アレクサンドル・デュマ・ペール

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アレクサンドル・デュマ
Alexandre Dumas
アレクサンドル・デュマAlexandre Dumas
別名 大デュマ(Dumas, père)
生年月日 1802年7月24日
没年月日 1870年12月5日(満68歳没)
出生地 ヴィレール・コトレ
死没地 パリ
国籍 フランス
職業 作家
家族 トマ=アレクサンドル・デュマ
マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレ
アレクサンドル・デュマ・フィス
主な作品
ダルタニャン物語
モンテ・クリスト伯

アレクサンドル・デュマ: Alexandre Dumas, 1802年7月24日 - 1870年12月5日)は、フランスの小説家。『椿姫』を著した同名の息子と区別するために、「父」を意味する père を付して大デュマ(Dumas, père)とも呼ばれる。

人物[編集]

1802年7月24日に同名の父トマ=アレクサンドル・デュマ将軍と母マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレの子として北フランスエーヌ県ヴィレール・コトレに生まれる。父デュマは、黒人と白人が混血した、いわゆるクレオールである(フランスなどでは混血したほうが血が強くなる、という考え方がある)。その勇猛さから「黒い悪魔 Le diable noir」とあだ名された[1]

ナポレオンがデュマ将軍の死後、遺族に終身年金を下付しなかったため、幼少期は貧しい生活を余儀なくされ、まともな学校教育を受けることが出来なかった。ただし、本人自身も勉強に身をいれるようなことはなかったという。15歳で、公証人役場で見習いとして働きはじめるが、17歳のときに『ハムレット』の劇を見て感激し、劇作家を目指す。パリに上京し、父の友人の紹介で、オルレアン公爵(後のフランス国王、ルイ・フィリップ)家の秘書室に勤めることになったデュマは文学や歴史の勉強に励んだ。

1829年、戯曲『アンリ三世とその宮廷』の成功によって一躍名をあげ、歴史劇『クリスティーヌ』や自身の不倫体験をもとにした現代劇『アントニー』などを次々と新作を発表し、たちまちのうちに売れっ子劇作家となった。

やがて、元歴史教師でフランス史に造詣が深いオーギュスト・マケと組んで、歴史小説も発表するようになった。当時、新聞各紙は購読者を増やすために小説を連載するようになっており、これに目をつけたデュマは、新聞各紙に、『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』、『三銃士』に始まる『ダルタニャン物語』、『王妃マルゴ』、『王妃の首飾り』などを連載し、どれもベストセラーとなった。デュマの懐には莫大な金がころがりこんだが、彼はその金で豪邸「モンテ=クリスト城」を建て、毎夜酒宴を開き、女優たちと浮名を流すといった派手な生活を繰り広げた。さらに、国王ルイ・フィリップの五男モンパンシエ公爵の庇護の下、1847年に「歴史劇場」を建設し、自分の作品を劇にして上演させた。デュマの作品はどれも大当たりで、劇場経営でも巨富を手にした。

しかし、1848年の二月革命によって後援者のルイ・フィリップは国を追われ、さらに革命後の混乱のために市民は劇場へ足を運ばなくなり、歴史劇場は大きな赤字を生み出すようになった。長年の浪費生活でこれまで稼いだ金も使い果たし、1851年、裁判所から破産宣告が降りた。そのため、一時ベルギーに逃亡するが、後に債権者と妥協が成立し、フランスに帰国することが出来た。その後はかつてのベストセラーにあやかった『ムスクテール(銃士)』や『モンテ=クリスト』といった新聞を自ら発行し、自分の作品を掲載するが、両紙とも短期間で廃刊を余儀なくされた。

1870年、子供たちに見守られながら息を引き取る。ベストセラーを連発し、莫大な金が流れ込んでいたにもかかわらず、晩年にはそのほとんどを使い果たしており、少量の絵画と家具しか残っていなかったという。

父同様、黒人奴隷の子孫として人種差別を受けたデュマは、政治的には共和主義自由主義の立場に立ち、社会改革にも取り組んだ。七月革命においては革命軍に参加し、ナポレオン3世の圧制に耐えかねてベルギーに亡命したフランスの知識人を保護したり、ガリバルディイタリア統一運動を支援したりした。1848年には自身が憲法制定議会議員選挙・同補欠選挙に立候補しているが、これには惨敗。自分の自慢話を延々紹介するだけのアピールを有権者向けに発表して、かえって反発をかったことが原因だったらしい。

2002年11月30日、生誕200周年を期にパリのパンテオンに祀られた。作家としてはヴォルテールジャン・ジャック・ルソーヴィクトル・ユゴーエミール・ゾラアンドレ・マルローに次ぎ6人目。交流のあったユゴーとは一世紀以上ずれた、式典に際し当時のシラク大統領は、作品の愛読者だった事を述べると共に出自による人種差別等が原因で、遅れたことを認め悔いるコメントを表明した。

エピソード[編集]

  • 美食家としても知られ、『料理大事典』(原題: Grand dictionnaire de cuisine)という本も執筆している。
辻静雄ほか編訳で、抄訳版『デュマの大料理事典』が岩波書店にある(1993年(平成5年)、特装版2002年(平成14年) ISBN 9784000240031)。
  • ある日デュマが友人と激論を交わし、ついに決闘で決着をつけることになった。しかし友人もデュマも射撃の名手だったので、まともに決闘をしては2人とも死ぬ可能性があった。そこで相談の結果、クジをひいて負けたほうが自らを撃つことになった。はずれクジをひいたのはデュマのほうで、彼はピストルを握り、書斎へ入ってドアを閉めた。数分後、書斎の中から大きな音がしたので心配した友人達が中へ入ってみると、そこにはピストルを片手に立ち尽くしたデュマの姿があった。彼はこういったという。「驚くべきことが、起こった。私としたことが、撃ち損じた」と。
  • 莫大な冨を使い果たし病床に伏せるデュマは自分の子供達に手にした僅かなフランを見せながら「私の財産は、もうこれ位しかないがパリに上京した時に持っていた全財産もこんなものだった、ただ最初に戻っただけだ」と語ったという。

主な作品[編集]

戯曲[編集]

  • 狩猟と恋愛(La chasse et l'amour, 1825年)
  • 婚礼と葬式(La noce et l'enterrement, 1826年)
  • アンリ三世とその宮廷(Henri III et sa cour, 1829年)
  • クリスティーヌ(Christine, 1830年)
  • アントニー(Antony, 1831年)
  • シャルル七世とその重臣たち(Charles VII chez ses grands vassaux, 1831年)
  • ネールの塔(La tour de Nesle, 1832年)

小説[編集]

  • ポーリーヌ(Pauline, 1838年)
  • ボルジア家風雲録(Les Borgia, 1839年)
  • ジョルジュ(Georges, 1843年)
  • ラインの古城(Le château d′Eppstein, 1844年)
  • コルシカの兄弟(Les Frères Corse, 1844年)
  • ダルタニャン物語
  • 王妃マルゴLa Reine Margot, 1845年)
  • モンテ・クリスト伯(巌窟王)(Le Comte de Monte-Cristo, 1845年-1846年)
  • 赤い館の騎士(Le Chevalier de Maison-Rouge, 1845年-1846年)
  • ある医師の回想(Mémoires d'un Médecin
    • ジョゼフ・バルサモ(Joseph Balsamo, 1846年-1848年)
    • 王妃の首飾り英語版Le Collier de la Reine, 1849年-1850年)
    • アンジュ・ピトゥ(Ange Pitou, 1851年)
    • シャルニー伯爵夫人(Les Trois Mousquetaires, 1844年)
  • モンソローの奥方(La Dame de Monsoreau, 1846年)
  • 四十五人(Les Quarante-Cinq, 1848年)
  • 黒いチューリップLa Tulipe Noire, 1850年)

脚注[編集]

  1. ^ 日本語サイト [デュマ家の人々]に、背景が解説されている。

参考文献[編集]

  • 辻昶稲垣直樹 『アレクサンドル=デュマ 人と思想』 新書版:清水書院、1996年。ISBN 438941139X
  • アンドレ・モーロワ、菊池映二訳 『アレクサンドル・デュマ』 筑摩書房、1971年
  • ガイ・エンドア、河盛好蔵訳 『パリの王様 大アレクサンドル・デュマ物語』 東京創元社 1960年、講談社〈名著シリーズ〉、1973年

関連作品[編集]

  • 佐藤賢一 『褐色の文豪』(文藝春秋、2006年) デュマ本人を主人公とした小説。
  • 鹿島茂 『パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック三大文豪大物くらべ』(文藝春秋 1995年、文春文庫 1998年) 3人を比較した評伝。
  • 田中芳樹 『ラインの虜囚』(講談社、2005年) 若き日のデュマが活躍する小説。

外部リンク[編集]