ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)

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ボールドウィン・ド・ギーヌを落馬させたウィリアム・マーシャル。マシュー・パリスの『大年代記』より

ウィリアム・マーシャル(William Marshall, 1146年 - 1219年5月14日)は、プランタジネット朝イングランドの政治家にして騎士。初代ペンブルック伯、ロングヴィル伯、アール・マーシャルフランス語名ではギヨーム・ル・マレシャル(Guillaume le Maréchal)。父はジョン・マーシャル、母はウォルター・オブ・ソールズベリーの娘シビル。

騎士としての活躍は目覚しいもので、生涯でおそらく500以上の試合をしたと思われるが、1度たりとも負けたことはなかったという伝説を残している。プランタジネット朝の若ヘンリー王ヘンリー2世リチャード1世ジョン王ヘンリー3世の5人の王に仕え、卑賤の身分からイングランドの摂政、そしてヨーロッパで最も有力な人間の一人となった。

ウィリアムの登場以前、マーシャルという言葉はイングランド王の家政機構の中で「厩の長官・警護役」でしかなかったが、彼が死去した時には、単に「マーシャル」と言えばそれでイングランドはもちろん、ヨーロッパ中の人間がウィリアム・マーシャルを連想するほどであった。

生涯[編集]

少年期[編集]

1152年、ウィリアムが6歳頃の時、父のジョンに捨てられる経験をしている。この頃、イングランドは無政府時代の内戦状態にあった。父はマティルダに従っていたが、敵対するイングランド王スティーヴンにより包囲された時のこと、スティーヴンはジョンが休戦を求める代わりに三男のウィリアムを人質として要求した。だが、父は約束を破ってしまう。スティーヴンがウィリアムを縛り首にすると恫喝すると、ジョンは「好きにしろ、俺にはもっとマシな息子作るハンマーと鉄床があるんだからな!」と答えたという。しかし、スティーヴンの慈悲によりウィリアムは殺されず、2ヶ月の間人質として捕らえられた。

遍歴の騎士時代[編集]

長男でなかったウィリアムは、相続すべき土地も財産もなかったため、財産は自分で稼ぐ必要があった。マーシャル家と姻戚関係(母の従兄弟)にあったタンカーヴィルのウィリアムの城で育てられる際、ウィリアムは騎士になるべく修行を積まされた。ウィリアム・ド・タンカーヴィルのところを出た彼は、母の兄弟のソールズベリー伯パトリックに仕えた。1168年、叔父パトリックがギー・ド・リュジニャンの待ち伏せに遭って殺され、ウィリアムもこの戦いで傷つき、捕虜にされる。しかし、ウィリアムの戦いぶりが高く評価され、アリエノール・ダキテーヌが身代金を支払ったので釈放された。そのため、ウィリアム・マーシャルの物語でアリエノールはかなり良い役回りを与えられている。

ウィリアムは1167年から騎士に叙任されていたが、やがて馬上槍試合(トーナメント)でうまく稼ぐ方法を思いついた。当時のトーナメントは危険を伴い、死ぬことすらあるというものだった。さらに、負けた場合は捕虜に取られ、勝利者に馬と甲冑を没収の上、身代金を支払うシステムであった。このトーナメントに勝利することでウィリアムは多額の身代金を手に入れ、一財産を作り上げることに成功する。1177年にロジェ・ドゴージと2人でトーナメントを渡り歩いた際、10ヶ月の間に2人で協力し、103人もの捕虜を取ったとされている。

イングランド王家へ仕官[編集]

縁故を得たアリエノールの尽力により、ウィリアムは1169年にはイングランド王ヘンリー2世とアリエノールの嫡男若ヘンリー王に騎士道を教える立場となり、後にウィリアムは若ヘンリー王を騎士に叙任する儀式を執行する役目も与えられた。しかし1173年、若ヘンリー王は父に対する反乱を起こす。この内乱時にウィリアムがどのような活躍をしたかについては、『ギョーム・ル・マレシャル伝』には詳しい記述はないが、和解に協力したと見られる。

若ヘンリー王とウィリアムの関係は良好なものであったが、1182年になると若王の妃マルグリットとウィリアムの間に不倫関係があるとの非難を受け、若王の下を去ることになった。ウィリアムはヘンリー2世の宮廷に行き、告発人と決闘裁判ゲルマン法に基づく裁判方法で、勝った方の言い分が正当と評価される)を申し出るが、これも拒否されてしまう。しかし数ヵ月後、熱病で死の淵にあった若王は、十字軍への参加という自らは果たせなかった誓いを達成するようウィリアムに依頼した。これを受け、ウィリアムは1183年から1186年まで十字軍に参加し、聖地において死ぬ時はテンプル騎士団として埋葬されることを誓った。この誓い通り、ウィリアムは死の直前にテンプル騎士団に入団している。

聖地から帰還したウィリアムはヘンリー2世に仕えた。ヘンリー2世の治世下では、若ヘンリー王の弟リチャード(後のリチャード1世)の反乱が起きていた。1189年ル・マンからシノン城での戦闘で、ウィリアムはリチャード王子を落馬させ、たやすく命を取れる状況になった。しかし、ウィリアムは(一説にはこの時、リチャードが鎧など武具を身に着けていなかったため)リチャードを殺すことはせず、代わりに馬を殺すにとどめた。ヘンリー2世の死後、ウィリアムはかつて敵対していたリチャード1世に仕えることになる。リチャードは、ヘンリー2世によって長年ソールズベリーに幽閉されていた母アリエノールのもとへ、身の解放を告げる使者としてウィリアムを派遣した。リチャード1世は自分の命を取ろうとしたという理由で、忠義の騎士であるウィリアムを排除するほど狭量な君主ではなかったのである。

リチャード1世、ジョン王の治世期[編集]

1189年の秋、既に40歳を越えていたウィリアムは、リチャード1世の勧めでイザベル・ド・クレアと結婚した。イザベルは17歳であったが、当時の貴族の次男以下はある程度栄達してからでなければ嫁のなり手がなかったため、取りたてて晩婚というわけでもない。これによって、ウィリアムは領土を持たない貧乏貴族から、イングランド、ウェールズノルマンディーアイルランドに広大な領土を持ち、かつ宮廷で権威のあるペンブルック伯の身分を手に入れた。

1190年、リチャード1世が第3回十字軍に参加すると、ウィリアムは摂政に任命されるが、後にジョンが最高行政長官(ジャスティシャー、ラテン語のユスティティエ。王のイングランド不在時の行政の責任者)のウィリアム・ロンシャン(en)を追放する際、ジョンの味方をした。しかしやがてウィリアムはジョンの関心があまりにリチャード1世と異なっていることに気づき、1193年に体制派が起こした反乱に参加している。リチャード1世はロンシャン追放に協力したウィリアムを許しただけでなく、死の淵でウィリアムをルーアンの管理人に指名し、空位期間中の王室財産の管理も任せている。この間、1194年に父と同名の兄ジョンが死去したため、兄が在職していたアール・マーシャルを引き継いだ。

1199年のジョンのイングランド王即位に協力する一方、ノルマンディーの領地のためにフランスフィリップ2世にも臣下の礼をとってもいる。1207年からアイルランドのレンスターへ移住し、1212年までそこで領地経営に従事、同年のウェールズでの戦争のために召集された。1215年ラニーミードでジョンがマグナ・カルタに調印した際、貴族達との調整役を務め、第一次バロン戦争のさいにイングランド王家に忠誠を尽くした。そのためジョンの覚えもめでたく、死の床でジョンは9歳のヘンリー3世の王位継承に尽くすように言い残した。

イングランドの摂政[編集]

1216年11月11日、ウィリアムは摂政として幼いヘンリー3世に仕えることになった。既に70歳近くの老齢ながら、イングランド王位を狙うフランス王太子ルイ(後のルイ8世)と反乱貴族達を相手に精力的に戦った。リンカーンの戦いでは、若い騎士達と共に先頭に立って戦い、勝利に貢献した。ウィリアムはドーバー海峡で戦っていたヒューバート・ド・ブルースが勝利していたなら、ロンドンを占拠するルイ王太子を包囲する準備まで整えていた。1217年には、ルイや反乱した貴族達を厳しく非難することもなく、寛容の心で許している。

だが、ウィリアムの狙いはむしろ早期の和解にあったという記録が残っている。節制と相手への譲歩はウィリアムの政策の中心であり、若いヘンリー3世に対する安全と平和を望んだ。1217年にマグナ・カルタが再発行された際、証人としてサインしてもいる。ウィリアムの存在なしには、イングランドはジョンの悪政によって崩壊していた可能性もあるとされる。フランス王と反乱貴族達は王の言葉でなく、ウィリアムの方を信用していた。

死と遺産[編集]

1219年2月、ウィリアムの健康状態は悪化し、5月に自分の死期を悟ったと言う。ウィリアムは長男で同名のウィリアム、および家族の騎士達を呼び寄せた。さらにオックスフォードにある自分の領地に戻ると、そこで貴族達とヘンリー3世、カトリック司教達と会談した。その際、司教は摂政に宗教上の問題を任せる制度について異議を唱えたが、ウィリアムはこれを拒絶している。この時会談を持った司教達を信頼していなかったからである。その後ウィリアムは十字軍に参加した時の誓い通り、死ぬ前にテンプル騎士団に入団するという誓いも達成した。

1219年5月14日に73歳の高齢で死去、ロンドンのテンプル教会に埋葬された。現在でもそこではウィリアムの彫像を見ることができる。

ウィリアムの死後、長男が父の生涯を綴った『ギョーム・ル・マレシャル伝』を作成した。この書物はウィリアムの死後間もなく書かれたものであり、ウィリアムの活躍を(若干の誇張も入っていると思われるが)現代に伝えるものである。騎士としての業績には議論の余地があるかも知れないが、マグナ・カルタを支持したことなど、イングランド史に与えた影響は大きい。

子女[編集]

1189年、第2代ペンブルック伯リチャード・ド・クレアの娘イザベルと結婚、10人の子供を儲けた。

関連項目[編集]

公職
先代:
ジョン・マーシャル
アール・マーシャル
1194年 - 1219年
次代:
ウィリアム・マーシャル
爵位
先代:
新設
ペンブルック伯
1189年 - 1219年
次代:
ウィリアム・マーシャル