ケントゥリオ

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ケントゥリオの歴史的再演。フランス、ブルゴーニュ地方にて
帝政初期のケントゥリオン(西暦70年頃)の再演

ケントゥリオ: centuriō、ケントゥリオー)とは、ローマ軍軍団兵の階級。日本語では百人隊長と訳される事が多い。歩兵小隊長に相当する。

ローマ軍の軍団において重要な役割を担い、また非戦闘時にも軍団兵の統括を行うなどローマ軍の規律の要であった。定員100名の軍団兵で構成されるケントゥリア(百人隊、歩兵小隊)を指揮する。

ガイウス・マリウスの軍制改革によりケントゥリアの重要性が増し、ケントゥリオは直接軍団兵を指揮する役目を果たした。ケントゥリオは、通常はケントゥリアを指揮したが、古参のケントゥリオはより大きな部隊であるコホルス(歩兵大隊)の指揮を担った。場合によってはさらに大きな部隊での権限を担った。

権限と責任 [編集]

定員100名のケントゥリアを指揮・管轄した。ただし、ケントゥリアの実際の人員は時代・戦況によって異なり、80名以下の時もあれば100名を越す場合もあった。ケントゥリオはレギオ内でも序列があり、経験を積む事によって格付けは上がっていった。そして最終的には6つのケントゥリアを統括するコホルスの指揮を執った。ケントゥリアの筆頭はプリムス・ピルスと呼ばれ、指揮する事が名誉とされる「第1コホルス」の指揮官となった。このようにケントゥリオは新米ケントゥリオからプリムス・ピルスまでとなるので、現在の軍隊組織で比較すると尉官から佐官までの広範囲に及ぶ。通常のケントゥリオが少尉程度であるなら、プリムス・ピルスは少佐に相当すると考えられている。

行進の際の騎馬での移動が許され、上官からの許可が得られれば公式に結婚する事も可能で駐屯地で家族と住む事も許された[1]。しかしながら直接敵と戦闘を行う部隊の陣頭指揮を担当するケントゥリオは戦場での死亡率もまた非常に高かった。

また戦闘の指揮だけでなく非戦闘時における軍団兵の訓練においてもケントゥリオの指導のもと行われた。訓練内容は厳しく、規律を乱すと非情な罰則-その中には処刑も含む-がなされた。しかしながらこの訓練によりケントゥリア内の規律が保たれ、しばしばローマ軍が戦場で優勢な軍勢を打ち破る事を可能にした。軍団兵の懲罰だけでなく褒章も彼らケントゥリオの権限で行われた。

数あるケントゥリオの序列の中で上位にあるケントゥリオが下位にあるケントゥリオを罰する事も可能であった。例えば新兵訓練に失敗する、歩哨任務中の部下が居眠りするなどがそれにあたり、その際の処置は違反の度合いによっては、ケントゥリオが軍団兵を死刑にできるのと同様、上位のケントゥリオは違反した下位のケントゥリオを死刑とする事も許された。

軍装 [編集]

cf.兵士の軍装、右前に帯剣している。

ケントゥリオの軍装は通常の軍団兵のものとは異なり際立っている。甲冑は勲章で飾られ常に磨かれ、剣は左脇に、そして足にはすねあてを装着した。ケントゥリオの兜は独特な羽飾りがついており、敵からも味方からも戦列でその存在は一際目立った。また軍団兵がロリカ・セグメンタタを着用しつつあった帝政においてもケントゥリオはロリカ・ハマタを着用し続け、指揮の時には指揮棒を持った。

甲冑を着用していない時は、身分の印として一般の軍団兵は右前であったのに対し、腰のベルトにつけたプギオ(短剣)を左前に帯剣することになっていた[2]。 

関連項目 [編集]

  1. ^ 現実には兵士は駐屯地で事実婚の形で現地の女性と婚姻して、除隊後妻子を故郷に連れて帰る例は多かった。
  2. ^ 利き手で素早く剣が抜ける。