮・管轄した。ただし、ケントゥリアの実際の人員は時代・戦況によって異なり、80名以下の時もあれば100名を越す場合もあった。ケントゥリオはレギオ内でも序列があり、経験を積む事によって格付けは上がっていった。そして最終的には6つのケントゥリアを統括するコホルスの指揮を執った。ケントゥリアの筆頭はプリムス・ピルスと呼ばれ、指揮する事が名誉とされる「第1コホルス」の指揮官となった。このようにケントゥリオは新米ケントゥリオからプリムス・ピルスまでとなるので、現在の軍隊組織で比較すると尉官から佐官までの広範囲に相当する。通常のケントゥリオが中尉・少尉に相当し、プリムス・ピルスは中佐・少佐に相当する。

(なお、塩野七生氏の『ローマ人の物語』は優れた名著だが、ケントゥリオについては「下士官」に相当するとしており、この点については誤りである。ケントゥリオの率いる部隊の規模(半個中隊に相当)、ベテラン百人隊長であるプリムス・ピルスが軍団レベルの作戦会議にも召集されて意見を述べること、そして、その社会的地位からも将校であることは疑いなく、米軍の特殊事例である「最上級先任曹長」など幅広いサージェント・クラスの階級と混同している。)

行進の際の騎馬での移動が許され、上官からの許可が得られれば公式に結婚する事も可能で駐屯地で家族と住む事も許された[1]。しかしながら直接敵と戦闘を行う部隊の陣頭指揮を担当するケントゥリオは戦場での死亡率もまた非常に高かった。

また戦闘の指揮だけでなく非戦闘時における軍団兵の訓練についてもケントゥリオの指導のもと行われた。訓練内容は厳しく、規律を乱すと非情な罰則-その中には処刑も含む-がなされた。しかしながらこの訓練によりケントゥリア内の規律が保たれ、しばしばローマ軍が戦場で優勢な軍勢を打ち破る事を可能にした。軍団兵の懲罰だけでなく褒章も彼らケントゥリオの権限で行われた。

数あるケントゥリオの序列の中で上位にあるケントゥリオが下位にあるケントゥリオを罰する事も可能であった。例えば新兵訓練に失敗する、歩哨任務中の部下が居眠りするなどがそれにあたり、その際の処置は違反の度合いによっては、ケントゥリオが軍団兵を死刑にできるのと同様、上位のケントゥリオは違反した下位のケントゥリオを死刑とする事も許された。

軍装[編集]

ケントゥリオの軍装は通常の軍団兵のものとは異なり際立っている。甲冑は勲章で飾られ常に磨かれ、剣は左脇に、そして足にはすねあてを装着した。ケントゥリオの兜は独特な羽飾りがついており、敵からも味方からも戦列でその存在は一際目立った。また軍団兵がロリカ・ハマタを着用しつつあった帝政においてもケントゥリオはロリカ・セグメンタタを着用し続け、指揮の時には指揮棒を持った。

甲冑を着用していない時は、身分の印として一般の軍団兵は右前であったのに対し、腰のベルトにつけたプギオ(短剣)を左前に帯剣することになっていた[2]。 

関連項目[編集]

  1. ^ 現実には兵士は駐屯地で事実婚の形で現地の女性と婚姻して、除隊後妻子を故郷に連れて帰る例は多かった。
  2. ^ 利き手で素早く剣が抜ける。