ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)

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初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ、ルーベンス

初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズGeorge Villiers, 1st Duke of Buckingham, 1592年8月28日 - 1628年8月23日)は、17世紀イングランドの政治家。イングランド王ジェームズ1世チャールズ1世の2代にわたって仕えた寵臣。

目次

生涯 [編集]

急速な栄達 [編集]

1592年、レスター州郷紳・ジョージ・ヴィリアーズと2番目の妻メアリー・ボーモントの息子として生まれた。フランスで教育を受け、容姿端麗で踊りが上手いヴィリアーズは1614年8月、『イングランド中で最も容姿に優れた男』としてジェームズ1世の前に連れて行かれた。バイセクシュアルであったジェームズ1世はたちまちヴィリアーズに夢中になり、それまでの寵臣サマセット伯ロバート・カーen)は寵愛を失った。ヴィリアーズが聖ステファンの彫像に似た美男だったため、ジェームズはステファンの愛称である「スティーニー」と呼んだ。

ヴィリアーズを重職に就けようとすると、エリザベス1世から仕える重臣のソールズベリー伯ロバート・セシルが常に反対したが、セシルはジェームズ1世在位中に死去している。

サマセット伯が妻フランセスと共に引き起こしたオーヴァーベリ事件で宮廷から追われると、ヴィリアーズの宮廷での地位は決定的となった。ジェームズ1世は彼のことを『可愛い子供そして妻』と呼び、1615年にサーと寝室付き侍従の地位を与え、1616年にホワッドン男爵とヴィリアーズ子爵に叙爵して主馬頭としガーター勲章を与え、1617年にバッキンガム伯、1618年にバッキンガム侯、大司馬となった。そして1619年海軍卿に任命された。

1620年、第6代ラトランド伯フランシス・マナーズの娘キャサリンと結婚。成り上がり者との結婚に反対したラトランド伯を押し切ってのものだった。ヴィリアーズにとっては、ラトランド伯家とのつながりを持つ意味で大いに価値のあるものであった。

スペイン渡航 [編集]

1623年、王太子であったチャールズ1世と同行し、スペイン王女マリア・アナとの婚約交渉のためスペインを訪問。交渉は難航したが、原因はヴィリヤーズの甚だしい増長ぶりであるとの意見もある。イングランドのスペイン大使は、マドリードで彼の振る舞いを理由に処刑できないか政府と相談する有様だった。結局この交渉は成立しなかったが、ヴィリアーズは帰国後スペインとの戦争を呼びかけて大衆の支持を得た。また1623年にコヴェントリー伯位とバッキンガム公位を与えられ、王族以外では最も高位の貴族となった。

1624年三十年戦争に参戦して反スペイン側と手を組むためチャールズとフランス王女ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの婚約を成立させ、プファルツを占領するスペインとの戦いに協力する見返りにイングランドのカトリック教徒への寛容を約束した。ところが、反スペインとなったイングランドではカトリックを弾圧すべきとの意見が強まり、止む無くチャールズの家庭内だけ寛容を貫くことにして妥協したが、カトリックの王太子妃を迎えようとして周囲に都合のいい顔をするヴィリアーズへの人気は下がり、反対に非難が高まった。おまけに1624年に大陸へ派遣した遠征軍も疫病で自滅したため英仏同盟も不安定になっていった[1]

チャールズ1世の寵臣として [編集]

ジェームズ1世の死後もヴィリヤーズはチャールズ1世の寵臣として権勢を振るい、1625年にイングランド艦隊にカディスを襲撃させたが撃退された。議会はヴィリアーズを非難しようとしたが、チャールズ1世はその前に議会を解散させた。

また、フランス宰相リシュリュー枢機卿と交渉し、対スペイン戦争に協力する代わりに、国内でユグノーと争うフランスへイングランド艦隊を派遣すると持ちかけた。イングランド政府はフランスで同じプロテスタント同士が殺し合う事態を恐れ、この交渉は実行にならなかった。これが成功して利を得るのは、カトリック教徒だったからである。ヴィリアーズは自身の失敗の原因をリシュリューの背信行為であると決めつけ、攻撃しようとしていたユグノーを支援する方針に転換、三十年戦争でプロテスタント同盟を主導して盟主になろうと目論み、1625年にオランダと同盟を締結した。

しかし、度重なる外交の変更と遠征の失敗で費用を無駄遣いしたとして1626年に召集された議会の非難が高まり、チャールズ1世は再度議会を解散、強引な課税徴収を行い民衆からの評判が更に下降した。しかも、1627年にイングランドに主導権を奪われることを避けたリシュリューがスペインと和睦したため、対スペイン外交の意味がなくなったイングランドだけが空回りする結果に終わった。

ヴィリアーズはフランスとの全面戦争を宣言し、欧州の2大勢力であるブルボン家ハプスブルク家と衝突することとなった。またイングランド艦隊にスペイン本国とヌエバ・エスパーニャを結ぶ輸送船団を襲わせたが、スペインは待ち伏せ場所を避けて航海し、反対に議会からの課税未承認で財政と物資不足のイングランド艦隊は疫病に苦しむことになり損害が増していった[2]

暗殺 [編集]

1627年、ヴィリアーズは再び失敗を犯した。ラ・ロシェル包囲に耐えるユグノーと同盟し、支援に向かったイングランド軍7,000人のうち4,000人を戦死させたのである。そして懲りずに第2次派遣を行う最中の1628年8月、ポーツマスで陸軍士官ジョン・フェルトン英語版の手で暗殺された[3]。フェルトンは第1次派遣で負傷し、帰国した兵士だった。

遺体はウェストミンスター寺院に埋葬され、フェルトンは11月にタイバーン処刑場で絞首刑にされた。墓石には『世界の謎』(The Enigma of the World)を意味するラテン語が刻まれた。

ヴィリアーズの死後、1628年に暗殺前に生まれた同名の息子ジョージは第2代バッキンガム公となり、王家に引き取られて育てられ、清教徒革命を経て王政復古でチャールズ1世の息子チャールズ2世の重臣に取り立てられた。娘のメアリーはリッチモンド公ジェームズ・ステュアートと結婚した。

ヴィリアーズ家はジョージ以外にも栄達した人物が多く、同母弟クリストファーはアングルシー伯に叙任、異母兄エドワードの孫で又姪に当たるバーバラ・パーマーはチャールズ2世の愛人の1人として権勢を振るいクリーヴランド公に叙爵された。バーバラの従弟エドワードはジャージー伯に叙任、エドワードの妹エリザベスはチャールズ2世の甥ウィリアム3世の愛人となった末に遠縁のオークニ-伯ジョージ・ダグラス=ハミルトン(同母姉スーザンの曾孫)と結婚、ジョージは後にイギリスの陸軍元帥になった。

地名に見るヴィリヤーズ [編集]

1620年代、ヴィリアーズはヨーク・ハウスという邸宅を所有していた。この建物は、イングランド内戦後も残り、長男で同名の第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズにより1672年に3万ポンドで売り払われた。この周辺には、バッキンガム公にちなんでジョージ通り、ヴィリアーズ通り、デューク通り、バッキンガム通りという地名が残った。

人格の評価 [編集]

スペインとの外交で露見したように、ヴィリアーズは横柄で傲慢な性格であった。彼の肖像画を描いたルーベンスは、こう評している。

「気まぐれで傲慢なバッキンガム公のことを考えると、若い王(チャールズ1世)が気の毒でなりません。とんでもない助言者のおかげで、彼の王国はまっしぐらに破滅に向かおうとしているのです」(タッシェン:ニューベーシック・アートシリーズ「ルーベンス」より)

フィクションの中のバッキンガム公 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ 今井、P167 - 170、長谷川、P79 - P81。
  2. ^ 今井、P171 - P177。
  3. ^ 今井、P177 - P179、長谷川、P84 - P85。

参考文献 [編集]

関連項目 [編集]

官職
先代:
ウスターシャー伯
主馬頭
1616年 - 1628年
次代:
ホランド伯
先代:
エルズミーア男爵
バッキンガムシャー統監
1616年 - 1628年
次代:
モンゴメリー伯
先代:
フランシス・フォーテスキュー
バッキンガムシャー治安判事
1617年 - 1628年
次代:
ブリッジウォーター伯
先代:
ノッティンガム伯
海軍卿
1619年 - 1628年
次代:
委員会制に変更
(初代:ポートランド伯
先代:
ウォルトン男爵
ケント州統監
1620年
次代:
レノックス公
先代:
委員会制
ミドルセックス州統監
1622年 - 1628年
次代:
ドーセット伯
ホランド伯
先代:
エクセター伯
ラトランド州治安判事
1623年 - 1628年
次代:
ノエル卿
司法職
先代:
シュルーズベリー伯
巡回裁判官
北トレント

1616年 - 1619年
次代:
ラトランド伯
先代:
ノッティンガム伯
巡回裁判官
南トレント

1625年 - 1628年
次代:
ペンブルック伯
イングランドの爵位
先代:
新設
バッキンガム公
1623年 - 1628年
次代:
ジョージ・ヴィリアーズ