マグナ・カルタ

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マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう)(: Magna Carta: Magna Carta Libertatum: the Great Charter of the Liberties of England)は、イングランド王国においてジョン王により制定された憲章であり、イングランド国王の権限の制限をその内容とする。

1215年に作られた、マグナ・カルタの認証付写本

成立[編集]

マグナ・カルタはラニーミードにおいて1215年6月15日に制定。すべての条文はその後廃止されたが前文は廃止されずに現行法として残っており、現在でもイギリスにおいて憲法を構成する法典の一つである。

写しが大量に書かれたため、各地に残っているが、イングランド内に現存するオリジナルの文書は4通である。

経緯[編集]

ジョン王フランスフィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失ったにもかかわらず新たに戦を仕掛けて再び敗戦したために、1215年5月5日貴族の怒りが爆発した。貴族側はジョン王の廃位を求めて結託し、ロンドン市が同調する事態になるとほとんどの貴族と国民は反ジョンでまとまってしまった。当時はこのように臣民の信頼を失ったは自ら退位するか処刑されるしかなく、その後新たな王が立てられるのが通常であったが、このときはジョン王は、王の権限を制限する文書に国王が承諾を与えることで事態の収拾を計ったことで制定された。

王といえどコモン・ローの下にあり、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限されることが文書で確認されたという意味が大きい。王の実体的権力を契約で縛り、権力の行使には適正な手続を要するといった点は現代に続く「法の支配」、保守主義自由主義の原型となった。

制定直後、実施にあたり混乱があり、更にジョンを支持するローマ教皇インノケンティウス3世がイングランドの貴族や国民の動きを非難してイングランド国王は教会以外の約束に縛られるものではないとマグナ・カルタの廃棄を命じた。翌年にジョンが死ぬとフランスルイ王太子がロンドンへ侵攻(第一次バロン戦争)、マグナ・カルタはヘンリー3世の摂政ウィリアム・マーシャルの元で再確認され、バロン戦争を終結させた。しかし、ヘンリー3世はその後この憲章を守らなかったため、たびたび再確認された。またその際に、条文のいくつかは修正された。現在有効とされているものは1225年に修正されたものである。その後、廃止されないまま忘れられており、中世の時代の中でほとんど重視されなくなった。ウィリアム・シェイクスピアの史劇『ジョン王』にはマグナ・カルタ制定のエピソードが登場しないことにも、この軽視が窺われる。

構成[編集]

前文と、63ヶ条から構成される。原文はラテン語が用いられている。

特に重要な項目は、

  • 教会は国王から自由であると述べた第1条
  • 王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金を集めることができないと定めた第12条
  • ロンドンほかの自由市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとした第13条
  • 国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第14条
  • 自由なイングランドのは国法か裁判によらなければ自由や生命財産をおかされないとした第38条

などである。

なお、唯一廃止されずに残っている前文は抄訳するとジョン王は忠誠な臣下の忠言によって、以下の条文を承諾するという内容である。

影響[編集]

国王と議会が対立するようになった17世紀になり再度注目されるようになった。マグナ・カルタの理念は、エドワード・コーク卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理法の支配」としてまとめられた。清教徒革命の際には、革命の理由としてマグナ・カルタが使われた。また、アメリカ合衆国建国の理由にもマグナ・カルタが使われている。2009年にはユネスコの『世界の記憶』に登録された。

関連項目[編集]