ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ノーサンバランド公ジョン・ダドリー

ジョン・ダドリーJohn Dudley, 1st Duke of Northumberland, 1502年 - 1553年8月22日)は、16世紀イングランドの軍人、政治家。テューダー朝の王エドワード6世を助けて実質的に政権を掌握していたが、ジェーン・グレイを女王に擁立したことから、反逆罪に問われて死刑になった。

生涯[編集]

父エドマンド・ダドリーはヘンリー7世の首席財務担当官であったが、ジョンが8歳のとき、横領とクーデターの嫌疑をかけられ反逆罪で処刑されている。母が再婚したため、翌年からジョンは親交のあったギルフォード家が後見人となって養育され、やがてヘンリー8世の宮廷で士官として仕えるようになった。1520年、ギルフォード家の娘と結婚し、1523年にはフランスソンムカレーへの進攻での功績が認められた。勇猛果敢な軍人と評されたジョンは、アン・ブーリンの戴冠式やエリザベス(後のエリザベス1世)の洗礼式でも名誉ある役を任されるまでになっていた。

1534年、義父エドワード・ギルフォードが死去した際、ギルフォードの甥との相続権争いに勝ち、ギルフォード家の財産を相続する。また、彼を高く評価していたトマス・クロムウェルの推挽により、ヘンリー8世の4番目の妻アン・オブ・クレーヴズの騎兵隊長に、さらにはカレー副総督に指名された。1540年のクロムウェルの失脚・処刑の後もダドリーの出世は続き、1542年、母の再婚相手アーサー・プランタジネット(ヘンリー8世の叔父にあたる)が持っていたライル子爵位を継承、翌年にはイングランド海軍提督となり、枢密院の一員にもなった。また、フランスとの抗争を集結させてブローニュを獲得し、ガーター勲章を受けている。

1547年、ヘンリー8世が亡くなると、9歳の新国王エドワード6世のLord Protector(護国卿)となったのはサマセット公エドワード・シーモアであった。ダドリーはウォリック伯爵位を得、スコットランドとの戦争に勝利する(ピンキ・クルーの戦い)など、サマセット公の補佐役となり功績を挙げた。しかし1549年になると、コーンウォールノーフォークで農民一揆が相次ぐ。ノーフォークでノリッチの町をケット兄弟の反乱軍(Kett's Rebellion)から開放したのは、軍役の経験豊富なダドリーであった。サマセット公の限界を悟ったトマス・クランマーカンタベリー大司教)ら有力者たちは、ダドリーを次の摂政と考え、サマセット公を逮捕して失脚させる(1552年処刑)。ダドリーは事実上イングランドの政治を掌握したが、護国卿の呼称は辞退し、1551年ノーサンバランド公爵位を創設して自ら就いた。また、イングランド経済を疲弊させていたフランスやスコットランドとの紛争を終結させて、国内の政治を安定させようと努めた。

しかし1553年、もともと病弱なエドワード6世が重篤な容態となった。ダドリーは自分の六男ギルフォードとヘンリー7世の曾孫ジェーン・グレイを結婚させたが、7月6日、王はこの結婚後6週間で死去する。エドワードの死亡はダドリーがしばらく隠したため、正確な日付けはいまだ不明である。当時はダドリーの毒殺説も流れた。本来、エドワード6世の次の王位継承権は異母姉のメアリー(後のメアリー1世)、エリザベスにあったが、ダドリーは王が死の直前に王位をジェーンに委譲する旨の遺言を残したと公言し、戴冠の準備を始める。この傀儡政権を危険視した政府は、ロンドンから離れていたメアリーを呼び戻す決定をする。メアリーは熱心なカトリック信者ではあったが、それでも正統の後継者を支持した民衆に見守られながらロンドンに帰還した。結局ダドリーはメアリーの即位を認め、彼のほかに息子ギルフォード、ジェーンと、他の4人の息子たちが逮捕された。ダドリーは反逆罪の判決を受け、8月22日に処刑された。ギルフォードとジェーンは翌年2月12日に処刑されたが、他の息子たちは釈放されている。後に五男ロバートがエリザベス1世の寵臣になっている。

外部リンク[編集]