ペンブルック伯

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ペンブルック伯(Earl of Pembroke)は、イングランドの伯爵位。スティーブン王により創設され、ペンブルック伯爵領には、ウェールズのペンブルック城などが存する。幾度か家系が断絶し、また伯爵位が再び創設され、初代伯爵から世代が数えなおされている。1533年9月1日には、ヘンリー8世が後に自身の妃となるアン・ブーリンに対してペンブルック侯爵夫人に叙任しており、彼女は1代限りの名誉を得た。というのも、ヘンリー8世の大叔父ジャスパー・テューダーがペンブルック伯であり、またヘンリー8世の父ヘンリー7世ペンブルックで生まれていたからである。

現在のペンブルック伯爵は、1605年からモンゴメリー伯爵を兼ねるようになっている。第10期第2代ペンブルック伯爵の次男が第4代ペンブルック伯を継承する前にモンゴメリー伯に叙任されていたからである。その他にも付属的にグラモーガン州のハーバート・オブ・カーディフ男爵(1551)、ケント州のシェピー島(en:Isle of Sheppey)のシューランドについてハーバート・オブ・シューランド男爵(1605年)、ウィルト州リーについてハーバート・オブ・リー男爵の称号(1861年)を保有している。

連合王国貴族だったハーバード・オブ・リー男爵(en:Barony of Herbert of Lea)を除き、すべてのペンブルック伯はイングランド貴族である。

一族のカントリーハウスウィルトシャーにある。

1911年のブリタニカ百科事典による歴史説明[編集]

ペンブルック伯爵の称号は、英国の幾つかの家系によって受け継がれてきており、権威と尊厳ある伯爵領が爵位に付属してきた。1138年、スティーブン王によってギルバード・フィッツリチャードの息子、ギルバート・ド・クレア(1148年没)が叙任されたとき、ペンブルック伯爵の最初の世代が始まった。なお、ギルバードは他に現在のチェプストーにあたるストリギル(土地台帳の上ではEstrighoiel)の領主でもあった。1141年におこったリンカーンの戦いで、伯爵はスティーブン王側について戦ったが、この戦いで王が敗北すると、マティルダ皇后側に鞍替えした。しかし、スティーブン王が王座を取り戻すと、また彼に従うことにした。伯爵はヘンリー1世の愛人にしてレスター伯ロバート・ボーモントの娘イザベルと結婚した。

第1期、クレア家[編集]

父と同様、リチャード・フィッツギルバート・ド・クレアは、ノルマン人最後のイングランド王スティーブン王に仕えた。リチャードは一般に「ストロングボウ」(強弓)と呼ばれる。彼はプランタジネット朝(アンジュー家)に反対する主張をしたため、イングランド王ヘンリー2世からうとまれた。結果的に、リチャードの父が1148年に死去した際、王はリチャードがペンブルック伯爵の位を継承することを拒否し、わずかにストリギルの支配権のみ認めたようである。王に相続権を奪われ(彼の人生でこういった出来事は初めてであったが、最後ではなかった)、負債が溜まったリチャードは、1168年にもとの権利を取り戻す機会を得ることができた。この年、彼は当時王国を追放されていたレンスター王ダーモット・マクマロー(en:Dermot MacMurrough)の支持を得てノルマン人のアイルランド侵攻軍を率いる役目に選任された。1170年、ストリギル卿であったリチャードは自ら進軍し、ウォーターフォードダブリンを攻略し、ダーモットの娘イーファと結婚した。これによってダーモットが1170年に死去した際、ストロングボウはレンスターの王位継承を主張している。ヘンリー2世は彼の権力を恐れたため、同年にストロングボウから領地を奪いとり、1171年にはアイルランドに攻め入ると、権力を掌握した。1173年、ヘンリー2世の息子らが反乱を起こした際、ストロングボウはアイルランドにおける支持と権力を得るために帰還した。彼は1176年、アイルランドの有力者と激しい戦いの末に死去した。

ストロングボウが死去したとき、息子のギルバートが残されていた。しかしギルバートは未成年であり、ペンブルック伯爵の位を正式に継承しないまま、1185年に死去した。ギルバートが死ぬと、その姉のイザベル・ド・クレアが、彼女の権利として、1220年に死去するまでペンブルック伯爵夫人(女伯爵)となった。父、弟の伯爵位の継承に問題があるわけだから、彼女は初代伯爵である祖父のギルバート以後、最初にペンブルック伯爵の位を継承した、ともいえる。そうすると、イザベルを第4代ではなく、第2代伯爵夫人として計算するべきであるともいえる。いずれにせよ、伯爵位は彼女の夫にしてジョン・ザ・マーシャルとソールズベリー伯爵パトリックの姉妹シビルの息子サー・ウィリアム・マーシャルに継承された。

第2期、マーシャル家(1189年~)[編集]

1189年8月、43歳であったウィリアム・マーシャルは、キリスト教国家のうちでもっとも偉大な騎士であるとされていたが、リチャード1世によってストリギルおよびペンブルックの女相続人イザベル・ド・クレアと結婚させてもらったことで初代ペンブルック伯爵となることができた。彼は以前、リチャード1世の父親であるヘンリー2世に仕えており、リチャードが反乱を起こした際には敵対関係にあったが、リチャードは父王が彼とイザベルとの結婚を許可していたことを破談にするようなことはしなかった。

ウィリアムはリチャード1世とジョン王に対し忠実に仕え、第一次バロン戦争で造反したイングランド諸侯とフランスから王家を守るために戦った。1215年のマグナ・カルタに署名もしている。1216年にジョン王が死去すると、70歳になったウィリアム・マーシャルは王国の摂政に就き、幼いヘンリー3世の保護者となった。ウィリアムは造反諸侯とフランス軍を打ち破り、平和を得るため再びマグナ・カルタに署名をしている。彼は1219年の初めに病にかかり、5月14日にレディングの近くにあるカバシャム(en:Caversham, Berkshire)の邸宅で死去すると、摂政の職務はヒューバート・ド・バーが、伯爵位は5人の息子たちが継承した。

ウィリアムの長男で父と同名のウィリアムは第2代ペンブルック伯になり、フランスでヘンリー3世に仕えたほか、司法長官(en:justiciar)を務めていた1224年から1226年の間、ウェールズとアイルランドでの戦争に関わった。彼の2度目の妻はヘンリー3世の妹エリナーであったが、子供を得ることなく死去した。なお、エリナーは後にシモン・ド・モンフォールと再婚している。

ウィリアムの弟リチャードが第3代伯爵になった。彼はヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードと友人であり、同盟も結んでいた。次いで3人の弟ギルバートウォルターアンセルムが伯爵になったが、1245年にアンセルムが死去すると、マーシャル家の男系子孫は断絶した。莫大な財産はアンセルムの5人の姉妹とその子孫に配分され、ペンブルック伯爵領は王家に返却された。

第3期、ド・ヴァランス家(1247年~)[編集]

ペンブルック伯ド・ヴァランス家の紋章

次にペンブルック伯爵領を得たのは、ユーグ10世・ド・リュジニャンの息子で、ヘンリー3世の異父弟でもあったウィリアム・ド・ヴァランスである。父ユーグ10世はジョンの未亡人イザベラ・オブ・アングレームとの結婚により、アングレーム伯爵になった。

1247年、ウィリアムは2人の兄弟とともに、フランスから異父兄のヘンリー3世を頼ってイングランドに移住した。ヘンリー3世はウィリアムと初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの孫娘にしてその相続人であったジョアン(1307年没)と結婚させた。ウィリアムは土地の管理権とペンブルック伯爵の位を獲得し、新天地において莫大な富と権力を得たのである。その結果として彼は人気が低かった。また、彼は第二次バロン戦争にも深くかかわり、国王およびエドワード太子(後のエドワード1世)側についてシモン・ド・モンフォールや造反諸侯を相手に戦った。1265年のイブシャムの戦い(en:Battle of Evesham)で決定的な敗戦を経験しながらも、ウィリアム・ド・ヴァランスは1296年に死去するまで、ヘンリー3世およびエドワード1世に仕え続けた。

ウィリアムの息子のうち最年長のエイマーが父の財産を受け継いだが、母親であるジョアンが1307年に死亡するまでの間、正式にペンブルック伯とは認められなかった。1306年にはスコットランドの守護者に任じられたが、エドワード2世が即位してコーンウォール伯ピアズ・ギャヴェストンPiers Gaveston)が勢力を増すと、エイマーの影響力は小さくなった。エイマーは不平を貴族らの中心人物となったが、1312年にウォリック伯爵ギイ・ド・ボーシャン(ガイ・ド・ビーチャム、Guy de Beauchamp)が裏切り、捕虜にしたギャヴェストンを処刑したとき、エイマーは諸侯らの同盟を去り、国王側についている。バノックバーンの戦いが起きた1314年にエイマーは存命しており、エドワード2世がランカスター伯トマス (en:Thomas Plantagenet, 2nd Earl of Lancaster) を打ち負かすのを手伝ったりした。だが、エイマーが1324年に死去すると、エドワード2世は再び財政面でも再び困難に陥っている。また、エイマーの妻だったマリー・ド・シャティヨン(en:Marie de St Pol)はヘンリー3世の子孫であり、ペンブルック・カレッジの創始者でもある。

第4期、ヘイスティングス家(1139~)[編集]

  • ローレンス・ヘイスティングス、初代ペンブルック伯爵(1318-1348)
  • ジョン・ヘイスティングス、第2代ペンブルック伯爵(1347-1375)
  • ジョン・ヘイスティングス、第3代ペンブルック伯爵(1372-1389)(断絶)

ウィリアム・ド・ヴァランスの曾孫であったローレンスは女系の系図をたどってペンブルック伯を継承、あるいは新たに叙任され、ヴァランス家のペンブルック伯領の一部を相続した。彼の息子のジョン(1376年没)はエドワード3世の娘マーガレット・プランタジネット(en)と結婚したが、彼に孫が生まれなかったため、ペンブルック伯爵領は再び王家に返却された。

第5期、プランタジネット家(1414)[編集]

ヘンリー4世の4番目の息子であるハンフリーは、生涯の間グロスター公とペンブルック伯を兼位した。ハンフリーに相続人がなかったので、ペンブルック伯爵領はサーフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールに渡された。

第6期、ポール家(1447年~)[編集]

1447年、ハンフリー・オブ・ランカスターが相続人なくして死んだため、ウィリアム・ド・ラ・ポールがペンブルック伯になった。彼は1450年に斬首されてしまい、爵位は失われてしまった。

第7期、テューダー家(1452年~)[編集]

サー・ジャスパー・テューダーはヘンリー6世の異父弟であり、ランカスター派。ヨーク朝が優勢だった24年間については、爵位を失っている。

第8期、ハーバート家(1458年~)[編集]

  • ウィリアム・ハーバート、初代ペンブルック伯(1423-1469)
  • ウィリアム・ハーバート、第2代ペンブルック伯(1491年没)(1479年に返還)

ジャスパー・テューダーが爵位を剥奪された後、熱心なヨーク党だったサー・ウィリアム・ハーバートがエドワード4世によってハーバート男爵として、貴族階級に取りたてられた。そして内戦中、ランカスター派のジャスパーが投獄されている間、彼はジャスパーに取って代わった。これにより、1468年、彼はペンブルック伯に叙任された。息子で同名のウィリアムはペンブルック伯領のかわりにハンティングトン伯爵領を継承し、ペンブルック伯爵領はエドワード4世に返還している。

第9期、ヨーク家(1479年~)[編集]

1479年、エドワード4世は息子エドワードをプリンス・オブ・ウェールズに叙任した。のち、息子がエドワード5世として王位についたとき、ペンブルック伯爵領は王位と併合された。伯爵領(王領でもある)は、ヨーク家の敗北とヘンリー7世の王位継承によってテューダー家に戻された。

ペンブルック侯爵、アン・ブーリン(1532年~)[編集]

アン・ブーリンはヘンリー8世と結婚する数ヶ月前、本来は男性の称号であるペンブルック侯爵に叙任されている。イングランドの貴族の中でも、男性の称号を与えられたのは彼女だけである。この称号が侯爵たるアンと王との結婚によって統合されてしまったのか、それとも彼女が1536年に刑死したことで断絶したと理解すべきなのかは、見解に対立がある。

第10期、ハーバート家(1551年~)[編集]

この称号は、サー・ウィリアム・ハーバートに与えられることで復活した。父親のリチャードは第8期、ハーバート家の初代ペンブルック伯ウィリアムの非嫡出子にあたる。彼はアン・パーと結婚し、1551年に伯爵に叙任されたのである。なお、アン・パーはヘンリー8世の6番目の妃キャサリン・パーの姉妹である。ペンブルック伯の称号は、現在に至るまで彼の子孫によって継承されている。

  • ウィリアム・ハーバート、初代ペンブルック伯(1506-1570)
  • ヘンリー・ハーバート、第2代ペンブルック伯(1534-1601)
  • ウィリアム・ハーバート、第3代ペンブルック伯(1580-1630)
  • フィリップ・ハーバート、第4代ペンブルック伯および初代モンゴメリー伯(1621-1669)
  • フィリップ・ハーバート、第5代ペンブルック伯および第2代ペンブルック伯(1642-1674)
  • ウィリアム・ハーバート、第6代ペンブルック伯および第3代モンゴメリー伯(1642年頃-1683年)
  • フィリップ・ハーバート、第7代ペンブルック伯および第4代モンゴメリー伯(1652年頃-1683年)
  • トマス・ハーバート、第8代ペンブルック伯および第5代モンゴメリー伯(1656年頃-1732年)
  • ヘンリー・ハーバート、第9代ペンブルック伯および第5代モンゴメリー伯(1734-1794)
  • ジョージ・オーガスト・ハーバート、第10代ペンブルック伯および第6代モンゴメリー伯(1759-1827)
  • ロバート・ヘンリー・ハーバート、第11代ペンブルック伯および第7代モンゴメリー伯(1791-1862)
  • ジョージ・ハーバート、第12代ペンブルック伯および第8代モンゴメリー伯(1850-1895)
  • シドニー・ハーバート、第14代ペンブルック伯および第9代モンゴメリー伯(1853-1913)
  • レジナルド・ハーバート、第15代ペンブルック伯および第10代モンゴメリー伯(1850-1895)
  • シドニー・ハーバート、第16代ペンブルック伯および第13代モンゴメリー伯(1906-1969)
  • ヘンリー・ハーバート、第17代ペンブルック伯および第14代モンゴメリー伯(1939-2003)
  • ウィリアム・アレクサンダー・シドニー・ハーバート、第18代ペンブルック伯および第15代モンゴメリー伯(1978~)

法定相続人はレジナルド・ヘンリー・マイケル・ハーバート(2012年10月21日生まれ)である。第二位の相続権者は、第8代ペンブルック伯の5番目の息子の子孫、8代カナヴォン伯爵ジョージ・ハーバート(1956年生まれ)である(ただし、ハーバート・オブ・リー男爵(en:Baron Herbert of Lea)については、継承者なくして18代伯爵が死去した場合は断絶)。

ヘンリー8世の遺言執行者にして価値のある領土の受取人であるハーバートは、エドワード6世の治世下において突出し、また権勢のあった人物であった。また、サマセット公とその政敵であり、のちのノーサンバランド公爵ジョン・ダドリーの庇護者をつとめ、策略を使い支援したりもした。彼はダドリーとともサマセット公を投獄し、サマセット公の失脚後はウィルトシャーの領地と爵位をえることになった。彼はジェーン・グレイの戴冠のために画策したのと言われている。いずれにせよ、彼はジェーン・クレイの短い統治下において助言者を務めたが、ジェーンの目的が失われたとき、メアリー1世側につくことを宣言した。メアリー1世やその仲間たちから、たびたびペンブルック伯の忠誠心は疑われたが、彼はカレーの知事およびウェールズの長官その他の職務をこなした。また、彼はある程度、スペインのフェリペ2世の信頼も得ていた。伯爵はエリザベス1世の治世下でも1569年までその地位を保持していたが、メアリー・スチュアートとノーフォーク公を結婚させる計画に関与したとの疑いを持たれてしまっている。ハーバートが与えられていた土地には、ソーズベリーの近くのウィルトンがある。ここは現在もペンブルック伯の住居がある。

その長子であるヘンリー(1534年頃-1601)が第2代ペンブルック伯を継承した。ヘンリーは1586年から死ぬまでウェールズの長官を務めていた人物であり、1577年にヘンリー・シドニーとその妻メアリー・ダドリーの3番目の娘メアリー・シドニーと結婚している。このメアリー・シドニーはペンブルック伯爵夫人として有名であり、兄のフィリップ・シドニーとは生涯を通じて深い係わりを持った。フィリップ・シドニーは1580年の夏、妹とともにウィルトンもしくはアイビーチャーチで過ごし、その付近で彼女の好きな隠遁生活を送った。また、妹の要求にこたえる形で、出版する意図でなく、ただ彼女を喜ばせることだけを目的として「ペンブルック伯爵夫人のアルカディア」(en:Countess of Pembroke's Arcadia)の執筆を開始した。また、2人は詩篇の韻律の編集も行っている。兄が死去したとき、ペンブルック伯爵夫人はひどく悲しむと、自ら兄の遺産管理人に就任し未完成の「アルカディア」やその他、1590年から1591年の間に作られた兄の詩を修正したりした。また、ペンブルック伯爵夫人は、兄が保護しようと眼を掛けた詩人たちのパトロンなども行っている。エドマンド・スペンサーは彼女に対して『時の廃墟』(The Ruines of Time)を捧げており、『コリン・クラウト故郷に帰る』という作品中、では彼女を「文芸の女神」と言及している。また、『アストロエル』において彼女は「クロリンダ」と表記されている。1599年にエリザベス女王が客としてウィルトンにやってくると、ペンブルック伯爵夫人は女王を星乙女とたたえる詩を製作している。夫が亡くなると、ペンブルック伯爵夫人は主にロンドンのクロスビー・ホールに住んでおり、そこで死去した。

伯爵夫人はほかに、フランス人のフィリップ・ド・モルネー(en:Philippe de Mornay)『死と生について』(A Discourse of Life and Death)、ロベール・ガルニエ(en:Robert Garnier)の悲劇にたいする批評『アントニー』などを翻訳した。また、ある学者などはウィリアム・シェイクスピア名義の作品の真の著者は、ペンブルック伯爵夫人メアリー・シドニーだったのではないか、という推測をしている。ロビン・ウィリアムはアメリカのウィルトン・サークルから『愛しきエイボンの白鳥』(Sweet Swan of Avon)を出版しているが、以下に述べるような2人の息子と同様、彼女の波乱万丈の人生について記載している。

第3代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバート(1580-1630)は、第2代伯爵と高名な伯爵夫人の子供のうち最年長のものであり、当時の社会およびジェームズ1世の宮廷では有名な人物であった。何度かバッキンガム公爵に反対することもあり、アメリカ大陸の植民地化に対して強い関心を持っていた。彼は1615年から1625年の間王家の宮内庁長官官房を務め、1626年から1630年の間は侍従を務めた。1624年にはオックスフォード大学の学長になっており、トマス・ディスデル(en:Tesdale)とリチャード・ウィックがブロードゲート・ホールを再建したとき、第3代ペンブルック伯の名誉にちなんでこれをペンブルック・カレッジと名づけている。あるシェイクスピア研究家からは、トマス・ソープ(en:Thomas Thorpe)が出版したウィリアム・シェイクスピアソネット集の献辞に「唯一の父親」(the onlie begetter)として言及する「W・H氏」が第4代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバートと同一人物であると考えている。一方で彼の愛人のメアリー・フィットン(en:Mary Fitton)はソネットにおける「黒の淑女」(dark lady)と同一視される。だが、「唯一の父親」および「黒の淑女」の特定は非常に疑わしい。第4代ペンブルック伯ウィリアムとその弟のフィリップは、シェイクスピアの『ファースト・フォリオ』において「比類なき兄弟」(incomparable pair of brethren)として言及されている。なお、第2代ペンブルック伯の次男・フィリップの方はジェームズ1世の同性愛の相手として寵愛された時期にはたいそう利益を得ていた。

第3代ペンブルック伯は、1630年4月10日、子供をもうけることなく死去した。クラレンドン伯爵は彼について褒め称えているけれど、実際は薄弱で自堕落な人物であったというように見える。ガードナーは彼のことを、「英国宮廷のハムレット」というように形容している。また、第3代ペンブルック伯は文学趣味もあり、自身で詩を書いたりしていた。彼の最も親しい詩人はジョン・ダンであり、ベン・ジョンソン、マッシンジャー(en:Philip Massinger)などに対し寛大に接していた。

第3代伯爵の弟、フィリップ・ハーバート(1584-1650)は第4代ペンブルック伯になった。彼は魅力的な容姿と激しい情熱および野外での運動一般の能力によって、ある時期においてジェームズ1世の寵臣であった。ジェームズ1世は、1605年にフィリップをモンゴメリー伯爵およびシューランドのハーバート男爵に叙任している。1630年に彼がペンブルック伯爵領を継承すると、ハーバートの家長はペンブルックとモンゴメリーの双方の伯爵を兼任することになった。

第4代伯爵フィリップは喧嘩っ早い性格であったためにしばしばトラブルを引き起こしたが、ジェームズ1世からの評価を失うことはなかった。ジェームズ1世は彼に対しいくつも領地や官職を与えており、チャールズ1世からも信頼を得ている。1626年、チャールズ1世は第4代伯爵を宮内庁長官官房に任命し、しばしば彼と会うためにウィルトンを訪問している。1639年および1640年には国王とスコットランドの間で平和をもたらすために尽力したが、チャールズ1世と議会との間ので再び不和が起きた際、王が彼から侍従の官職を剥奪するとすぐに国王を見限っている。第一党からの信頼を得た第4代ペンブルック伯はワイト島の知事に任命され、幾度も議会の代表の一人に選ばれている。特に1645年にアクスブリッジ(en: Uxbridge)と、1648年のニューポートと、1647年にスコットランドがチャールズ1世の身柄を引き渡した際の交渉などを担当している。また、1641年から1643年および1647年から1650年の間、彼はオックスフォード大学の学長を務めている。彼が学長をしていた1648年、厳粛同盟(en:Solemn League and Covenant)に反対する立場の重役を何人か解任している。その際、彼の放った罵詈雑言により、「罵倒語に能弁な人間には、大学の学長よりも精神病院の院長に相応しい」との評価を招いてしまっている。1649年、彼は貴族だったにもかかわらず、バークシャーから下院議員として選出されている。この現象は王党派の著作において「下位への上昇」(ascent downwards)と皮肉られている。なお、第4代伯爵は絵画の収集家であり、建築に対してもある程度の関心があった。

第4代伯爵の生存している子供のうち最年長だったフィリップ(1621-1669)は第5代ペンブルック伯爵および第2代モンゴメリー伯爵となった。彼は2度の結婚をし、順に3人の息子をもうけた。第8代伯爵になったトマス(1656年頃-1733年)はウィリアム3世アン女王の治世下において著名な人物であった。この第8代伯爵は、1690年から1697年の間には海軍卿(en:Lords Commissioners of the Admiralty)を務め、それから1699年まで王璽尚書を務めたが、このときイングランドがレイスウェイク条約を調印する際の全権大使になっている。彼が海軍卿をしていた短い帰還に2つの出来事があった。1つは、彼が枢密院議長(en:Lord President of the Council)とアイルランド総督(en:Lord Lieutenant of Ireland)をも兼任していた一方で、7度も司法卿の1人として働いたことである。2つ目は、1689年から1690年の間、王立協会の理事長をしていたことである。

第5代伯爵の息子で第6代伯爵になったヘンリー(1689年ごろ-1750年)は軍人であったが、むしろ「建築家伯爵」として有名で、ウェストミンスター橋(en:Westminster Bridge)の建築について主要責任者であった。その後に称号を受け継いだ第10代伯爵のヘンリー(1734-1794)も軍人であり、1762人に『馬の調教方法について』(Method of Breaking Horses)という著作がある。第11代伯爵のジョージ・オーガスト(1759-1827)は、1807年にウィーンへの特命大使を務めている。

第12代伯のロバート・ヘンリー(1791-1862)が子供をもうけることなくフランスで死去すると、パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。第13代伯爵のジョージ・ロバート・チャールズ(1850-1895)は第10代伯爵ヘンリーの孫にして、兄の死によって家族の称号をすべて相続したシドニー(1853年生まれ)の次男であるヒューバート・オブ・リー男爵の息子にあたる。

その他[編集]

フロリダ州のペンブローク・パインズ市(en:Pembroke Pines, Florida)はブロワード郡(en:Broward County, Florida)の初期の地主であったペンブルック伯にちなんで名づけられている。

ニューハンプシャー州のペンブローク町(en:Pembroke, New Hampshire)は第9代伯爵にちなむものであり、州知事のベニング・ウェントワース(en:Benning Wentworth.)によって名づけられた。

注記[編集]

第7代伯爵は、2度も殺人事件についての裁判に関与している[1][2]。1677年から1678年の裁判と、1680年におきたロンドンの警察官、ウィリアム・スミスに対する殺人事件がそれである[3][4]

脚注[編集]

  1. ^ Thomas Jones Howell, William Cobbett. A complete collection of state trials and proceedings for high treason and other crimes and misdemeanors from the earliest period to the year 1783, with notes and other illustrations, Volume 15
  2. ^ Sir Richard Bulstrode. The Bulstrode papers: Volume I
  3. ^ Stephen (Sir Leslie), Sir Sidney Lee, Robert Blake, Christine Stephanie Nicholls. The Dictionary of national biography, Volume 9
  4. ^ James Thorne. Handbook to the environs of London: alphabetically arranged, containing an account of every town and village, and of all places of interest, within a circle of twenty miles round London, Part 2

参照文献[編集]

  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press. 
  • G. T. Clark, The Earls, Earldom and Castle of Pembroke (Tenby 1880)
  • J. R. Planche, "The Earls of Strigul " in vol. x. of the Proceedings of the British Archaeological Association (1855)
  • G. E. C(okayne), Complete Peerage, vol. vi. (London, 1895).
  • Giraldus Cambrensis, Expugnatio hibernica
  • the Song of Dermot, edited by G. H. Orpen (1892).
  • the metrical French life, Histoire de Guillaume le Marchal (ed. P. Meyer, 3 vols., Paris, 1891–1901)
  • the Minority of Henry III., by G. J. Turner (Trans. Royal Hist. Soc., new series, vol. xviii. pp. 245295)
  • W. Stubbs, ConstitutIonal History, chs. xii. and xiv. (Oxford, 1896f 897).