サマセット公

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
サマセット公の紋章

サマセット公(Duke of Somerset)は、イングランド貴族公爵位である。その名前はサマセットに由来する。サマセット公は主に、1448年創設のボーフォート家と、1547年創設で現在も続いているシーモア家の2つの家系に縁が深い。

サマセット公の唯一の従属称号は長男(公爵位の法定推定相続人)の儀礼称号として使われるシーモア男爵(Baron Seymour)である。他の公爵家が(マンチェスター公を除いて)儀礼称号に侯爵もしくは伯爵を用いるのに対して、サマセット公だけは他に従属称号を持たないため、最も低い称号を儀礼称号として用いている。かつての従属称号は以下の通り。

  • ケンダル伯(1443年創設、1444年消滅)
  • ロチェスター子爵(1611年創設、1645年消滅)
  • ボーシャン・オブ・アッシュ子爵(1536年創設、1552年剥奪)
  • ハートフォード伯(1537年創設、1552年消滅、1559年再創設、1750年消滅)
  • ハートフォード侯(1640年創設、1675年消滅)
  • シーモア・オブ・トローブリッジ男爵(1641年創設、1750年消滅)
  • パーシー男爵(1722年創設、1750年分離)
  • コッカマス男爵(1749年創設、1750年分離)
  • イグリモント伯(1749年創設、1750年分離)
  • サンモール伯(1863年創設、1885年消滅)

公爵の居城はウィルトシャー州のメイデン・ブラッドリー、別邸はデヴォントトニスベリー・ポメロイ城

目次

[編集] サマセット公の歴史

[編集] 女帝モードによる創設

ウィリアム・ドゥ・モーン・オブ・ダンスターは 女帝モードのお気に入りで、彼女が国王スティーヴンと王位を争った時にもウィリアムはモードを支援していた。彼はその功績によって1141年にサマセット伯に叙せられた。もっともこの称号は、スティーヴンにもヘンリー2世(モードの息子)にも承認されなかったため、ウィリアムの子孫はこの称号を使わなかった。

[編集] ボーフォート家

ジョン・ボーフォート(1371年頃 - 1410年)は、ジョン・オブ・ゴーントキャサリン・スウィンフォードの息子である。彼は1397年2月10日にサマセット伯に叙せられた[1]。死後、爵位は長男ヘンリー(1401年 - 1418年)が継承する。だがヘンリーは夭折してしまったため、次男ジョン(1404年 - 1444年)が継承する。1443年8月28日にジョンはサマセット公ケンダル伯に叙せられる。しかし翌1444年、急死(恐らく自殺)により、公爵位もケンダル伯爵位も消滅してしまう。

サマセット伯爵位は急死したジョンの弟エドマンド(1406年 - 1455年)が継承した。エドマンドは既に1442年にはドーセット伯に、1443年にはドーセット侯に叙せられていたが、新たにサマセットの所領も継承し、1448年3月31日にサマセット公に叙せられている。エドマンドがサマセット公の時にヨーク公リチャードがランカスター朝のヘンリー6世に反旗を翻し、国内を二分する薔薇戦争が勃発する。エドマンドはヨーク公の政敵であることから当然ランカスター派に与したが、1455年セント・オールバーンズの戦いで戦死した。

爵位は息子ヘンリー(1436年 - 1464年)が継承する。ヘンリーは1461年3月のタウトンの戦いの敗戦でスコットランドに逃走し、1461年11月4日にヨーク朝エドワード4世から反逆罪を理由に私権剥奪され、爵位も所領も没収される。1463年3月にスコットランドから戻ったヘンリーは、エドワード4世と和解して爵位・所領共に返還されているが、間もなく再びランカスター派に復帰し、1464年5月のヘクサムの戦いで捕らえられ、処刑された。ヘンリーにはチャールズ・サマセットという子供がいたが、ヘンリー自身未婚だったため嫡子として認められず、サマセット伯を継がせる事はできなかった。[2]

議会はヨーク朝に反逆したサマセット公の爵位消滅を議会法によって宣言したが、ランカスター派ではヘンリーの弟エドマンド(1439年頃 - 1471年)を第4代サマセット公とした。彼は1471年テュークスベリーの戦いで敗退し、そこで処刑された。彼の死によってボーフォート家の家系は途絶えてしまった。

[編集] ボーフォート家以降

1499年ヘンリー7世は彼の息子エドマンドがまだ幼い洗礼の際に、サマセット公に指名した。だがエドマンドはわずか1歳で亡くなってしまったため、恐らくは公式に叙せられたわけではない。

ヘンリー8世の私生児ヘンリー・フィッツロイ(1519年 - 1536年)は、1525年6月18日にノッティンガム伯、リッチモンド公、サマセット公に叙せられた。彼は1536年7月22日に亡くなった時に跡継ぎがいなかったため、爵位は消滅した。

ロバート・カージェームズ1世のお気に入りだった。1611年3月25日にロチェスター子爵に叙せられ、その後枢密院議員に任命された。1612年にソールズベリー伯が亡くなると国王の秘書役を務め始め、1613年11月3日にサマセット伯に叙せられた。1645年に妻フランセスとの間にできた一人娘を残して亡くなると、称号は消滅した。

[編集] シーモア家

初代サマセット公エドワード・シーモア

エドワード・シーモア(初代)(1506年頃 - 1552年)はヘンリー8世の妃ジェーン・シーモアの兄で、甥がわずか10歳でエドワード6世として即位すると、護国卿(1547年 - 1549年)として後見し、自身をサマセット公に叙した。後に政敵ウォリック伯ジョン・ダドリーとの政争に敗れた彼は1552年1月22日に反逆罪で処刑され、爵位は剥奪されている。

ウィリアム・シーモア(第2代)(1588年 - 1660年)は初代のエドワードの曾孫にあたる。ハートフォード侯だったウィリアムは王政復古直後の1660年9月13日にサマセット公に叙せられている。長命だったウィリアムの死後、子供たちは長男・次男・3男まで既に死去していたため、爵位は3男の子のウィリアム・シーモア(第3代)(1654年 - 1671年)に引き継がれた。だがウィリアムも早世してしまったため、やむなく爵位は叔父(先代ウィリアムの4男)のジョン・シーモア(第4代)(1646年以前 - 1675年)が継承した。1675年にジョン・シーモアが亡くなると、ハートフォード侯の爵位は消滅した。

サマセット公爵の爵位を継承したのは、ジョン・シーモアの従兄弟にあたるシーモア・オブ・トローブリッジ男爵フランシス・シーモア(1658年 - 1678年)である。しかし彼も1678年に未婚のまま亡くなってしまう。爵位は弟のチャールズ・シーモア(第6代)(1662年 - 1748年)が継承する。彼は「誇り高い公爵」として知られ、アン女王のお気に入りであった。彼は男子後継者のいないノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーの跡取娘エリザベス・パーシーと結婚してパーシー家の広大な所領を手にする。エリザベスが死去するとチャールズは再婚するが、彼が1748年に86歳で天寿を全うすると、爵位は先妻エリザベスとの子であるアルジャーノン・シーモア(第7代)(1684年 - 1750年)が継承した。

アルジャーノンは1722年に母方の家系に伝わるパーシー男爵に叙せられていた。64歳と当時にしては高齢で爵位を継承したが、その時点でアルジャーノンの長男は死去しており、男子の爵位継承者が残っていなかった。そこで彼は翌1749年に所領の大分割を行う。まず、母方の家系のかつての称号であるノーサンバランド伯を再興して娘婿のヒュー・スミソン卿を後継者にし、さらにコッカマス男爵・イグリモント伯を創設して妹の子供のチャールズ・ウィンダムに遺した。こうして1750年にアルジャーノンが亡くなると、残った所領がルールに従って継承された。ハートフォード伯爵位とボーシャン男爵位とシーモア・オブ・トローブリッジ男爵位は消滅し、サマセット公爵位は遠い親戚が継承した。

1750年第6代ベリー・ポメロイ準男爵エドワード・シーモア(1701年 - 1757年)がサマセット公(第8代)を継承した。先代のアルジャーノン・シーモアとの共通の祖先をたどると初代サマセット公(エドワードの7代祖先)まで実に200年も遡らなければならない程の遠い繋がりであった。彼の死後、爵位は長男のエドワード・シーモア(第9代)(1717年 - 1792年)が継承したが、未婚のまま亡くなったために次男のウェッブ・シーモア(第10代)(1718年 - 1793年)が継承した。ウェッブ・シーモアも間もなく死去し、爵位は長男で有名な数学者のエドワード・アドルファス・サンモール(第11代)(1775年 - 1855年)が継承する。彼は洗礼を受けて名前をシーモアからサンモール(St. Maur)に変えているが、その後もシーモアはしばしば使われる。

[編集] サンモール伯

1855年にエドワードが死去すると、爵位は長男のエドワード・アドルファス・シーモア(第12代)(1804年 - 1885年)が継承する。彼は1863年にサンモール・オブ・ベリー・ポメロイ伯(以降「サンモール伯」)に叙せられる。この時以降、長男エドワード・アドルファス・フェルディナンド・シーモア[3]はサンモール伯を儀礼称号としている。

1885年に81歳でエドワード・アドルファス・シーモアが亡くなった時、既に息子たちに先立たれていたために、爵位は弟のアーチボルド・ヘンリー・アルジャナン・シーモア(第13代)(1810年 - 1891年)が継承した。アーチボルドが亡くなるとその弟アルジャーノン・パーシー・バンクス・サンモール(第14代)(1813年 - 1894年)が継承した。3年後にアルジャーノンも亡くなると、その息子のアルジャーノン・シーモア(第15代)(1846年 - 1923年)が爵位を継承した。

1923年にアルジャーノンが亡くなると、彼にも子供がいなかったために遠縁にあたるエドワード・ハミルトン・シーモア(第16代)(1860年 - 1931年)が爵位を継承した。エドワードは第8代サマセット公の末子の子孫であり、実に170年前に枝分かれした家系である。エドワードの爵位は息子のエバリン・フランシス・シーモア(第17代)(1882年 - 1954年)が継承し、その子パーシー・ハミルトン・シーモア(第18代)(1910年 - 1984年)へと引き継がれた。

現在、サマセット公爵位は1952年に生まれたジョン・マイケル・エドワード・シーモア(第19代)が保有している。また、法定推定相続人は1982年に生まれたセバスチャン・エドワード・シーモア卿である。

[編集] 脚注

  1. ^ この年の9月9日にはサマセット侯に、9月29日にはドーセット侯に叙せられている。だが政権がランカスター朝に移った1399年には当時のヘンリー4世によって侯爵位は無効とされている。
  2. ^ 後に清教徒革命イングランド内戦期に、当時の国王チャールズ1世がチャールズ・サマセットの子孫であるウスター侯エドワード・サマセットにアイルランド軍の支援の代償としてサマセット公への復帰を約束している。しかし1649年にチャールズ1世が処刑、イングランドが共和制に移行するとエドワード自身が国外追放になるのでそれどころではなくなり、1660年王政復古と共に帰国したエドワードはチャールズ1世の息子チャールズ2世に約束の履行を求めたが、貴族院議会に拒絶されサマセット公への復帰は果たされなかった。但し、22年後の1682年にエドワードの息子のヘンリー・サマセットがチャールズ2世にボーフォート公に叙爵され、子孫はボーフォート公家として続いていった。
  3. ^ 彼は「フェルディ」の名で知られており、リチャード・サースフィールド大尉という偽名で義勇兵としてガリバルディと共に戦っている。後に家政婦のロジーナ・スワンと恋に落ち、2人の子供をもうけてすぐに亡くなった。もしフェルディとロジーナが正式に結婚していれば、サマセット公の称号継承権はフェルディの子ハロルド(1869年 - 1927年)のものだったので、一時期ハロルドは両親が結婚していたことを証明しようとしたが結局失敗し、爵位の継承はできなかった。

[編集] サマセット伯、サマセット公一覧

[編集] サマセット伯 第1期(1141年)

[編集] サマセット伯 第2期(1397年)

[編集] サマセット公 第1期(1443年)

[編集] サマセット公 第2期(1499年)

[編集] サマセット公 第3期(1525年)

[編集] サマセット公 第4期(1547年)

[編集] サマセット伯 第3期 1613年

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語