ノーフォーク公
ノーフォーク公(Duke of Norfolk)は、イングランド貴族の公爵位のうち特に主要な公爵の1つであり、主要な伯爵位であるアランデル伯も兼ねている。称号がノーフォークを意味するが、ノーフォーク公の居城はウェスト・サセックス州のアランデル城である。
近年の紋章院総裁(Earl Marshal)はノーフォーク公の世襲となっており、現在の総裁は現当主エドワード・フィッツアラン=ハワードが務めている。ノーフォーク公は歴史的に国教忌避(recusancy)の態度をとったカトリック教徒である。
目次 |
[編集] 歴史
ノーフォーク公は元々、ノルマン・コンクエストでイングランドに来たノルマン人のロジャー・バイゴッドを祖とするバイゴッド家のノーフォーク伯だった。だが1307年に5代目のロジャー・バイゴッドが跡継ぎのないまま亡くなるとバイゴッド家の男系は絶え、ノーフォーク伯の称号は消滅し、所領は国王領となった。
1312年、エドワード2世は異母弟トマス・オブ・ブラザートンをノーフォーク伯に列した。爵位はその後、トマスの娘マーガレット、それから彼女の孫トマス・モウブレーに引き継がれた。
1397年にリチャード2世はトマス・モウブレーの爵位を伯爵から公爵に引き上げる。これがノーフォーク公爵位の最初の創設である。この時に彼は、バイゴッド伯爵家に帰属した所領と役職(御馬伯(Earl Marshal)を含めて)を授けられた。またこの時点でノーフォーク公の祖母マーガレットは存命だったため、彼女は以降「ノーフォーク公爵夫人」と呼ばれるようになる。
1397年から1476年の間、モウブレー家がノーフォーク公の称号と所領を所有した。だが、1476年に4代目の当主ジョン・モウブレーが男系の子孫を残さないままに、3歳の1人娘アン・ドゥ・モウブレーを残して他界する。この後、アンはわずか5歳で当時の国王エドワード4世の4歳になる息子ヨーク公リチャードと結婚する事になる。アンは8歳で亡くなるまでリチャードの妻のままだった。
1481年、リチャードはノーフォーク公の爵位と所領を相続した。だが1483年に父王エドワード4世が亡くなった途端に「リチャードと兄王エドワード5世の私生児説」が取りざたされ、新国王リチャード3世によってヨーク公・ノーフォーク公の両方の爵位は剥奪され、ロンドン塔に収監される。
リチャード3世の即位に功があったとして、ジョン・ハワード(初代ノーフォーク公のトマス・モウブレーの孫)が1483年にノーフォーク公(第3期)に列せられた。これ以降現在までノーフォーク公爵位はジョン・ハワードの子孫に継承されている。
現在の当主は2002年に爵位を継承した18代目のエドワード・フィッツアラン=ハワードである。
[編集] 役職と他の称号
ノーフォーク公の称号の他に、ノーフォーク公は紋章院総裁(Earl Marshal)の地位も世襲している。ここ500年ほどは(私権剥奪状態の一時期を除いて)ノーフォーク公爵位と紋章院総裁の地位はハワード家に受け継がれてきた。1999年上院法(The House of Lords Act 1999)によって、それまで世襲だった貴族院議員のほとんどが世襲ではなくなったが、紋章院総裁が世襲だった事から、ノーフォーク公は貴族院議員の世襲が認められている(この時世襲が認められた貴族はわずか2人である)。
さらにノーフォーク公は、国会開会の式典にも参加する。君主の入場の際、先導を務める4人の中の1人である。
また、ノーフォーク公爵位に付随する爵位は下記のとおり。
- アランデル伯 (1433年)
- サレイ伯 (1483年)
- ノーフォーク伯 (1644年)
- バーモント男爵 (1309年)
- マルトレイバース男爵 (1330年)
- フィッツアラン男爵 (1627年)
- クラン男爵 (1627年)
- オズワルデスタ男爵 (1627年)
- ハワード・オブ・グロッソップ男爵 (1869年)
上記のうち、ハワード・オブ・グロッソップ男爵だけは連合王国の爵位(Peerage of the United Kingdom)であるが、後は全てイングランド時代からの爵位(Peerage of England)である。ノーフォーク公の後継者は儀礼称号として「アランデル・サレイ伯」を用いる。
[編集] 紋章
ノーフォーク公の大紋章は大きく5つの要素から成り立っている。「アーム(小紋章)」「クレスト」「サポーター」「モットー」「バトン(紋章院総裁の指揮棒)」である。
- アーム(小紋章):
- 中央の盾の形をした部分である。ノーフォーク家の紋章はクォータリー(Quarterly, 縦横4分割)でその系統を表している。第1に左上の赤地はハワード家を表し、6つの小十字の間に銀の斜め帯が走り、その中に金の二重線で縁取られた盾形の紋章(口から矢を貫かれたライオンの上半身がついている)が描かれている。第2に右上の赤地では、トマス・オブ・ブラザートンを表す「立ち姿で正面を向いた3頭縦一列の金の獅子」に、長男である事を表す銀のしめ縄を付けている。第3に左下はワーレン家を表し、金と青のチェックが描かれている。第4に右下の赤地はフィッツアラン家を表し、左後ろ足で片足立ちした金のライオンが描かれている。紋章記述は次のとおり。
- Quarterly 1st Gules on a Bend between six Cross-crosslets fitchy Argent an Escutcheon Or charged with a Demi-lion rampant pierced through the mouth by an arrow within a Double Tressure flory counterflory of the first (Howard); 2nd Gules three Lions passant gardant in pale Or, Armed and Langued Azure, in chief a Label of three points Argent (Thomas of Brotherton); 3rd Checky Or and Azure (Warenne); 4th Gules a Lion rampant Or, Armed and Langued Azure (Fitzalan).
- クレスト(冑飾り):
- 紋章上部の飾り部分である。ノーフォーク家の紋章では3つのクレストでその血統(家系)を表している。まず中央はトマス・オブ・ブラザートンの家系である事を表し、赤い帽子の上で四本足で立ち止まって正面を向き尾を伸ばした金の獅子と、その首には公爵位を表す王冠が描かれている。次に左のクレストはハワード家を表し、公爵の印である金の王冠と、赤地の2本の羽根にはそれぞれ銀の斜め帯に6つの小十字が描かれている。最後に右側はフィッツアラン家の家系である事を表し、緑の山の上で樫の小枝を咥えた銀色の馬の立ち姿が描かれている。
- サポーター:
- 紋章の左右で盾を支えるように動物が描かれている。向かって左側に銀の獅子、右側に銀の馬が描かれており、馬は樫の小枝を咥えている。
- モットー:
- 紋章下部に「高潔さだけは征服できない(Sola Virtus Invicta)」と家訓が書かれている。
- バトン(紋章院総裁の指揮棒):
- 盾の後ろ側で交差した2本の指揮棒。本体は金色でその両端は黒皮が巻かれている。この指揮棒はノーフォーク公が世襲の紋章院総裁である事を表している。
また、その時のノーフォーク公がガーター勲章を受章した場合に限っては、紋章の盾の周りをガーターで囲む事がある。但しガーター勲章は世襲ではないので、受章した当人しか紋章に入れる事ができない。例えば、第17代ノーフォーク公マイルス・フィッツアラン=ハワードは1983年4月22日にガーター勲章を受章したので、それまでは紋章にガーターを入れる事はできなかったが受章後は紋章にガーターを入れる事ができる。同様に18代ノーフォーク公エドワード・フィッツアラン=ハワードはまだガーター勲章を受章していないので、今も紋章にガーターを入れる事はできない。つまり紋章のガーターは、必ずしも「ノーフォーク公の紋章の一部」ではない。
[編集] 住居
ノーフォーク公の住居として知られているのは3箇所ある。フラムリンガム城とバンゲイ城、そして最も繋がりが深いのはアランデル城である。
フラムリンガム城は元々ノーフォーク伯の所有だったが、1307年にバイゴッド家の男系が途絶えると国王の資産に編入された。だがこれは1397年にノーフォーク伯が公爵位に昇格したタイミングで、国王リチャード2世からトマス・モウブレーに下賜されている。この後、モウブレー家が絶えた後にはハワード家の所有物となった。ジョン・ハワードは1485年にこの城の大改修を行っている。この後しばらくはノーフォーク公の城だったが、結局は手放す事になる(例えば1553年には城はエドワード6世の姉メアリー・テューダーの手に渡っている)。
バンゲイ城も元来は同じくノーフォーク伯の資産の一部であった。1483年にハワード家の手に渡ってからは20世紀の終わりまで(短い期間を別として)ノーフォーク公の所有下にあった。しかし城は随分長い間荒れ放題の状態であった。そこで第17代ノーフォーク公マイルス・フィッツアラン=ハワードは城の保存のため、既に自力で修復作業を開始していたバンゲイの町に対して、修復のための寄付金と共に所有権を寄贈した。現在は城の信託基金によって管理されている。
アランデル城はここ850年ほどの間ノーフォーク公の本拠地である。11世紀にアランデル伯ロジャー・ドゥ・モンゴメリーによって作られたこの城は1102年に国王によって奪われた。後にヘンリー2世の王位継承権獲得に功があったとして、1155年にウィリアム・ダービニーはアランデル伯に列せられ、この時に城もアランデル伯のものとなった。この後、今日に至るまでアランデル城はノーフォーク公の居城となっている。また、城内に1390年に建てられたフィッツァラン教会堂は、代々のノーフォーク公が埋葬されている。
[編集] ノーフォーク公の一覧
ノーフォーク公の爵位は3回創設されている。第1期は1397年のモウブレー家によって、第2期は1477年のヨーク公リチャードによって、第3期は1483年のハワード家によってである。歴代のノーフォーク公は下記のとおり。
[編集] ノーフォーク公 第1期(1397年)
- トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公) (1365年 - 1399年、消滅 1399年)
- マーガレット・マニー (ノーフォーク公爵夫人) (1320年頃 - 1398年) ノーフォーク伯爵夫人。初代ノーフォーク公の祖母で1397年の公爵家創設の際に存命だったため「公爵夫人」の名称を使う権利を得た。
- ジョン・モウブレー (第2代ノーフォーク公) (1392年 - 1432年、復帰 1425年)
- ジョン・モウブレー (第3代ノーフォーク公) (1415年 - 1461年)
- ジョン・モウブレー (第4代ノーフォーク公) (1444年 - 1476年)
[編集] ノーフォーク公 第2期(1481年)
[編集] ノーフォーク公 第3期(1483年)
- ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公) (1430年 - 1485年、消滅 1485年)
- トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公) (1443年 - 1524年、復帰 1514年)
- トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公) (1473年 - 1554年、消滅 1547年、復帰 1553年)
- トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公) (1536年 - 1572年、消滅 1572年)
- トマス・ハワード (第5代ノーフォーク公) (1627年 - 1677年、復帰 1660年)
- ヘンリー・ハワード (第6代ノーフォーク公) (1628年 - 1684年)
- ヘンリー・ハワード (第7代ノーフォーク公) (1655年 - 1701年)
- トマス・ハワード (第8代ノーフォーク公) (1683年 - 1732年)
- エドワード・ハワード (第9代ノーフォーク公) (1685年 - 1777年)
- チャールズ・ハワード (第10代ノーフォーク公) (1720年 - 1786年)
- チャールズ・ハワード (第11代ノーフォーク公) (1746年 - 1815年)
- バーナード・ハワード (第12代ノーフォーク公) (1765年 - 1842年)
- ヘンリー・ハワード (第13代ノーフォーク公) (1791年 - 1856年)
- ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (第14代ノーフォーク公) (1815年 - 1860年)
- ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (第15代ノーフォーク公) (1847年 - 1917年)
- バーナード・フィッツアラン=ハワード (第16代ノーフォーク公) (1908年 - 1975年)
- マイルス・フィッツアラン=ハワード (第17代ノーフォーク公) (1915年 - 2002年)
- エドワード・フィッツアラン=ハワード (第18代ノーフォーク公) (1956年 - )
[編集] ガーター騎士団
代々のノーフォーク公からは多くのガーター勲章受章者を輩出している。下記の一覧はガーター勲章を受章したノーフォーク公と、その受章年である。
- 1383年 - トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)
- 1421年 - ジョン・モウブレー (第3代ノーフォーク公)
- 1451年 - ジョン・モウブレー (第4代ノーフォーク公)
- 1472年 - ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)
- 1510年 - トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)
- 1559年 - トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公) (1572年 除名)
- 1685年 - ヘンリー・ハワード (第7代ノーフォーク公)
- 1834年 - バーナード・ハワード (第12代ノーフォーク公)
- 1848年 - ヘンリー・ハワード (第13代ノーフォーク公)
- 1886年 - ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (第15代ノーフォーク公)
- 1937年 - バーナード・フィッツアラン=ハワード (第16代ノーフォーク公)
- 1983年 - マイルス・フィッツアラン=ハワード (第17代ノーフォーク公)