フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)

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フィリップ・ハワード
殉教者
生誕 1557年1月28日
ストランドロンドンイングランド
死没 1595年10月15日
タワー・ヒル、ロンドン、イングランド
崇敬する教派 ローマ・カトリック教会
列福日 1920年
列福場所 ローマ
列福決定者 教皇ピウス11世
列聖日 1970年10月25日
列聖場所 ローマ
列聖決定者 教皇パウルス6世
記念日 10月25日
ロンドン塔に幽閉されたアランデル伯、19世紀の版画

フィリップ・ハワードPhilip Howard, 20th Earl of Arundel, 1557年1月28日 - 1595年10月15日)は、イングランドの貴族、第20代アランデル伯爵。カトリック教会殉教者聖人

生涯[編集]

第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードとその最初の妻で第19代アランデル伯爵ヘンリー・フィッツアラン(Henry FitzAlan, 19th Earl of Arundel)の娘であるメアリー・フィッツアランの間の一人息子として生まれた。フィリップの洗礼式はホワイトホール宮殿で王家の人々が臨席して行われ、洗礼の代父はメアリー1世女王の夫であるスペイン王フェリペ2世が務めた。1571年、14歳のときに父の3番目の妻(つまり2人目の継母)の連れ子であるアン・デイカー(Anne Dacre)と結婚した。結婚当初は妻とは疎遠だったものの、後に夫妻は強固な絆で結ばれた。

1569年、父ノーフォーク公爵はエリザベス1世女王に対する陰謀(リドルフィ陰謀事件)に加担した罪で逮捕され、3年後の1572年に死刑となった。フィリップは剥奪されたノーフォーク公爵位を襲爵することは出来なかったが、1580年に母方の祖父からアランデル伯爵位を相続した。

フィリップを含むハワード家の人々は、プロテスタント体制が確立されたエリザベス1世の治世に入っても、成員のほとんどがカトリック信徒のままだったが、これは非常に危険なことだった。フィリップは国外に逃亡しようとしていると疑われて、1585年4月25日にロンドン塔に召喚された。そして大逆罪の証拠は何もなかったにもかかわらず、フィリップは10年のあいだロンドン塔に幽閉され、1589年には爵位も剥奪され、1595年に塔内で赤痢に罹患して死んだ。

死の直前、フィリップは女王に対し、妻、そして自分が幽閉された後に生まれ、未だ対面したことのない息子に会わせてほしいと嘆願した。女王は「もしプロテスタントの宗教儀式に参加するのならば、妻子に会わせるのみならず名誉や領地も回復してやる」と言ってきたが、フィリップは「陛下に伝えよ、信仰を捨てて苦しむくらいならば、命を捨てるでしょう」と答え、改宗を拒否して妻子との面会も出来ないまま亡くなった。死後、カトリック信徒たちはすぐにフィリップを殉教者と讃えるようになった。息子のトマスは1604年にアランデル伯爵位を回復した。

フィリップの遺骸は葬式も行われずにロンドン塔内のセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ礼拝堂(St. Peter ad Vincula)に葬られた。29年後の1624年、遺族はジェームズ1世王の許しを得てフィリップの遺骸をアランデル城Arundel Castle)の近くにあるフィッツアラン礼拝堂に改葬した。フィリップの棺は列聖された後、1971年にアランデル聖堂Arundel Cathedral)に移された。

フィリップは1970年、教皇パウルス6世によって、16・17世紀の宗教改革時代に迫害を受けたイングランドおよびウェールズの40殉教者(Forty Martyrs of England and Wales)の1人として、列聖された。

参考文献[編集]

  • Malcolm Brennan, "Martyrs of the English Reformation"
  • Sigrid Undset, "Stages on the Road", copyright 1934.